メダルラッシュ

最近の僕はソロ活動として制作して来た初期の作品を改めて歌い直して行こうと考えていて、今日は初期の作品の中から2曲ライブ音源をYouTubeでお届けしようと思います。

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メダルラッシュ

 

華やかなる夢の舞台である筈のオリンピックが、とても色褪せた世界的スポーツの祭典になったように思えていた。

普段テレビを観ない僕は、iPhoneに1日中流れて来るYahoo!ニュースの見出しで日本人選手達のメダル獲得についての情報を受け取りながら東京五輪の様子に思いを馳せ暮らしていた。

 

 

それにしても日本はメダルのゴールドラッシュだった。

五輪情報に乏しい僕は、偏った現実の解釈に向かってしまっていたのかもしれない。

かなり感で話しているので見当違いなことを言っていたらすまない。

思っていたのは外国からやって来ていた世界中の選手達にとって、今の日本の環境が酷過ぎて実力を発揮したプレイが余りに困難なのではということだった。

コロナに対する対策は勿論のことだが、311による放射性物質の汚染問題があった。

競技開催の地の汚染がまず酷かったのだろうし、食についても全く安全性に信用が持てないという状況に違いなかったのだろうと思う。

日本列島に暮らしている僕達にとっては、狭い国土の中で安全基準を原発事故以前のまま継続させる事は食を流通させる上で経済的に不可能なことだったから放射性物質による汚染に対しては悲惨な状況があったと思う。

それ以外の添加物や保存料等といったような物も含めて、日本の食の安全を守る上での基準というのは相当に意識が低かった。

日本に流通している食品の安全基準を数値として検討した外国の選手達は、余りにも日本の食品の安全性が低く酷いので自国の食べ物を用意してオリンピックに参加しているという事のようだった。

日本政府の本音と体裁を大方理解した上で、嘘と知りつつ日本側の用意した環境に身を投じての東京オリンピック参戦というのがたぶん外国の選手団の気持ちだったのだろうと思う。

外国の選手達は目に見えない不安に常に曝されながら、沢山のストレスを意識下や無意識下で受けていたことだろうと思う。

表彰台迄のプロセスの歩みは、日本人選手と外国人選手の間では余りにも乗り越えなければいけない障害の数に差があり過ぎたのだろうと思う。

外国の国々のメダル獲得が少なくなったのには、日本社会が用意した環境の影響が必ず大きくあった事は事実だっただろう。

日本社会は人に対して実に配慮に欠け優しくなかったに違いないと思っていた。

外国の選手達にとっては、今の日本社会を訪問して来てみると一種異様な時空間に突然迷い込んでしまったかのようは状況がきっとあり、ずさんな環境への対処を生物としてまず行う所からの東京五輪であった気がする。

東京でJRを利用すれば、毎日線路に飛び込む自殺者が後を絶たずダイヤは乱れっ放しだという情報が入って来ていた。

外国人を温かくもてなす余裕などこの国には初めからなかった筈だった。

自国の民の心の叫びさえも受け止められていないのだから。

 

選手達はどこの国の人も皆ベストを尽くし頑張っていたのだろう。

だけど本当に夢のない東京五輪だなと感じていた。

メダルに感動がついて回り難い、そんな時代性を思い寂しく思っていた。

子供達にとってあんな風な大人になりたいと思えるような存在にはなかなか出会えなかったのかもしれない。

ロマンが損なわれトキメキを失くした記録だけが歴史上に刻まれて行くかのような虚しさを覚えている僕がいるようだった。

 

コロナ感染者は爆発的に増加していた。

感染力が強い新種のデルタ株が勢力を増しているのだと報道が流れていた。

コロナウィルスは生物として自らの生き残りを懸け必死だったのだろう。

この世界で全ての生物は、生態系のトライアングルの掟の中で生き残りを懸け戦っている。

知的好奇心を持たない人間以外の多くの生物は、生きるか死ぬかということだけの為に生命活動の全ての営みを続けている。

生きる事は、獲物を仕留め食べることと外敵から身を守ることの2つだけの為に続いて行く。

例えば蜘蛛を見て観察していると、獲物が巣に掛かる迄じっと眠ったように動かず微動だにしない。

だが少しでも獲物が巣に引っ掛かると猛烈な勢いで捕獲に入る。

獲物が逃げて行ったら速やかに定位置に戻り、次の獲物が巣に掛かるのを待ちまたずっと眠ったように動かなくなる。

大きな獲物が掛かると、逃がさない為にグルグルと獲物の身の周りを周回しながら素早く糸を巻き付け縛り上げるようだ。

それらの動きに一切の無駄はないように感じられる。

コロナウィルスもどうにか宿主としての生き物に寄生して生き延びようと必死なのだろう。

市中感染が増え打つ手なしという現実があるということらしかった。

ワクチン接種が本格的に始まりその効果が結果として可視化され易くなったのではないかと思う頃、丁度東京五輪が開催されコロナ感染が広がって行った。

ワクチンの有効性を信じる者もいれば信じない者もいたが、結局オリンピック開催のタイミングがワクチン接種の有効性について現実として結果を生んでいたのではないかと思われる時期に重なり、その有効性を不透明にしてしまったと考えていた。

五輪関連での人の流動が生まれ密集してコロナ感染が拡大することで、ワクチン接種の効果による感染者数が減少しかたという具体的な結果が素人目からして分からなくなったからだ。

まず第1に生物兵器としてコロナウィルスが作られたという話をメディアがいまだ取り上げないのだから、情報操作され先導しようとしていることはもはや明白という話だったと思う。

ネットを使えば国際的は情報が溢れている時代に嘘はつけない筈だったが、今更何をしようというのだろうかと滑稽に思えた。

日本は東京オリンピックを通じて今世界中に自国の恥を曝しまくっている状況だ。

無理やりに五輪開催を推し進めることだけをし続け、諸外国の選手達に対して敬いの気持ちは明らかに向けられていなかったのではないかと思う。

世界中の人々にとって日本へのイメージは相当に落ちたのではないかと思っていた。

幾らメダルを獲得してもはかり知れない大切な価値を失って行ったような気がしていた。

そしてそんな国を作り上げたのは紛れもなく国民である僕達1人1人だった。

今の日本人の生き方が本当に悲しかった。

何もかもがお金儲けだ。

夢も希望もない。

日本社会独特の閉塞した時代の空気感を、東京オリンピックに参加する為にやって来た外国の選手達は皆心のどこかで感じ取り帰国して行くのだろう。

礼儀正しさという点で、外国の選手達は皆今の日本人のよりも数段美しかったかもしれない。

かつての日本人が持っていた感性を今は外国の人が持ち、日本人はそれを失ってしまっていた。

心の中がすっからかんになった日本人の姿が浮き彫りとなった東京オリンピックだった気がする。

おまけにもうお金もない。

ないない尽くしでどうしようもない。

今年はたぶん丁度1945年の終戦の年辺りに当たる年なのかもしれないということを思っていた。

1つの時代が完全に終焉する時代の節目というものがあると思う。

そういった意味で今年は完全に何かが終わったという気がしていた。

 

 

現在のこの日本列島程バイアスが掛かり易い国というのは先進国の中では珍しいように思う。

本当に徹底して思想統制言論弾圧が繰り返されている。

かなりそのトリックは単純なのではないかという気がしているが、大衆がそれを見破ることが出来ない。

大人でも体制側によって飼い慣らされ育つとこんな風に思考停止した人間になるのだなと思う。

僅かな人々だったのかもしれないが、自分を持って生きている人の目からすると権力者達の本音と建て前について良く見えていて現実を理解していたのではないかと思う。

例えばメディアに登場する政治家達の言葉のイントネーションや発言の後のちょっとした仕草にその人物の本音がチラリと態度として顔を覗かせる。

人間というのはそういう風に出来ていると思う。

罪に問われている人物が無実を主張している映像をニュースで見ることがあるが、言葉に上手くすることが出来ないが実際に犯行に及んだであろう事実が表情や身振りや態度全体に滲み出しているなと思うことがよくある。

人を見た目で判断してはいけないと思うが、無意識が体を通して真実を表現するという現象は実際に起きていることだろうと思う。

人間は皆神の分身だから、心の中の神様は欺けないということだろうと思っている。

例えばスタップ細胞を発見した女性について、初めその研究内容を否定するような報道がされていたと思うが、彼女はその状況の中で酷く打ちのめされ悲しんでいて悲鳴を挙げるその精神はひたむきさを湛えているように思えてならなかった。

だから報道されている内容に何か社会的圧力のようなものが加わりたぶん真実が歪められているのだろうなという気がしていた。

結局スタップ細胞は彼女が実際に発見したと今は認められている。

肉体自体が現実の状況の中で1番正確に真実を物語る話し手なのかもしれないということを思う。

社会的な自分の立場を守る為に嘘をついたならば、全ての人の心の中に住む神が自らに嘘を言うなと言うのだろう。

そういう時には、自らを戒めるその声に反応したもう1人の自分が歪んだ形で心の底から体を通して外の世界に溢れ零れ落ちるような現象が起きているのだろうと思う。

本当のことをありのままに告白している場合にも、同じような現象が起き肉体を通して真実が表現されるのだろうと思う。

そういった非常に細やかでデリケートな人間の心の動きを描写し観察出来るような感性を持てるようになると、何が真実なのか自分ではっきり見極められるようになる。

自分の心の中に住んでいる神との対話が出来るようになると、外界の情報に振り回されずに人は生きられるようになる。

そういった感性を育んで行く上で、いい芸術作品に触れるという事は本当に大切なことだろうと思う。

社会全体に感性の分野でいい影響を与えられるように、僕達のようなミュージシャンは一生懸命素晴らしい曲を作って多くの人に聴いてもらえるように頑張らなければいけないと思う。

社会情勢が不安定になり人々の意識が変わりそうになると、いつも真っ先に名曲が街から姿を消す。

ラジオが流さなくなったりするのだが、911の時ジョン・レノンのイマジンが放送禁止になっていた。

体制側は人々が意識を目覚めさせ力を持つことを恐れているんだ。

優れた名曲というものがどれ程人々の意識に影響を与えるかということの実例だと思う。

 

悪事の数々について沢山のことがバレバレなのに、すっと呆けた振りをした日常が演じられているばかりといった状況だと僕は思っていた。

僕を取り巻く日常的な環境のレベルは体裁を繕うばかりのようで寂しさを覚えていた。

踏み込んだ話をすると、意見がぶつかり合って人間関係を破壊して行ってしまうような社会構造の中での複雑さが人々を互いに孤立化させていたように思う。

 

バイアスに取り込まれて生きる人々の心理について思う。

人は現実的に生きることを考えているから多くの人にとってはそれが人生の最重要課題となっていたのだろうと思う。

生物としてある種とても正しい方向性に向かってバイアスに取り込まれた人々は歩んでいたと言えるのかもしれない。

そのような反応を示す条件付けを与えられている訳で、正しくそれに反応しての結果だったのだろうから。

 

群衆が経済大国という名のラビリンスの中で愛の迷路を彷徨い歩く時、幾ら手の届かない理想や憧れについて語っていても現実は立ち行かないと考えそういった諦めの上に真面と言われる理屈っぽくてクールな思考を常に形作り持ち歩いているように思えていた。

だがその流れを変えなければ人生は失って行くことばかりにやがてなって行くだろう。

やっぱり政治は大衆の心の写し鏡なのだなとつくづく思う。

可笑しいと思うことに対して社会的な圧力が掛かるからと息を潜めNoを言えないで暮らしていたのでは、いつ迄経ってもこの社会に救いはもたらされはしないだろう。

救世主は国民1人1人に違いない。

だがそうは言っても一体何から手をつけ始めれば良いのだろうか。

そういった問い掛けが常に心の中に浮かんで来るのは、きっと僕1人だけではなかったのだろう。

体制に逆らい正義や真実を幾ら声高に主張してみても打ち負かされるのは必至だった。

皆そのことをよく分かっていたから、社会の中で上手く立ち回るということを身に付け覚えながら大人になって来たように思う。

社会システムの中で敗北を記す言語や行為というのは愚かでダサイということになっている。

それが本当は正しいことであったとしても。

人は現実としてやっても無駄な事はしない。

蜘蛛が巣に掛かった獲物を仕留める為に必要なことだけをしてあすに生き延びようとするのとそれは同じだ。

時代の中で人は少しずつ生き方を変えて行く。

 

だが今回のコロナワールドでは人の生存に関わるエリアに問題が浮上して来ている。

やっても無駄だったことを実践しなければもう立ち行かなくなって来ているのだろう。

という事は、革命が人々の意識によってもたらされる可能性を秘めている時代だという事のような気がする。

革命が生じる必然性が時代に働いているようだった。

生きとし生けるもの全てが懸けて戦っている生存の名の下に。

だがコップの中に閉じ込められたノミは、やがて跳ねても無駄だと分かると跳ねなくなる。

 

今の日本人がそうなのではないか…

 

311が起きて原発安全神話が崩れ去ろうがコロナパンデミックが仕組まれ権力者層からの先導の日々が続こうが、自分で考えて行動を取ろうとはしない国民の姿を僕は悪い悪夢でも見ているかのような気持ちで見つめながら暮らして来た。

社会によって決められた通りにただ生きて褒められることだけをする。

こういうのを愚かな大馬鹿者っていうのではないか?

これではきっと誰にとっても本当に希望がなくなって行ってしまうように思えていた。

自分の意見というものがないことの深刻さを物語っているようで恐ろしく感じていた。

皆で現実を見ずに御伽の国で手を繋いでスキップを踏みながらハイキングをして楽しんでいるようなとても危うい生き方に思えてならなかった。

体制によって洗脳され夢遊病者みたいになってしまっている。

戦後からずっと。

 

 

東京オリンピックが終了し、世界各国からやって来た選手達が日本で経験したずさんな環境の中での自らの競技の体験を告白し日本政府を批判し始めていた。

いつものことながらメディアはその情報を一切流さなかった。

そして政府はコロナワクチンを義務化へと向かわせる為の法案をオリンピック期間中にさっさと可決したようだった。

国会議員や国家公務員は打たなくてもいいということらしかった。

そこ迄分かり易い法案を通していてもその意味が何を物語っているかこの国の人々は本当に分からなかったのだろうか。

コロナウィルスは人為的に作られた生物兵器であったということが既に明かされていた。

そしてその予防に努めるワクチンの登場というのが実に怪しげなものである事は明らかな筈だった。

結局全て権力者層の自作自演で、何かの目的を果たす為に行われている劇だと考えるのが正論のような気がする。

コロナパンデミックを封じ込める為にワクチン接種が必要という政府の主張自体が可笑しいと感じないのは人間的感性の欠落ではないだろうか。

それともそう感じてはいるが、そのことに対し抗議したり行動を取ると自分が社会から省かれると恐れて息を潜めているということだろうか。

どちらにしても人間として恥ずかしい生き方をして来た結果ではないだろうか。

僕が言い過ぎなのか。

いや。

違う。

たぶんそれが今の日本人の紛れなき姿だ。

 

秩序やモラルが完全に地に落ち間抜けな国に成り下がったこの国で、2021年8月のお盆を迎える目前の頃東京五輪は閉幕していた。

グダグダなおじさん達や賄賂と接待と政略結婚なんかの柵の巷に、希望に繋がるものは何1つないかのようだった。 

街は見栄と偏見の吹き溜まりだ。

いつも下を見て社会的弱者をいじめながら生きている。

それが日本だろう。

責任転嫁塗れの無責任な生き方が袋小路に追い込まれ、愛を求め彷徨うラビリンスに出口はないみたいだった。

80年代のバブル絶頂の頃のあのお祭り騒ぎの成れの果てが今日だ。

この国にとって今救いとなるものはなんだったのだろうか。

たとえ金銀銅のメダルを幾つ並べてみても何か虚しさが残る気がしていた。

 

オリンピックに出場した世界各国のアスリート達が素晴らしい事は僕が言う迄もないことだっただろう。

毎日休まず自分自身と向き合い、自分をたぶん時に追い込みながら己の技を磨いて来た人達だ。

選手の皆さんには心からご苦労様と言いたい。

日本人とか外国の選手だとか分け隔てはなく、皆さんよく頑張られたのだと思う。

拍手を送りたい。

僕達に世界的なスポーツの祭典であるオリンピックを通して人類の可能性を見せてくれてありがとう。

 

 

東京五輪が無観客にて終了し、曝け出された日常が素顔を静かに現し始めていたようなお盆目前の頃の事。

この夏久しぶりに我が国で開催されたオリンピックへの思い等徒然なるままに書き留めておいた。