運命に泣いていても
9月に入り、あっと言う間に数日が過ぎました。
以前に余命1年をテーマに人生について考えた散文を載せましたが、限られた人生の時間の中で、本当にやりたいことは何なのか、もし後1年しか人生に時間が残されていないと過程してみた時、僕の場合、心の中に残る大切なものって、音楽というとてもシンプルな話に削ぎ落とされていきました。
きっと苦しい時代だからこそ、もっと心の底から僕らが笑って楽しめる何かが必要な気がするし、愛し合うという感覚を日常的に思い出せることが必要な気がしています。
きっと、大きな視点で物事を俯瞰してみると、大抵の問題は取るに足らないことということなのかもしれません。
余命1年という過程の中で見つめる、僕達一人一人にとって大切なものの為に、今日をより良く彩り、愛の眼差しで世界を見つめ生きていきたいですね。
僕個人としては、最近広島の片田舎にあるライブハウスで歌い始めて、この秋はもっと活発にステージを重ね、自分の伝えたいメッセージを地道だけど確実に、目の前にいる誰かの為に届け続けていこうと思っています。
今日は、先月28日に行ったライブレポートを届けます。
秋の虫の音がオーケストラの様に鳴り響く、広島の夜から。
SET LIST
1 天体観測
2 DEAR FRIEND
3 壊れたルール
4 僕にできること
5 オーロラ
6 愛しき人生
7 ひとりよがり
8 ALL JAPAN
運命に泣いていても
歌えるって、こんなに幸せなことかな。
ある日、シリアで日本人女性ジャーナリストが武装兵に銃撃され、命を奪われた。
その意味が、今の僕ら日本人にはどれくらいリアリティーのある現実であったのだろうか。
経済大国が沈みゆく。
豊かさの飽和した、心貧しき文明への叫びが、今夜も陽気なざわめきの彼方へとかき消されてゆく様さ。
ライブを終え、閉店を迎えた深夜のライブハウス。
満面の笑みで見送ってくれるマスターが、畑で採れたキュウリの入った袋を提げて、カウンターから出入り口の扉の前に突っ立っていた僕の傍へとやってきた。
その袋を有難く受け取ると、ギターケースと譜面を持つ両手の塞がった僕に、わざと甘えた声で、ハグはぁー、といつもの挨拶をねだられた。
僕と歳が二十違うマスターは、親の世代のちょっと下で、だけど人生観はかなり違っている様に思えた。
勿論、人それぞれである訳だけど。
ギターケースを脇に置いて、ハグしていると、不意にマスターが愛情表現のキスまで飛び出す騒ぎで、これだからミュージシャンのファンキーな触れ合いは魅力的であり、本当に心の深い部分から癒される様な思いがして、互いに築き上げてきた信頼の絆の意味を、僕は一人、今こうしてパソコンのキーボードを弾き、綴りながら確かめている。
この夏、三本目のライブハウスHIDEAWAYでのステージ。
一本目、二本目と徐々に調子も上がってきて、とても充実したステージになった気がする。
そして、そういった思いとは別に、この社会という共同幻想が描き出す、おめでた過ぎる平和への危惧感を強く感じているよ。
ライブ自体は成功と呼んでいい質のものを、あの夜体現出来た気がしている。
初めて人前で歌ったロックンロールナンバーである二曲を除けば。
その二曲は、キーの選択も合ってなくて、上手く歌うことが出来なかった。
そしてその時、アップテンポの曲想の中で、ライブハウス内は、一気に陽気なハイボルテージに包まれようとしていた。
まるで、経済行け行けの八十年代みたいな空気感が漂っているかの様な錯覚のする一瞬だった気がする。
その時僕は、HIDEAWAYの親しみ深き小さなステージで歌いながら、途轍もない現実の壁を感じ、それはまるで、シリアであの女性ジャーナリストが銃撃されたという現実を、スイートルームの片隅の液晶画面の中に見つめているほど、のどかで平和過ぎた、この国の感覚の麻痺した日常だった気がする。
僕は、あの夜のステージのラストに選び歌ったALL JAPANを歌い終えた時、正直とても情けない気持ちを抱えていて、ステージを終えたことへの爽快感と共に、相反する様なこの社会への嫌悪と虚しさという感情の中で、今後一体自分は何を求め、どんな風に歌い続けてゆくべきなのか、思考し始めていたんだ。
僕が一曲一曲に思いを込めて歌い終える度に、店にたまたま偶然の様に集まった人達から送られる拍手は、とても胸に痛く、有難かった。
だけど、僕の心の奥に何か引っ掛かる思いが、常に微妙な後味の悪さを残しているかの様に思えた。
ライブハウスで、何の力関係も働かず、純粋に拍手をもらうことは、やってみると結構難しいことだった。
僕は今まで、まるで周囲の輪に溶け込まないでライブハウスで歌い続けてきた。
だから、今から思うと酷い演奏をしていた二十代の頃は特に、会話に埋もれて、僕の歌なんて誰も聴いていない様なステージを繰り返していた。
そういった現実は、現代の日本社会のぶっちゃけのリアリティーというものだろう。
小学校などで教える、「人の話はちゃんと聞こうね」といったフレーズは、いわば甘っちょろい理想論としての体裁に過ぎない様な悲しみが、この世界を覆い尽くしているかの様だ。
僕のステージは、今では客の話に埋もれることもとても少なくなり、昔と比べて現実は随分明るくなっていたけれど、それでも何か、僕には納得のいかない様な社会に覚える理不尽さやルーズさといった現実の壁が、相変わらずどこまでいっても立ちはだかっている様に感じ続けていたんだ。
具体的に言うと、キーの合っていない曲を歌っている時、にわかにライブハウス内に生まれたざわめきに対して、凄くこの世界の残酷さというものを噛みしめる様な思いでいた。
とはいっても、それが自然の摂理でもある訳だが。
自然現象とも解釈の取れる、だけど決して知的な行為であるとも取れない様な、現代社会のモラルの低下。
それは、動物的な退化の色合いすら僕に感じさせる様な光景だった。
そして、それと同時に、近年流行ったハーバード白熱教室のマイケル・サンデル教授が話していた話の内容を思い出す。
その話とは、自分の抗議が上手くいっていない時、決まって学生の間から物音が聞こえ始めるという様な内容で、それは僕のステージが上手く進行していないと感じる時に起こる現象と全く同じだと思った。
化学の領域での脳波への影響としての実験でも裏付けが取れる様に、講義の声や歌声のピッチ一つで、その波動を受ける人々の反応は歴然と違ってくるということなのだろう。
声を使って人々に訴え掛けるエキスパートであれば、そのほんの些細なピッチの変化にとても敏感だろうと思う。
歌声は、ある周波数で響く時、天の神の意識体の乗り物としての機能を果たし、音楽のメッセージに独特の恍惚とした高揚感の様なものを帯びていく様に、僕は感じる。
人間業ではない様な、そんな感覚を覚える。
そして、幾ら上手く歌い上げても、感動の伴わない音楽もまた、無数に存在しているだろう。
ステージが上手く運んでいる時は、勿論静寂の中で歌はリスナーの心のどこかに届いているのだろう。
だけど、静かに耳を傾け、聴いているからといって、曲に込めたメッセージをくみ取っている行為とイクオールでは結べないように思う。
それは、全く次元の違う話なのかもしれない。
そういった事柄の全てを踏まえた上で、僕は自分の脱線しかけていた様なステージに起こっている出来事の真実が掴めず、少し戸惑いと葛藤の様なものを覚えた。
ライブハウス内に生まれた不調和の中で、日常的なリズムを感じ、そしてその意味のさす本質に突き当たり、何か上手く呑み込めない様な社会の矛盾や違和感を感じていた。
音楽をハートで感じ、そしてそれなりにノッてくれたり、楽しんでくれて、心から有難うって思う。
それでも、ステージの脱線に覗いた現実の素顔の意味が、僕にはとても気になって仕方がなかった。
本当に魂が歌の世界に自由を感じ、高揚している姿と、日常的な快楽の延長であったり、また単なるストレスの発散になっていることとは、僕の求めるロックンロールが本質的に向かおうとしている世界観とは明らかに食い違っているんだ。
勿論、エンターテイメントとして大いに楽しんでもらえることも素晴らしいのだけれど。
僕は、そういった些細なことをやっぱりいい加減にして見過ごしていきたくないなと思う。
それが、ロックンロールってことでもあるように勿論思っているし、今社会にロックンロールが聴こえてこない訳の本当の意味に対して、僕自身がロックンロールの力で、今こそ疑問を歌にし、投げかけるべき時だと思っている。
有名無名なんて関係ない。
そんな風に生きてきた僕だから、本当に輝いた何かを、歌を通して世界に一つ一つ示す様に、改めて歌い始めてみようか。
僕は一人、ロックンロールとの誓いをこの胸に刻み、ささやかなステージの続きを、そっと夢見ているよ。
徐々に助走が加速している様な三本目のステージは、なかなか味わい深く、成功だったと思う。
だけど、常に感じているのは社会との壁であり、また僕自身のロックンロールとのスタンスに対する、今一つの不明瞭さという問題に対して、何か引っ掛かるものが心の中にあったということなのかもしれない。
そして、僕は思った。
今はとにかく歌うこと以外に道はないのだと。
それは、別に気取った格好良い話でも何でもなく、きっと当たり前の僕の日常なんだと思う。
生きる為、愛する為の術として、ロックンロールして、そして新たなる道を一歩一歩切り開いていこう。
ごちゃごちゃ哲学をぶってても仕方がない。
社会的矛盾を説得する為の思想哲学を、ロックのビートの中で時空に対し、超現実主義として創造し、芸術の力を世に知らしめる領域にまで、情熱を掻き立てていかなければ、何も始まらない様な気がしている。
歌を聴いてくれた人が、何か非日常的な高揚感の様なものを少しでも感じたり、楽しんでもらえたとしたら、勿論素直にとても嬉しいし、感謝したい気持ちになる。
それでも、両手を挙げて喜んでばかりはいられない様な現実があるのも確かな様に思う。
だから、ロックンロールを歌い続けていく意味が、僕の心の中にずっと存在し続けているのだろう。
歌の力が必要だと感じている人がいたら、たとえ微力だとしても、僕の思いに耳を傾けて欲しいなと思うし、今日という上りなのか下りなのか分からない現実を、共に抱きしめられたらなと思う。
そして、社会的な問題の全ては、きっと僕達の物事へのスタンスを明確化させるべく存在するものなのだろうと思う。
ネガティブな物事に対して、同じ様にネガティブに反応する闘いを続ける日常には、あまり希望を感じない様な気がする。
大切なことは、心から望む現実を僕ら一人一人が力強く生き始めることのように思う。
心の中にある、もう不必要になった古い価値観を一つ一つ手放し、純化していくこと。
それが、本質に回帰する為のロックンロールなんだ。
ただただ優しいだけの歌では、僕は決して満足出来ないということなのかもしれない。
子供が馬鹿なことをしでかしたら本気で叱ってやるのが親の愛である様に、現代にはそんな厳しい愛が本当は必要な様な気がする。
誰だって、わざわざ他人から嫌われる様な口うるさいことを言いたくないと思うものだろう。
それは、人情というものだと思う。
だけど、その態度は本当はとても冷酷な行為ということになり得る性質のものなのかもしれないと、よく思うことがある。
善良な人々の無関心に日常がとてもしらけていると感じることが、僕には今日まで生きてきて、とても多かった。
3.11は、僕にとってそれを証明するのに十分過ぎる重大な出来事となっていた。
ライブの中で上手く歌えなかったロックンロールの中に、ひとりよがりという原発関連をテーマにした曲があった。
そして、僕の暮らす広島からは遠く離れた東北の街を思い歌ったALL JAPAN。
それらの曲を歌った時、何だか妙な空気感がライブハウス内に流れていることを感じていた。
それは、社会の無関心さや冷たさへと繋がる価値観を色濃く滲ませていた様に、僕にはそう思えてならなかった。
僕は、その自分が正直に覚えた社会との一つの葛藤に対して、今後どのように取り組んでいくべきか、そう考えた時、心の中の声が、このままロックンロールし続けろと熱く微笑み返してくる様に思えた。
心の壁を無かったことになんて出来ない。
それは、3.11以前の世界で既に繰り返されてきたこと。
時代はもう変わったのだ。
そして、何か自分の立場と相反する人や物事を徹底的に排除していく様な今までの古いやり方では、決して辿り着けない平和への挑戦の日々が続いているのだろう。
ロックンロールはもう滅びたとさえ言われている、この世界で。
現代の日本人は、自分自身の抱えた心の葛藤の内に生まれる疑問を軸に、人生を構築する様な思考形態をライフスタイルの中に取り込んでいないと言っていい様に思う。
まず、考えたいのは、3.11以前の世界で僕らは何に先導され生きてきたのかという、大きな一つの疑問についてだ。
このテーマを省いて、もはやこの国の将来なんて僕は語れないだろうと思う。
政府をはじめ、メディアや大企業の隠ぺい体質と、金と名声の為だけの刹那的な生き方。
そして、それは僕達国民の姿そのものでもあるのだろう。
テレビや雑誌の影響力の強さは、子供時代から身を持って実感してきたし、ブラウン管越しに覗くと、まるで全てが正義であるかの様な風潮に時代は染め抜かれていた。
インターネットの出現で、それらの幻想もかなりほころびを出し、世論の意識も変わってきた。
世間知らずだった僕にとっても、大きな意識革命へと繋がっていった。
やっぱり僕達にとって大切なことは、世の中の一体何が真実なのか、自分自身の目で見て、感じて、自分なりの哲学をちゃんと一人一人が心に持つということだろう。
そうすれば、どこかの偉い人に幸せについての助言をもらったり、この狂った世界の洗脳地獄に引きづられ、呑み込まれていくこともなくなるのだろう。
左脳教育の落とし穴である、クリエイティブな右脳的発想の転換が最も重要なことの様な気もする。
それは、動物的本能を取り戻し生きるということ。
僕は、何かを生み出す時、情報やノウハウなどは殆どといっていいほど持たない。
それは、本能的な直感の中に本来人は、アイディアや物事の真理を掴む能力を、神と呼ばれる存在によって十分に与えられていると思っているからだ。
直感を使って生き、哲学を構築していくことにより、バランスの取れた人間性や感性は、きっと立派に育まれていく筈だ。
マスコミに踊らされてはならない。
自分の価値は自分自身で決める。
そういったことが本当に今必要で大切にすべきことだと僕は思う。
本当に必要なものだけを持って、それ以外のものは全て手放していく。
それは、精神的にも物質的にも実践していく価値のある、新しい幸福へのステップの様な気がするよ。
世間でいう断捨離のことだよ。
神道の世界では禊ということになるのかな。
それは、本質的なもの以外はNOという文化を示しているのだろう。
愛も仕事も、人間関係も総合的に価値観がひっくり返った様な世界の話だ。
例えばバリバリのキャリアウーマンが格好いいという社会から一変して、平凡な主婦が持つ素朴な母性に神秘の輝きを人々が感じ取ること。
田舎の畑仕事をする老人の顔に刻まれた皺や、柔らかな笑顔に人生の意味をそっと感じ、愛おしいと思える感受性。
そんなことが、僕には一番人間として尊いことの様に思える。
ミュージシャンで言えば、武道館でのライブを目指して音楽を続けていく姿勢に、僕個人としてはとても強い違和感を感じているよ。
勿論、社会的に成功することはとても素晴らしいと思っているし、それはミュージシャン達にとっての夢の形だけれど、僕にとってはあくまでも結果論としての話だ。
純粋に何か大切に感じることを伝え続けていった結果ならば、自然でいいなと思う。
高級車を乗り回し、年収が幾らの高学歴という幸福の形には、もう社会は引き返し、納まることが出来ないのではないだろうか。
将来的な安定も見通せない様な時代の中で、僕らが掴むべきものは、今日を生き生きと生き抜く人間本来の力だけの様に考えている。
3.11以後、日本は弱り目にたたり目で、隣国からのプレッシャーに日々曝され続けている。
こういった時代の転換期は、侵略戦争を起こす大チャンスに違いないだろう。
本当にのほほんとばかりしていられない様な世界の情勢である訳だけれど、日本社会は今どんな在り様なのだと思わず嘆きたくなる様なことばかりだよ。
子供の玩具の様な音楽や様々な娯楽パラダイスで、思考能力が全くと言っていいほど低レベルな偽物の先進国じゃないか。
馬鹿も休み休みにしなさいと叱れる様な存在もいない。
そう思う。
原発問題に対しては、まず放射能は危険だから、皆で正しい情報を求め、ちゃんと正当な恐れを持ち暮らそうねと僕は言いたい。
この国は、国民など一切守らない。
その本音が3.11に象徴されていたじゃないか。
原発が幾ら吹っ飛ぼうが、政府や経済界は金儲けのことで頭が狂ってる。
音楽業界という、いわば最大の民衆洗脳マシーンはどうだ。
何がロックだ、愛だ、平和だ。
本気で愛するリスナーを守ろうと身を呈したミュージシャンが一体どれだけいただろうか。
それは僕だって自分が一番可愛いし、ハリウッド映画の中のスーパーヒーローの様にはなかなか勇敢になれもしない。
人間、そんなに簡単にはいかないことは十分分かっているつもりでいるし、人のことをどうのこうのと責められるほど、全然強くないけれど、だけど僕達にはそれぞれに踏み出し越えていかなければならない社会的一線が今確かに存在している様に思う。
僕が感じ思っている気持ちというのは、やっぱりいつの時代でも、表現者が同調バイアスに負けて作品を紡ぐことが出来ない時代というのは、とても暗くて地獄だということだ。
3.11が起こってから、暫くは何をどう表現していいのかも分からない様な気の動転を感じていたのかなと、当時を思う。
原発について、3.11以前には僕は何も考えてこなかったし、偽物の自由を与えられた籠の中の鳥の様な暮らしに甘んじ、原発依存の社会システムの闇に広がる真実なんて何も知らなかったに等しい。
そして今。
民衆は家畜化された奴隷の意識に留まり、ヘビー過ぎる現実を直視することをためらっている様に思う。
それは、今までそんな風に生きてこなかったから不安がっていることを示す現実の姿なのだろう。
戦火の暮らしの中で、ピカソはあのゲルニカを描いた。
ベートーベンは、音楽を武器に権力と闘った。
それはきっと、自身の迷いを吹き消し、同調バイアスを跳ね除け、真実を掴もうとした人間的な強さからだったことだろうと思う。
闘うべき敵は、外の世界に存在せず、僕らの心の中にこそ存在しているのだろう。
映画の中のヒーローは、いつだってそうだろう。
自分の心の弱さに向き合い、心の愛を守り抜こうと必死になって生きている。
この現実は、僕ら人間一人一人が心の愛を輝かせ、自分の心の中にヒーローを取り戻すチャンスなのだろう。
僕は、心のままに歌い続けることを誓おう。
そして、話は矛盾している様に聞こえるのかもしれないけれど、本当に好きなことをやって、皆心を愛で輝かせ、もっともっと幸せにならなくちゃならない。
精一杯自分をまず幸せにしてやって、社会的な洗脳の一つ一つを愛のエネルギーで自ら洗い流し、浄化していくことが、きっと大切なことの様に思う。
そうすれば、きっとそれぞれが自分らしく社会貢献しながら、もっと人生をエンジョイしていける筈さ。
だから、もっともっと本当の人の幸せや、自然と共存したライフスタイルの中での、物事や宇宙の本質に沿った生き方を求め、生きていこうねと言いたい。
ROCK ‘N’ ROLL!
ロックンロールってきっと、自分が素直に感じたことを、正当に社会に対して訴える姿の様に思うし、間違っているものは、それは違うだろうと、ちゃんと伝えようとすることだと思う。
主張なき安っぽい平和に埋もれて、本心を偽って、理不尽な社会の皺寄せを常に受け続けていたら、それは誰だって頭が可笑しくもなるさ。
それが、きっと現代だろう。
ライブハウス内が陽気なハイボルテージに染まっていく中で、僕は現代人の心に抱えた狂気を感じていたのだと思う。
東北のことなんて知らん顔。何か自分に出来ることは少しでもないだろうかと一生懸命に取り組んでいる人に、社会では偽善者であるかの様なレッテルが貼られることもある。
そして、放射能のリスクをまるで無視した様な経済界の不気味な動き。
ライブハウス内に発生した空気感も含めて、全ては完全に連携し、共鳴している様に感じた。
それは、あえて取る同調と言ってもいい様な気がする。
多くの人にとって、社会的に都合のいい美味しい何かがそこにあるから、その流れは今のところ誰にも止めようがないということなのかもしれない。
やるだけとことんやって、当然その行為に対するリスクも社会で支払いながら、今回の様な甚大な原発事故を招いても尚、欲しいものがあると僕らの暮らしは、欲望に狂っている様に思える。
CRAZY TOKYO、CRAZY JAPANだと海外の人々は見ているという声が耳に入ってくる。
僕らの抱えた暮らしの中で、幸福のイメージに対して持った価値観が、この暴走の原動力として働いてしまっている以上、新しい価値観に遭遇しなければ、この加熱を抑えるだけの現実的説得力として何も意味をなさないということだろうか。
この現実に対して、僕のロックンロールはどんな風に寄り添えるだろうか。
愛してる、ただそれだけを伝えたいだけの様に思うけれど、永遠に辿り着けない様な錯覚を覚える時がある。
きっと、だからこそ、一曲一曲のロックンロールはその幻想を吹き飛ばす為の起爆剤として心に作用し続けていくさだめなのだろう。
数限りない熱き思いが、ライブハウスの扉を開けた夜の街の風に吹かれていた。
見上げた夜空の星の数ほどに、人々の願いが混在する社会の片隅で、僕は今日もロックンロールを愛しているよ。