JACK
※このJACKというタイトルの記事は、暫く前に書き始めていたのですが完成したので公開しました。
JACK
僕らの過ごす日々は、目まぐるしく姿を変えながら猛スピードで加速し移ろい続けているように感じている。
昨日の出来事への世の中の捉え方は、もう今日には使い古された常識であるかのように様を変えて行く。一日二十四時間を刻む秒針のリズムに、僕はそんな風なスピード感を感じていたのかもしれない。全てが急速に変化を遂げているかのように感じていた気がする。
僕は四月五月とXを覗き、世の中の流れを見つめて来た。
長らく覗くことのなかったこのSNSは、知らぬ間にツイッターからXへと呼び名が変更されていた。ツイートもポストと呼び名が変わる等していたが特別使い方に違いがあったという訳ではないのか、新たに利用する上で困ることはないようだった。
Xは市民メディアとでも言えば良かったのだろうか。
大手新聞社の記事がデマや洗脳に塗れていることやテレビが嘘ばかり伝えていることも、市民レベルで段々と理解されていたのだろう。そのきっかけとなったのはコロナワクチンだったように思う。ワクチン後遺症に苦しむ人々が世界中に溢れていた。
こんな風な事態に陥ってみて、初めて政府の主張には偽りがあったのだと国民レベルで深い議論が生まれ出していたように思う。
侵略もなく長らく続いて来た平和もどきの生活の中で、日本人は親の愛を疑わないのと同じようにたぶん社会通念みたいなものにある種の信頼を強く持つ国民性を育んで来た気がしていた。性善説的に心の愛を信じているかのようでありながら、だが現代特有の冷めた感情も持ち合わせていて、信頼しながらも何も信じていないかのようなある種矛盾したメンタルバランスを感じるような思いになる。
僕らは掛けられた洗脳から容易くは脱却出来ないみたいだった。
身近な親世代にはネットは余りしない派も沢山いたことだろう。自分の食事の面倒を自ら全て見ている僕の食生活を気遣い、栄養が良いと信じて疑わない牛乳を飲めと勧めて来てくれる身近な存在である親世代の姿があった。だがこの昭和の時代の牛乳信仰は、僕の中では既に崩れ滅んでしまっていた。親世代との間にはジェネレーションギャップがあり、話がなかなか上手く噛み合わないことがあった。
こんな時は話を聞き流し、相手の信念を尊重し見守るくらいしかやりようがないのかなと思っていた。自分の意見を伝えたとしても、きっと人は自らの信念を覆すものに対してまず身構えてしまう生き物であったのかもしれない。表現者にしても本当に新しい者は初めは理解されないものなのだろうし、寧ろ拒絶から始まるといっても良いのかもしれないなと思う。人は安定を揺るがすものを排除しながら、時代を遠く彷徨っているかのようだ。
コロナワクチンに対する考え方は、この国の人々や世界の人々の人生観を深く内観する象徴となった気がする。
コロナワクチンについて、僕は311の時の福島第一原発事故による放射性物質の問題に類似する特徴を見る思いがしていた。
資本主義の中でどう立ち回るか。損得の優先するような社会風潮に対し、心の中に募らせていたような気がする悲しさが僕の心を支配しているように思えていた。コロナワールドに遭遇して尚一層風潮は色濃く時代を冷めざめと彩って行くかのように思えていた。時代により何を信じ生きて来たのかと神に問われているかのような、審判の時を迎えているように思えていた。心の中がまるで透けて見えるかのように、隠されていた物事が告白を続けるような時間が流れ去って行く。
コロナワクチン集団接種と聞くと何だか僕の心の中では集団自決とイクオールで結び付き自動変換され、神風信仰の素顔が覗いているように思えていた。
科学的に証明されぬものの立場は非常に脆く、世の中は権威の力になびく。大衆心理として肩書きに弱く、有名な程優れていると思い込む癖みたいなものが真実から心を遠避けていたのかもしれない。
コロナワクチンを巡る様々な憶測がコロナワールドの過ぎゆく月日の中駆け巡り、何が正解か証拠を上げて語ることは誰にも不可能なことのように僕は感じていた。
外国の医師が真実を突き止め警鐘を鳴らす動画を、旧ツイッター時代に目にする等して来た日々を振り返る。
医師はたぶん水酸化グラフェンだと言っていたように記憶しているが、コロナワクチンの成分の中に水酸化グラフェンを発見したその医師が危険を知らせていた。
カミソリの刃と同じ構造体であり非常に安定しているらしく、体内を傷つける仕組みについて語られていた。世界中のアスリート達が試合中にバタバタと倒れている動画が旧ツイッター時代に流れていたことを思い出す。この話はたぶんそんな頃の話になるのではないかと思う。医師はインターネットを通じ真実を伝えようとしていたように思うが、残念ながら暗殺されてしまったようだった。忌まわしきファシズムが世界を取り巻いている実態が露呈する大犯罪だと思ったが、多くの人々にとってはまだ陰謀論という扱い止まりとなる確証を得難い案件であったようだった。
僕のような一市民が危惧の念から幾らわめこうが、人々は打ち込まれた洗脳による信念体系の中でしか物事に反応しないように思えていた。
常識の囚われ人であり、心に安定をもたらしていたのはカルトまがいな社会通念であった気がしてならなかった。
僕はそんなコロナワールドを彷徨いながら、自らの感性に響く情報を取捨選択しながら暮らして来たように思う。
この狂った世界では、頭で考え過ぎるとなかなか真実には辿り着けない気がしていた。
世の中はたぶん条件付けされた思考の中で周り続けている。たぶん僕もそんなカルト的宗教の信者みたいなものだったのだろうと思う。一部の天才はその矛盾に鋭い感性を向け、嘘を見破り生きることへの苦しみを感じながら生涯を過ごして来たのかもしれない。本能的にその社会の偽善性について感じ取ってしまう人は、なかなか生き辛い世界に違いなかったことだろうという気がする。
恐らくそんな風に時代性をキャッチし自ら危惧する思いを作品へと昇華して大衆にメッセージするだけの器を持った表現者は、残念ながら二十一世紀には不在のようだった。だが逆に言えば民衆一人一人こそがリーダーであり、カリスマが君臨する時代ではないということだったのだろうか。
日々の暮らしの中で基本的に人は文明の中での洗脳を受け、様々に心の中に打ち込まれた価値観により情報にラベルを張り取捨選択をしていた気がする。
洗脳されたマインドでの取捨選択は、きっと誤りだらけとなってしまうものなのだろう。もっと研ぎ澄まされた野生的生存本能みたいなものに直結した感覚で情報をキャッチしながら、風潮の流れに惑わされず自らの感性に響く情報と繋がり人生を切り開いて行くような生き方をすることで、様々な困難を乗り越えて行かなくてはきっと生き延びることが許されないような厳しき時代性を僕はひしひしと感じて来た気がする。
コロナワクチンについてどう考えるか。
それは恐らくそれぞれの人の意識レベルが磁石のように作用し、信念体系を司るマインドの周波数と同調する観念に付随し行動が取捨選択されて行ったということだったのではないだろうか。これは理屈の部分を越えていて、周波数同士の引き合いによる融合という気がしていた。他人がとやかく言ってもなかなか信念を変えることはたぶん難しかったことのように思う。実際に自分で体験を通して物事を理解して行くこと意外には、人は偏った偏見を持ってしまった意識の中で事実を見極めフラットな意識に戻り現実と呼ばれている体験を通過することは難しいものなのかもしれないと思う。
コロナワクチン接種に関連したトピックには、政府の偽善性を見破るまでの国民の葛藤が存在していたように思う。
戦争のない国で社会構造について真剣に悩み青春を通過し大人になった人は、たぶんそんなに多くはないのかもしれない。
この偽善だらけの社会に生かされたならば、本来僕らの青春は暗いものであるような気がする。様々に思い悩み葛藤を抱えるべき期間だという気がしていた。
だがどうだろう。
実際には高校生は人生で最も楽しい時期だと感じる若者が、たぶん大半をしめていたのではないだろうか。そこに現代の社会からの洗脳度がかなり表れている気がしていた。
高校生が人生で一番楽しい。
ある意味ド正解である気がするが、だがその心理には社会に対する諦めが初めに既に確立されていて、これは奴隷根性と言われる信念に付随する悲しくて危険なものだと僕は感じていた気がする。体制に支配されマインドを酷く傷つけるられ飼い慣らされてしまっている。そんな風に僕は感じていた。
たぶん人生に対する悩みって畑に蒔かれる肥料みたいなもので、青春はどれだけ物事について悩み自問自答を繰り返して来たかということが人生の土台を形成する上での大切な財産となるような気がしていた。
コロナワクチンに関連したトピックの問題に直面して行く壮絶な日々が、まるで時代を成熟へと導く厳しき指導者のような働きを担っていたのかもしれない。
嫌だけど目を背けて来た高度経済成長期やバブル期等に山積させて来たであろうと思われる社会的な課題が、後付けで日常にどっさりと積まれたかのような状況だと言えたのかもしれない。
僕個人の話だが、二〇二二年はバンドフレンチトーストの作品として戦中お見舞い申し上げますというタイトルのアルバムを制作しコンサートを二回開催した。
コロナをテーマに掲げ、この国に流れ続けていると感じていた神風信仰についての思いを作品の中に刻み込んだつもりだった。
神風が吹くと扇動されながらワクチンパスやマイナンバー等様々にファシズムにより包囲されて行く日常に対する僕なりの警鐘を鳴らす活動だったつもりだが、メッセージを拾ってくれる人にはなかなか出会えないように感じていた。
同調圧力が強く働く日常に弾き飛ばされる僕の主張。恐らくはそういった状況が続いていたのではなかったかという気がする。
僕の心の中では、日常の中で暴力に出会い差別を受ける屈辱の爪弾きのその名は神風だった。
言い争い意地を張り合う尖った勢力争いに解決の日は訪れないかのような重た気な日常に抱えていた問題が山積し、右も左も行き止まりの袋小路に追い込まれて行くような絶望を僕は感じていたのかもしれない。
だがそんな日常もここに来て一気に様相を変え、流れが大きくシフトチェンジして来ているようだった。
戦中お見舞い申し上げますというフレンチトーストのアルバム作品の中でミステリーのエピローグというタイトルのナンバーがあった。
コロナワクチンに対する危惧を歌った曲だった。身近な存在に聴いた感想を尋ねたことがあった。ライブバージョンで演奏前に台詞入りだったが、ゴチャゴチャしていて情報が多く頭が忙し過ぎて良く分からない。たぶんそんなような感想だったように思う。曲の感想をくれた人は、ごく平均的な意識の日本人という印象を受けていて、恐らく世の中の多くの人が同じように感じるのかなと僕は思った。まるでメッセージが響いて行かないような、手応えなき感覚に終始する活動になっていたのかもしれない。
だがコロナワクチン後遺症についてリアルに人々が問題に直面していた今は、日本社会の常識が数年前のコロナワクチン接種が開始された頃とはもうすっかり変わってしまっていたように感じていた。
政府や医学を信じコロナワクチン接種を受けだが、後遺症によりトラブルが発生した日常に嘘があったことを多くの人が肌感覚で体感していたのだろう。これは僕の主張していた野生の感性の中に響く感覚ということが言えたのかもしれない。頭のいう理屈ではなくて、既成概念に縛られない生まれ立ての自由で素直な人間的反応である気がしていた。プロパガンダからの被害に、現実問題として直面してしまう前に回避する能力。たぶんその能力がこの社会に山積している問題を片付けて行く一つの大切な力なのかもしれない。その能力を高めるには、何度も失敗しながら学ぶしかなかったのかもしれない。その能力を支える感性を育て失わない生き方を多くの人が実践出来たとしたら、民衆の暮らしの中でたぶん権力者達のファシズムがつけ込み介入する隙がなくなって行くような気がしていた。
二〇二四年である今年、フレンチトーストは結成十周年を迎えていた。
僕は記念アルバムを制作しておきたいと思い、急ピッチで仕上げて行った。コンサート開催も考えた。結局お客さんが集められなかったことと、フレンチトースト結成の地のきららカフェでのコンサート開催が難しくなったという理由等があり開催することが出来ずにいた。
そんな状況の中Xを通じて社会が日々激変して行くような様子を見ていた僕は、ソロ活動に戻ることを考えた。
フレンチトーストの活動で僕はラフでフランクなノリに思えるその音楽性を楽しんでいたが、時代にロックンロールが必要な時のような気がし始めていた。ソロではロックンロールをやっていた僕だった。
この世界には、たぶん今全くロックンロールがない。
コロナワクチン後遺症の問題がこんなにも顕著に浮かび上がった世界に於いて、その実態について訴えるロックが生まれて来ないということに僕は人類の希望のなさを感じ嘆いていたのかもしれない。
世界クラスでもそれを表現するだけの器のあるミュージシャンが不在である現実を目の当たりにしていると感じていたように思う。
911の時その現実に対して曲がリアリティーに着いて行けないといった内容の発言を、佐野元春さんだったか口にしているのをテレビで観た記憶があった。
なるほど。確かに。
僕はそう思ったような気がする。
テーマが壮大過ぎて表現が間に合わない。
自身で曲を作るミュージシャンにとってそんな現実があったのかもしれない。
コロナワールドについて歌うことは難しいことなのかもしれない。
だけど口籠もり主張しないという訳にはいかない思いを、僕は感じながら日々を過ごしていた。ロックンロールをやって来た以上、それはある意味義務だと思っていた。
だがこれは命懸けの義務で、他人が当人に指図出来るようなことではない気がしていた。
311の時斉藤和義さんが、自らのヒット曲の替え歌で原発の危険を訴えてくれていたけれど、本人の危機感から生まれる正義感みたいものに思わず突き動かされての行動だったのではないだろうか。
世の中真実を歌えば正義が勝ち取れる等と、安易に思える程青臭くもない僕だったのかもしれない。何を歌っても焼石に水。無名一ミュージシャンがこの社会の構造の中で這い上がり成功した例を僕は知らなかったように思う。まるでやっても無駄なことのように思えてしまっている中年の力ない僕がいた気がする。だがきっとそれでは駄目だと感じてもいたのだろう。模索を続けなくては、自分で歌を作り歌うミュージシャンとして失格ではという思いに駆られていたような気がする。
斉藤和義さんは自らのヒット曲の替え歌として原発利権社会に物申してくれたが、詳しくはないのだが新しきナンバーとして歌を社会的な場に誕生させてはいなかったのかもしれない。歌を作ることは出来たとしても人々から共感を得役立つ、そんな生活の中で力を発揮するような曲を生み出すことはかなり難しき話だったような気がする。
ミュージシャンを長くやって来た僕だけど、自らの体験からヒット曲は狙って作れるものではないかもしれないなと思う。
ある程度は可能だとは思うが、名曲の誕生を望むのはそれはかなり難しいことのように感じていた気がする。
僕の経験の話なのだがライブハウスで歌った時皆に受け入れられる曲というのは、初めて歌った時に聴いた人が何らかの感想を自然と口にし伝わって来るということがあった。曲にヒット性がありそうなってしまうようだった。そしてそれは曲を作った本人の僕の思いとは違っていて、予想外に曲が一人歩きして人々に受け入れられて行くという体験だった。
そんな体験を振り返りながらコロナパンデミック条約というWHOに関係する条約について様々に思い巡らせ、このテーマで曲を作ろうと日々を過ごしていた。
曲は直ぐに書けたが、だからといって社会に役立つだけのナンバーであるのかという問いについて予測することは不可能に近かったのかもらしれない。ある程度多くの人に受け入れられそうに思える曲が作れたとしても、実際に社会の中で人の生き方にまで影響を及ぼすような力のある曲を作れるかどうかなんて意図して出来る範囲のことではなかったのかもしれない。だがより良い社会の実現を願い、今やれることを今ある能力でやるしかなかった。社会的に存在意義のある曲を作ろうと僕個人が幾ら奮闘してみた所で、そんなに容易くは果たせぬ希望についての話なのかもしれない。だがそれでも音楽をやって生きて来た僕としてはトライを続けていたかった。国民の暮らしはもはや希望が見出せないような極限状態にまで追い詰められて来ていたように思う。取り敢えず JACKとROCK DOWNというタイトルの二曲が生まれた。自己満の領域で人類史の中の藻屑と消える蚤であるにせよ、闘うことから始めなくてはならないと感じていた。
ロックで時代をパッシングすることは、たぶんとても難しい。
歌詞が批判の領域に留まることもあるだろうし、その先にまで突き抜けて行くような希望の光となり混乱の世を明るくするようなことにはなかなかならないものなのかもしれない。
ロックについて色んなことを思いながらロックから思想性みたいなものが失われ退化して来た現代であるように感じているが、豊かな人間教育への可能性を僕はロックに見い出そうと探していたのかもしれない。
真の自由。
平和。
愛。
真実なんてもう誰も口にしないような時代。
生存競争の中馬鹿を見て取り残されてしまうことにはもう辟易で傷つくことに臆病になり、僕らは自らの感受性を虚勢しながら物事を分かったような顔をしながら生きて来たのかもしれない。
東京の駅で人が倒れてももはや誰も足を止めない。そんな社会の姿があるようで、Xでそんな日本社会の日常の素顔を垣間見ていた。誰かを助ける為に立ち止まれば自分が社会の皺寄せを受けてしまう程に時間に縛られ、暮らしには義務化された理不尽な要求が政府から付き付けられていたということが言えただろうか。追い立てられる街の喧騒の中で、人々は大切にしなくてはならなかった筈の人を思う心の愛を捨てながら生きて来たように僕は思う。それはやるかやられるかの戦争体験だったような気がする。
ロックンロールが滅びた社会で、僕は今何を主張すべきなのだろうか。
偉そうに人に何かを言えるような立場にはない人間であることは、それなりには分かっているつもりだった。自己責任論が蔓延する社会の片隅に生かされていて、ともすれば自分に駄目出しばかりの日常が続いていたのかもしれない。自己責任という言葉は鬱社会の代名詞であるかのようだ。一パーセントのエリート層から生まれた、愚民を嘲笑い心を殺す為の言葉の暴力である気がしていた。たぶん僕はか弱き子羊かもしれない。だがまだ諦めてはいない。諦めたら本当にゲームオーバーだったのだから。大したことは出来ないかもしれない。だけど細やかであったにせよ、自分に出来ることをやり続ける勇気を失わないでいたいと思った。かなり心はぶっ壊れてしまっていて機能不全に陥っていたような気がするが、希望の未来に向かい前進しようとするその歩みを止める訳には行かなかった。日常は暴力に溢れ悲しみの色に染まって見えていたとしても、次の山がどう動くかなんて誰にも分からないのは確かなことだった。
たぶん今時代はロックンロールだ。
ロックンロール以外に今の混沌とした世界情勢を打破し、希望に突き抜けて行くような熱き情動を伝える表現手段はないのかもしれない。
mRNA。
初めから絶対に人体に打つべきではなかったワクチンだと、僕はそう思う。
過去のワクチンとはもう比較すべきではない呪いの強さみたいなものを感じ、忌々しく思っていた気がする。
きっとヤバ過ぎる代物だと感じていたのだろう。
大量虐殺計画。
人類をアウシュビッツ収容所送りにして、地球を統治する野望に燃える種族。
そんな人々が実際にこの世界に実在していて、日本政府もその手先なんだという実態が遂に明かされていた。
コロナワクチンは生物兵器。
人を殺す為の集団接種。
日々急速に明かされて行く確定事項が並ぶ。
かつて陰謀論と呼ばれていた実しやかな話が、現実として姿を現していた。もう疑いようもなく否定する余地はなかったと、僕は個人的にはそう思っていた。
岸田総理は日本を治験大国にすると明言した。
だが僕らは国の所有物ではない。
勝手な取り決めをされては困る。
自民党という大犯罪集団が国会議事堂をジャックしていた。
国会内で国民の声を体現し語ってくれていたように感じていた令和新選組の議員に、口封じの厳重注意がなされる。誰が聞いても可笑しな話だろうと思った。本当のことを言う議員が罰せられ、犯罪者が野放しのままだった。今更自民党に権力を持たせておくべきかどうかを議論をするような段階にはもうなかった。これは僕個人の考えだが、もう完全にNGだった。犯罪者集団であり投獄すべき人々であり、与党としての資格は白紙撤回しかない状況だったと思う。国を私物化した脱税犯達が、自分達のことだけを考えて国民に対しファシズムを振りかざしていた。自民党を擁護出来るだけの材料はもう残ってはいないと僕は思った。党を解体し滅んでもらわなくては日本が終わってしまう。自民党政治を終わらせなくては次がもうない。きっと今は反戦反核を声高に主張することの出来る最後のチャンスなのではないだろうか。言論統制や思想統制の先にあるのは、デジタル監視社会なのだろう。マイナンバー辺りから締め付けが始まっているものと思われる。移民を受け入れ文化を破壊し、世界を統治して行くアウシュビッツ計画が進行しているものと思われる。
この話はコロナワクチンに纏わる詐欺の話所ではなく、恐らく今の文明社会を埋め尽くしている物からは想像が及び辛いようなテクノロジーの発達したSFの世界の中のような未来での大犯罪の話になるのではないかと思う。
僕はミュージシャンとして生きていて、幾つも無限に存在するであろう未来が音として聴こえる気がしていた。音楽は周波数で、様々な領域にある現在過去未来に意識の波長を合わせれば音楽としてその世界観の宿すリアリティーが聴こえて来ていたのだろうという気がする。それを上手く曲にして人々に伝えるのが、音楽家の役割の一つなのだろうと考えていた。
例えば映画監督のスピルバーグはAIって作品を通し、映画の世界でそれをやっていたのだと思う。
ブラックボックスの開いた世界で自民党員等の国民を支配することへと向かう人々の乗り合わせた未来行きの電車が、時空の壁を越えるように狂気の情念を燃え上がらせながら走り続けて行くようだ。
そしてそれとは真逆で、地球市民としての自覚に目覚めて行く人々の意識の覚醒も加速していたように思う。
真実に気付き、政府にNOを叫ぶデモ参加者達。生きる権利を懸け立ち上がる人々。誰が救ってくれる訳でもないと悟り、人は自ら感じ考え行動を始めていたようだった。
僕は僕にしか出来ないやり方で愛や真実を叫びたいと思う。
来たる五月三十一日。
この日国民運動として、東京の日比谷でデモが実施される予定となっていた。先月の話だが、四月十三日に行われた池袋のデモには驚いた。何万もの人が参加していた。大方のメディアからは情報が流れて来ることはなかった。このデモ集会について知った時、普段余り自分の政治的スタンスを表明しないように思えていた日本人が時代性に危機感を募らせ立ち上がったと感じるような喜ばしき出来事だと思った。
令和六年の世で、五月三十一日に国会議事堂を民衆がジャックすることを僕は願う。
レプリコンワクチンは滅亡へのカウントダウンに他ならない代物だと思う。
その推進にはどんな正義もない。
全ては欲得の為の偽善であり、嘘でしかない。
日本のDSの大犯罪を許してはならない。
独裁国家の誕生を阻止すべく、自民党解体以外に道はもう一つも残されてはいないと僕は思っていた。
きっと様々な国民感情があったことだろう。
自民党を支持する人も当然いたことだろう。
だが脱税犯が改憲を語り、独裁国家誕生を目論んでいることが明らかな今、どんな主観があるにせよ国民生活の人権を守りたいのであれば自民解体一択しかもはや道はないと僕は思う。
アンケート調査で生活に安定を求め自民に期待する人の姿があった。役者を使ったプロパガンダだったのかもしれないが、今更独裁国家誕生を目論む悪しき自民党に期待すること等ないと人権の守られた国を望むのであればそう言わなくてはならなかった筈だった。これは個人の趣味とか主張とかそんなレベルの話では既になくなっていると思っていた。取り敢えず自民党を政権の座から引きずり下ろしてからの話でしかない。議論したいなばそれからにしたい。今は緊急を要する。独裁政権が誕生するか否かの重大局面だった。恐らく自由にものを言うことの出来るラストチャンスではなかったのだろうか。そんな風なことを考えていた。
僕らは二次元的なお花畑に生きて来ていて、実際にそうなってしまってからようやく困った現実問題に慌て出すような性質が見られるように思う。
これは現代の日本人特有の心の病気なのかもしれないなと思う。反応が余りに鈍くてヤバい。僕を含めての話だと思っている。たぶん怒りを表現してはいけないとか、社会的なマナーを教えられ飼い慣らされて来た結果だったのではないだろうかと考えていた。だけど今は人の心の愛を傷つける狂ったルールを破壊しながら、自らの心が正しいと感じる道を切り開いて人生を歩んで行く強さが必要な時だったように思う。だから失敗を恐れずトライする勇気を持ちたいと僕は思った。ふと気付けば社会全体に蔓延していたように思える諦めムードみたいなものに流され、か弱き子羊を演じているような自分の姿に気付くことがあったような気がする。未熟な僕だとは思うが、自分とまだ闘っていたいとそんな時は思った。
自分も含め世界中の多くの人々の心が段々と制御不能に陥って行くかのようで、そんな暮らしの中で裏も表もないようなリアルが顔を覗かせているように僕は感じていたのかもしれない。
色んな信念体系の下に主義主張があったにせよ、自民党をまず解体しなくては次がない。
もう全く選択の余地がなかった。紛れもなく当たり前のこととして社会的に誰もが認識出来る状況になっていたと思うが、くどいようだが重ね重ね伝えておきたい。自民党だけは絶対に駄目だ。裏で繋がっている政党も当然駄目だ。
古い政党はどこもかしこももう駄目になってしまっていたのだろう。
政党の国民に寄り添う振りに簡単に騙されてしまう、国民性の人の良さに悲しさを思う。コロナワクチンへの考え方がそのことを顕著にしたと思う。残念ながら感性で詐欺を見抜けなかった。それは確かな事実だったように思う。
人の豊かな感性を削ぐことが、支配者層にいる人間達にとっての義務教育課程に於ける命題だったのだろうという気がする。
僕らが百パーセント同じ正義を共有し意見が同じになるなんてことはないと思うが、取り敢えず言論や思想の自由が約束された社会を望むのならば自民党の解体は誰もが共有すべき必須課題として目の前に表れていたのだろうと思う。
そうでない現実を望む人にとっては、また別の課題があったのだろう。
僕は地球市民が主役となる、そんなピースフルで平等な社会の実現を願う。
この記事に書いて来たことは、あくまでも僕個人の現政権や政治等への思いだが、国民の皆様はどう思っていたのだろうか。
紹介しているYouTubeはJACKというタイトルの曲です。
JACK
Words & Music by Yoshinori Sugawara
不要不急の外出を自粛してもう数年
ホームステイ マスク 手洗い うがい ぶち込まれたワクチン
ワイマール憲法の手口に似た日本政府
ディープステイト グローバリズム 外資系に国を乗っ取られて 国会は劇場化したまま
国会議事堂をJackせよ 国家権力の大犯罪 虐げられた子羊達
国会議事堂をJackせよ
国を変えるのは今しかない
大手企業の社長がニュースでマイナンバーの話
保険証廃止に躍起の大臣 一味なら不買だろうな
あくせく働いて血税絞られる
民衆の暮らし小指の先ほども気に留めない 能登は放置プレイ 議員バッチを奪い返せ
国会議事堂をJackせよ 六人に一人貧困 這い上がる術奪われ
国会議事堂をJackせよ
気がいいだけじゃあもう殺される
コロナパンデミック条約にNo!
生きる権利勝ち取ろう Stand Up Japan!
国会議事堂をJackせよ 国家権力の大犯罪 虐げられた子羊達
国会議事堂をJackせよ
国を変えるのは今しかない
横に手を繋ぎ国会包囲せよ
ADAMASの産声
台風の影響で涼しく空調が快適な夜だった。
僕はソロ活動用にと購入していたオベーションのアダマスを搔き鳴らし自宅でライブリハを続け過ごしていた。
アダマスは憧れていた楽器の1つで素材も形状も特殊なアコースティックギターだった。
木材ではない科学的な素材がトップ面に使用されていて、その鳴り方について実際体験のない僕には未知なる楽器でもあった。
元々宇宙船を作っていた会社らしく、アダマスのトップに使われているのは宇宙船を作っていた材料らしかった。
20歳の時購入していた同じくオベーション社のエリートというモデルのアコースティックギターを持っていたが、それはトップに木材が使用されていた。
当時購入し立ての頃は鳴りが悪くて籠もったようなサウンドだった。
購入を考えていた頃街の楽器店に出入りしていて、受付をしていた女性店員がよくしてくれてギター教室で使うスタジオに気になったギターを持って行き試し弾きをしてもいいとのことだった。
僕は自分が買ったモデルと同じエリートだが、カラーバリエーションの違うギターをチョイスして試し弾きしてみた。
当時音に対してそんなにまだ耳が敏感ではなかったので、購入する際の音の基準が自分の中でピンと来ていなかった。
だがオベーションはとにかく演奏性が高く弾き易かった。
他のアコースティックギターと比べてエレキギターに近いような弾き易さだった。
初めてお袋に買ってもらったアコースティックギターはヤマハの低価格モデルだったが、ハイコード等はとても音が出し辛く握力が相当強くても弾き難いギターだった。
これはヤマハというメーカーを批判しているのではなく、低価格モデルのギターとはそんなものかもしれない。
低コストに抑えてギターを生産すればある程度仕方のないことだったのかもしれない。
チューニングが安定し辛かったりする物も低価格モデルにはあると思う。
ギターの鳴りについては、低価格モデルでも良く鳴る物もあり安いギターだから鳴らないという訳でもないのだろうなと思う。
それなりの価格のハイクラスモデルはやはりいい物であるとは言えるのだろう。
僕は職人ではないので何とも言えないが、良いサウンドを出すギターを作る為にはたぶん乗り越えなくてはならないハードルが幾つもあったのだろう。
当たり前のような話だとは思うが、低コストでそれを実現することは難しいことだったのかもしれない。
クラシックギターもギターを始めた当時お袋に買ってもらっていた。
スチール弦とナイロン弦のギターの両方がたぶん僕にとっては初めから必要不可欠なものだったのだろうという気がする。
現在ソロとフレンチトーストという2つの音楽を掛け持ちしているが、ソロではスチール弦を弾きフレンチトーストではナイロン弦を弾いている。
ギターを始めた当初からその流れは自然と発生していた。
自分の音楽表現としてそれぞれの世界が初めからあったということだと思う。
お袋は少女の頃ピアノを習いたいが高価なものなのでお父さんに買ってもらえなくて諦めたという経験をしていて、だから息子である僕には楽器を欲しがれば直ぐに買い与えようとする人だった。
どうやらピアノを諦めたことが人生の中で大きな悔いとなっていたようだった。
僕の少年の頃の音楽熱はいつ迄続くか誰にも分からなかったが、今になれば自分で本物だったと思う。
アコースティックギターはたぶん6万円から8万円位は出さないとビギナー向けのギターでもなかなか程々の物は買えなかったのではないかと思うが、お袋に初めてギターを買ってもらった当時少年だった僕にとっては程々のクオリティーはあると思えるギターを購入することは高い買い物だった。
昔お袋が買ってくれたギターはどれも低価格モデルで、僕の管理が悪かったせいかもしれないが壊れてしまっている物もあった。
壊れてしまったギターはモーリスのトルネードというモデルなのだが、修理迄して弾こうとは今の所していない。
低価格モデルのギターには生産コストを下げたことから生まれる壊れ易さという問題はあったのかもしれない。
壊れ難くて演奏の障害になりうる問題のないギターの購入を望むのならば、20万円台位のクラスのモデルを買っておくと良いのではないかと思う。
こちらは一生涯付き合える楽器としてたぶん良いサウンドを響かせてくれると思う。
そういったギターを少年の頃買ってもらっていたとしたら、いまだに弾けるのになぁと惜しい気持ちになる僕がいた。
まぁ僕の音楽熱がどれだけ続くかお袋には分からなかったので高価な買い物は経済的事情から簡単には出来なかった訳で仕方のない話なのだが。
僕は本当にギターという楽器に出会えて良かったタイプの人間だなと思う。
酷く寂しさや孤独を感じている少年だったので、ギターを抱きかかえて自室で過ごす時間は心に慰めを与えてくれていた。
ギターのボディーは美しい女性の体のラインを表現していて、抱きかかえるともたれかかり安心感を得るのに丁度良い形をしていた。
どれだけ長い時間僕はギターを抱え過ごして来ただろう。
晴れた日も雨の日も風の日も嵐の日も、ひたすらギターと共に歩んで来た人生だった。
初めて買ったオベーションのエリートというモデルのギターについては、たぶん悪いギターではない筈なので購入しておいて間違いはないだろうという感で買った。
購入したばかりの頃は籠ったサウンドになかなか馴染めず、暫くはギターケースにしまいがちでモーリスのトルネードというモデルのギターの方が音の抜けが良くてそちらを好んで弾くことが多かった。
モーリスのトルネードは20歳の誕生日祝いとしてお袋が当時買ってくれたものだった。
GBという音楽雑誌を当時よく買って読んでいて、その背表紙だったかそのギターが宣伝されていて買ったものだった。
撮影した時の光の加減による影響なのではないかと思うがギターの色が随分実際とは違って写真に写っていて、実物を楽器店で取り寄せてもらって初対面した時には正直がっかりした。
だが取り寄せたら必ず購入するという約束だったので僕の手元にやって来ることになったギターだった。
当時埼玉の大宮でバンド活動をしていた。
バンド練習をする際に利用していたのはトルネードを購入した楽器店の2階のスタジオだった。
なので頻繁に出入りしていた懐かしい思い出の残る楽器店だ。
トルネードの宣伝をするのに広告塔として起用されていたのは、人気女性ロックバンドPRINCESS PRINCESSのボーカルの奥居香だった。
トルネードを購入する際、楽器店に音楽雑誌GBを直接持って行き女性店員にこのギターが欲しいことを僕は告げた。
僕はギターのモデルについて伝えていたつもりだったのだが、女性店員はそのGBに載っていた宣伝の為に撮影されているトルネードを欲しがっていると思いわざわざモーリスに電話して購入出来るか問い合わせてくれたようだった。
記憶が曖昧になっているが、たぶん暫くして楽器店に行った時ではないかという気がするがモーリスにその撮影の際使用されたトルネードがまだあり購入可能だと女性店員が嬉しそうに僕に伝えてくれていたのではなかったかと思う。
女性店員に思いが上手く伝わらなかったことから始まった話だったが、結構いい曲を作るなと思って聴いていたプリプリの奥居さんが手にしたトルネードでもあるしいい記念になるかと思い購入を決意した。
暫くしてから楽器店にやって来たと確か電話連絡があり引き取りに出向いた。
レジカウンターの前の床にギターケースが置かれ、女性定員だけでなく男性定員もその場にやって来て皆で雑談しながら男性店員だったか蓋を開けてくれ僕はそのトルネードに初めて対面した。
すると写真で見て気に入っていた色とは違っていてがっかりしたのだが、それでも凄く美しいギターであることに間違いはなかった。
男性店員が確かこの安いモデルでこれだけ虎目バリバリのギターはないですよと話していた。
そのトルネードを購入してからバンド活動の中でよく使用し良いサウンドを出してくれていた。
低価格モデルでこんなに優れた演奏性やサウンドを提供しているモーリスはなかなか良い楽器メーカーなのだなと思った。
モーリスのアコースティックギターは、これ迄に僕のトルネードを含め3本弾いたことがあるだけかもしれないが独特の爽やかでクリアなサウンドという印象が残る。
ギターは初めから鳴る物と鳴らない物とがあると思う。
ずっと鳴らない物もきっとあるのだろう。
僕がここでいっている鳴るとは倍音が気持ち良く響くという意味だった。
僕が購入したモーリスのトルネードは初めから鳴ったタイプだった。
生音も良く鳴るがアンプに繋ぐとイコライザーが付いていてかなり深みのある音を作れて楽しめた。
最近の僕はシールドに繋いで音を出す際、イコライザーをフラットな状態で使用していた。
ナチュラルサウンドが最終的に1番気持ちいいかなという思いでそうしていた。
だからシールドに繋いでスピーカーから音を出しても生音で演奏しているような印象のギターサウンドになっている。
僕はアコースティックギターに関して言えば、マイクで拾ってスピーカーから音を出さなければならない物よりもシールドに繋いでいつでも使用出来るタイプの構造を持った物を好んで買う傾向があった。
マイクで拾って生音を聴かせるという演奏も嫌いではないのだが、用途が自由に選べないので敢えて進んで購入しようとはしなかった部分が大きいかもしれない。
ライブのスタイルが見栄え的にフォークっぽくなることに場合により抵抗を覚える時があった。
ライブのシチュエーションにもよるが、そのように抵抗感を覚える時があるのでシールドに繋いで使えた方が理想的だと感じ好きだったのだと思う。
バンドの大音量の中でアコースティックギターを弾くならシールドに繋げた方がハウリングの心配もなく断然便利だったし、それにアクティブに動くことも出来てロックっぽくて好きだった。
オベーション社のギターで初めて購入したエリートは、モーリスのトルネードを買ってから1年以内に買っていた。
トルネードと比べると上級モデルで値段がぐっと跳ね上がった。
だが購入直後はなかなか鳴らなかったという印象が残っている。
この話についてはこの散文の中で既に書いて来ているがサウンドが籠っていて音抜けが悪く、暫く弾いている内にある日ふと気付くと音の抜けが良くなっているようだった。
あれっ!
こんなにこのギターは音抜けが良かったかな?
そんな経験からオベーション社の生産しているギターの傾向を知る思いがした。
オベーション社のギターは、段々弾いている内に鳴るようになる作りをしているのかもしれない。
最近購入していたオベーション社の最高モデルであるアダマスは今の所サウンドが籠っている印象を受けていた。
これではまだ使用し辛いかなと思っていた。
自宅でライブリハをする際等に弾き込んでサウンドが豊かに広がって行くように育てて行けたらいいなと思う。
弦を1本鳴らしてみると、デジタル録音した音のようにある領域から先の小さな振動は音を拾わなくなり消えてしまうのに似た音の途切れ方をした。
ピアニシモで弦を鳴らしてみて音の伸び方を確かめてみると、弾き続けて行くとやがて音が化けギターが良く鳴るようになる可能性は何となく感じられる気がした。
長年多くのファンに支えられて来たオベーションというメーカーなので、その実力は確かだと思う。
弾きながらサウンドの変化を楽しんで行きたいと思う。
振り返れば僕のギターとの出会いの物語の始まりは、遥か昭和の最後の年に迄遡る。
1988年で僕がギターを弾き始めた年だった。
この話はその年よりも前のことだったのかもしれないしその年のことだったのかもしれない。
家にお袋が当時弾いていたK・YAIRIというギターメーカーのアコースティックギターがあった。
僕がそのギターに興味を持っていた姿を見たお袋が、僕用にギターを買ってもいいという話をして来てくれた。
そんな経緯からたぶん直ぐに街の楽器店にお袋と2人出向き、売り場で直接沢山置いてあるギターを見ながらその中から自分の好みの物を選び購入した。
それがヤマハのアコースティックギターだった。
色はブラックでトップは木で出来ていたが、後の胴体の残りの部分はカーボンのようなもので出来ていた。
典型的なフォークギターには当時僕は興味がなかった。
今はその良さも分かるのだが、当時は若くてビジュアル的に洗練されたモダンなギターが好きだった。
シールドに繋いで音が出せるタイプのギターだった。
自室でこのギターをずっと弾いて僕は歌を歌って過ごしていた。
頭の中はほぼ歌の事だけだったような気がする。
このギターは、実家に置いて長い間家を出て暮らし近年帰って来てみるとどこに行ったのか分からなくなってしまっていた。
弾こうと思えば弾けなくはないが、たぶんネックが反り返ったりしていてかなり傷んで来ていたと思う。
ギターを育てる喜びというものがあるように思う。
そしてギターは所有者の個性に共鳴するように音色をやがて響かせて行くようになる部分もあるのかもしれない。
楽器自体にきっと意識があり生き物なのだろうなと思う。
親に育てられた子供は親に段々影響を受け似て来るのと同じように、ギターも所有して弾く人間のキャラクターに沿ったサウンドを身に付け成長して行く部分があるのかもしれない。
真新しいギターは、ギターの格好はしているがまだギターになっていない物もあるのかもしれない。
人間の格好をして生まれて来た子供が、育って行く中で色んな経験を積みながら段々より人間らしく成長して行くのに似た部分があるのかもしれないなと思う。
ギターにもよる話だとは思うが、基本的にギターは弾いている内に本当に機能し鳴る楽器として育って行くものなのかもしれないなと思う。
僕のアダマスも弾いて行く内にギターになり、僕の相棒としてぴったりのギターに成長して行くのかもしれない。
オベーションUSAは現在ギター生産を止めてしまっていた。
経営的問題があったのかもしれないが生産中止の本当の理由を知らなかった。
そんな中で1時期間限定での生産再開があり、そのことをネットで知った僕は直ぐにアダマス購入を決意した。
いつかお金に余裕が出来たら買おうと思っていたのだが、もう2度と買えないかもしれないのでそのチャンスを逃すまいと思った。
僕がソロでロックンロールを歌う時にどうしてもアダマスが必要だと感じていた。
その他のギターでは何かが違う。
オベーション社は韓国に生産ラインを今持っているが、そのモデルでも何か違うかもしれない。
アダマス購入の際にオベーションのナイロン弦ギターも同時に購入した。
このギターは韓国製で現在生産されている機種だった。
購入した時、初めから良く鳴っていた。
このギターに関して言えば、段々鳴るようになるという特徴ではなかったと思う。
サウンドに十分満足し気に入った1本になってくれている。
フレンチトーストではナイロン弦ギターを弾きたかったので購入した。
ナイロン弦はナイロン弦で独特の響きがあり僕は好きだった。
アコースティックギターというのはミュージシャンである僕にとって生命線を握る楽器だった。
自分で曲を作ってまず最初にギターの弾き語りで歌う。
それをバンドに手伝ってもらって演奏したりもするが、基本的には弾き語りのスタイルが原点としてありそれだけでも音楽活動は充分やって行けた。
気難しさのある僕なので、基本的には誰にも依存せず自立して音楽活動が出来ることが自分にとって大切な絶対条件だった。
事務所に入って会社から活動に色んな条件付けの制約を受けるのも性分に合わなかった。
そう突き詰めて考えて行くと、歌を支えてくれるアコースティックギターの存在は僕にとってなくてはならない大切な人生のパートナーだった。
僕がこの世で頼りにしていたのは、自分自身の歌と自分の音楽を表現する為のギターという楽器だったのかもしれない。
それ以外に信じているものは何もないような気がする。
自分自身と音楽。
それだけが唯一神に通じるものに思えていた。
そういった意味でやはり僕にとって音楽は特別なものであり、その表現を支えてくれているパートナー役を務めるアコースティックギターは特別な存在に思えていた。
侍で言えば刀に当たるもので、自分の命が懸かっていた。
20歳の時購入したオベーションのエリートは、よく熟成されたワインのように深みのあるサウンドを味わい豊かに響かせている。
オベーションのギターには、スーパーシャローボールとシャローボールとディープボールという3種類のボディーがある。
それぞれ厚みが違ってサウンドに違いがある。
スーパーシャローボールは最も薄く、シャローボールは中間の厚みでディープボールは最も分厚いボディーだ。
僕の持っているエリートのボディーはスーパーシャローボールでアダマスはディープボールだった。
弾き語りをする際、歌を支えるしっかりしたサウンドが欲しいと思ったのと単純に持っていなかったという理由からアダマス購入の際にはディープボールをセレクトした。
これから鳴り出すかもしれないアダマスの成長が楽しみだ。
エリートの話に戻るが最も薄いボディーだが目一杯振動して鳴っている感じだ。
どこまでも音が広がって行くような素晴らしい鳴り方をするようになったと思う。
20歳の頃はルックス的に分厚いボディーはダサく感じている僕がいて、それが理由でスーパーシャローボールをセレクトしてエリートを購入していた。
オベーションギターというのは他のメーカーのギターに比べるとルックスがスポーティーといっていいかもしれない。
まずデザイン性が僕好みだった。
車に例えるとスポーツカーのようなルックスに当たるのではないかと思う。
そしてサウンドも僕のソロでやって来たロックンロールを演奏するには向いている気がしている。
他のメーカーのギターもいいギターが沢山あるが、少し泥臭さがあると思いそのことが気になっていた。
それは悪い訳ではなくて味わいの1つだと思うのだが、僕のソロでやっているロックンロール向きではないかもしれない。
フレンチトーストの楽曲を演奏する時にはマーチンやギブソンといったメーカーのギターも合うのではないかという印象を持っている。
僕のソロ活動としての楽曲の中には、今迄話して来たロックンロールとはまた別の音楽の世界がもう1つあった。
ジャンルはロックンロールで、フレンチトーストの音楽の神様や今迄話して来たソロの音楽の神様とまた別の神様だと感じて来た。
この音楽には今迄話して来たどのメーカーのギターも合うかもしれない。
僕の持っているエリートは、山あり谷ありどうにかやって来た様々なステージを僕と共に乗り越えて来てくれた。
ステージで僕が頼りにしていたものは明らかにこのギターだけだった。
この世に僕を繋ぎ止めていてくれるものは僕の音楽であり、その表現を支えるギターだった。
ステージ上ではエリートは僕にとって戦友といった存在だった。
エリートというモデルは金属っぽく頭に刺さるような独特の響きも持ち合わせていると思う。
雑に演奏すると不快なサウンドにもなり得る。
ピックは硬いプラスチックではなくエナメル質っぽい柔らかな物を選ぶと相性が良いと思っている。
弾き方も余りハードに弾かない方が無難なようだ。
高音が頭に刺さる位音抜けが良い訳だが、その特徴を上手く活かす自分独自の演奏スタイルを見つけることの大切さやギターのサウンド自体を育てて行くという楽しみを僕はこのエリートから教わった気がする。
最近ずっとギターケースにしまいっ放しで弾いてなかったが、久しぶりに出して弾いてみると相変わらず良く鳴ってくれていた。
弾かない期間が長くて鳴らなくなるという事はたぶんもうなさそうだ。
ピアニシモのタッチでも耳を澄ませるとずっとサウンドが共鳴している。
キラキラのサウンドで非常に魅力的だ。
もう新品購入が出来ないのかと思うと寂しい気持ちだ。
僕はアコースティックギターはオベーションファンなので、生産中止というのは悲しい話だった。
フレンチトーストの活動を一旦休んでいた僕は、ソロ活動を再開しライブリハを繰り返していた。
最初に作ったアルバムから歌い直そうとしていた。
アルバムをレコーディングしてリリースしていないので、聴く人にとっては新曲だった。
楽曲は未完成なものが大方だったので、手を加えながら成人式を迎えさせてやろうと頑張っている所だ。
ワン・ツー
ワン・ツー・スリー・フォー
バンドと共にコンサートのオープニングナンバー東洋人を演奏しているイメージでソロのライブリハは幕を開けた。
アコースティックギターへの思いをテーマに今僕が辿り着いていたソロ活動の現在地点を簡単に書き記している。
東京五輪も無事終わり色々思うことがあるが、今は黙してひたすら歌に専念して行った方が良いかもしれないと思っていた。
それが夢に対して地道で遠回りなようでいて1番近道になる気がしていた。
今の社会というのは色々な能力を求められ総合的に社会に順応することを求められているが、僕は不器用過ぎるのかもしれないが自分のスタイルを守って行こうという思いでいた。
ソロ活動が本当の意味で始まったという所に僕はあったのかもしれない。
結局曲が書けても作詞が難航してアルバムを完成させることが僕には今迄出来なかった。
それは僕にまだ力がなかったことを当然意味している。
僕は非常に遅咲きの人なので、今からでもソロとしての活動を確実に進めて行けたらと思っている今日この頃だ。
ソロのファーストアルバムは東洋人というタイトルだ。
長い制作期間を経て完成していると感じられる楽曲から音源をYouTubeに投稿して誰でも聴けるようにしておこうかと考えていた。
今迄にもアルバムに収めたい曲の音源や動画を投稿していたが、大抵どの曲も歌詞や構成等を変えて新たに発表するという形になると思う。
アルバム「東洋人」に収録したい楽曲だけではなく、ソロの初期の作品の中からライブ音源を録りYouTubeに投稿出来たらブログ記事と共にブログで少しずつ公開しようと思っている。
20歳の時買ったオベーションのエリートと近年購入した同社のアダマスとを取っ替え引っ替え弾きながらソロライブリハを続けた。
リハをしながら作品をいまだ制作し未完成部分を見つけては手直しを続けていた。
アダマスの産声がソロのファーストアルバム完成時期にどうやらたぶん重なりそうで、僕は誰が僕の登場を待つ訳でもないステージ袖へとようやく辿り着いたばかりだった。
これから開演する予定にしていた再出発のステージではアダマスに存分に叫ばせてやりたい。
アダマスの命はロックンロールに捧げられる為に与えられたものだったのだろうという気がする。
アダマスの定めを感じながら僕はリハでアルバム「東洋人」の楽曲を歌い時空を延々と彷徨っていた。
間もなくアルバム「東洋人」をようやく完成させることが出来るかもしれない。
リハを続けながらその手応えを感じていた。
そして開演予定時刻が迫りつつあることを自覚する思いでいた。
日常を取り巻く様々な状況が目まぐるしく展開していた。
開演直前のステージ裏を駆け回るまるでコンサートスタッフ達の姿のように慌ただしさを湛えていた。
令和の夜明けに産声を挙げたアダマスのストラップに僕は頭を潜らせ、本番のイントロダクションの演奏開始を知らせるドラマーのカウントが聞こえて来るのを舞台袖に静かに佇み待ち続けていた。
今日紹介するYouTubeの曲は、ソロの2枚目のアルバムに収録したいと思い作っていた「都会の空を見上げれば」という曲です。
メダルラッシュ
最近の僕はソロ活動として制作して来た初期の作品を改めて歌い直して行こうと考えていて、今日は初期の作品の中から2曲ライブ音源をYouTubeでお届けしようと思います。
華やかなる夢の舞台である筈のオリンピックが、とても色褪せた世界的スポーツの祭典になったように思えていた。
普段テレビを観ない僕は、iPhoneに1日中流れて来るYahoo!ニュースの見出しで日本人選手達のメダル獲得についての情報を受け取りながら東京五輪の様子に思いを馳せ暮らしていた。
それにしても日本はメダルのゴールドラッシュだった。
五輪情報に乏しい僕は、偏った現実の解釈に向かってしまっていたのかもしれない。
かなり感で話しているので見当違いなことを言っていたらすまない。
思っていたのは外国からやって来ていた世界中の選手達にとって、今の日本の環境が酷過ぎて実力を発揮したプレイが余りに困難なのではということだった。
コロナに対する対策は勿論のことだが、311による放射性物質の汚染問題があった。
競技開催の地の汚染がまず酷かったのだろうし、食についても全く安全性に信用が持てないという状況に違いなかったのだろうと思う。
日本列島に暮らしている僕達にとっては、狭い国土の中で安全基準を原発事故以前のまま継続させる事は食を流通させる上で経済的に不可能なことだったから放射性物質による汚染に対しては悲惨な状況があったと思う。
それ以外の添加物や保存料等といったような物も含めて、日本の食の安全を守る上での基準というのは相当に意識が低かった。
日本に流通している食品の安全基準を数値として検討した外国の選手達は、余りにも日本の食品の安全性が低く酷いので自国の食べ物を用意してオリンピックに参加しているという事のようだった。
日本政府の本音と体裁を大方理解した上で、嘘と知りつつ日本側の用意した環境に身を投じての東京オリンピック参戦というのがたぶん外国の選手団の気持ちだったのだろうと思う。
外国の選手達は目に見えない不安に常に曝されながら、沢山のストレスを意識下や無意識下で受けていたことだろうと思う。
表彰台迄のプロセスの歩みは、日本人選手と外国人選手の間では余りにも乗り越えなければいけない障害の数に差があり過ぎたのだろうと思う。
外国の国々のメダル獲得が少なくなったのには、日本社会が用意した環境の影響が必ず大きくあった事は事実だっただろう。
日本社会は人に対して実に配慮に欠け優しくなかったに違いないと思っていた。
外国の選手達にとっては、今の日本社会を訪問して来てみると一種異様な時空間に突然迷い込んでしまったかのようは状況がきっとあり、ずさんな環境への対処を生物としてまず行う所からの東京五輪であった気がする。
東京でJRを利用すれば、毎日線路に飛び込む自殺者が後を絶たずダイヤは乱れっ放しだという情報が入って来ていた。
外国人を温かくもてなす余裕などこの国には初めからなかった筈だった。
自国の民の心の叫びさえも受け止められていないのだから。
選手達はどこの国の人も皆ベストを尽くし頑張っていたのだろう。
だけど本当に夢のない東京五輪だなと感じていた。
メダルに感動がついて回り難い、そんな時代性を思い寂しく思っていた。
子供達にとってあんな風な大人になりたいと思えるような存在にはなかなか出会えなかったのかもしれない。
ロマンが損なわれトキメキを失くした記録だけが歴史上に刻まれて行くかのような虚しさを覚えている僕がいるようだった。
コロナ感染者は爆発的に増加していた。
感染力が強い新種のデルタ株が勢力を増しているのだと報道が流れていた。
コロナウィルスは生物として自らの生き残りを懸け必死だったのだろう。
この世界で全ての生物は、生態系のトライアングルの掟の中で生き残りを懸け戦っている。
知的好奇心を持たない人間以外の多くの生物は、生きるか死ぬかということだけの為に生命活動の全ての営みを続けている。
生きる事は、獲物を仕留め食べることと外敵から身を守ることの2つだけの為に続いて行く。
例えば蜘蛛を見て観察していると、獲物が巣に掛かる迄じっと眠ったように動かず微動だにしない。
だが少しでも獲物が巣に引っ掛かると猛烈な勢いで捕獲に入る。
獲物が逃げて行ったら速やかに定位置に戻り、次の獲物が巣に掛かるのを待ちまたずっと眠ったように動かなくなる。
大きな獲物が掛かると、逃がさない為にグルグルと獲物の身の周りを周回しながら素早く糸を巻き付け縛り上げるようだ。
それらの動きに一切の無駄はないように感じられる。
コロナウィルスもどうにか宿主としての生き物に寄生して生き延びようと必死なのだろう。
市中感染が増え打つ手なしという現実があるということらしかった。
ワクチン接種が本格的に始まりその効果が結果として可視化され易くなったのではないかと思う頃、丁度東京五輪が開催されコロナ感染が広がって行った。
ワクチンの有効性を信じる者もいれば信じない者もいたが、結局オリンピック開催のタイミングがワクチン接種の有効性について現実として結果を生んでいたのではないかと思われる時期に重なり、その有効性を不透明にしてしまったと考えていた。
五輪関連での人の流動が生まれ密集してコロナ感染が拡大することで、ワクチン接種の効果による感染者数が減少しかたという具体的な結果が素人目からして分からなくなったからだ。
まず第1に生物兵器としてコロナウィルスが作られたという話をメディアがいまだ取り上げないのだから、情報操作され先導しようとしていることはもはや明白という話だったと思う。
ネットを使えば国際的は情報が溢れている時代に嘘はつけない筈だったが、今更何をしようというのだろうかと滑稽に思えた。
日本は東京オリンピックを通じて今世界中に自国の恥を曝しまくっている状況だ。
無理やりに五輪開催を推し進めることだけをし続け、諸外国の選手達に対して敬いの気持ちは明らかに向けられていなかったのではないかと思う。
世界中の人々にとって日本へのイメージは相当に落ちたのではないかと思っていた。
幾らメダルを獲得してもはかり知れない大切な価値を失って行ったような気がしていた。
そしてそんな国を作り上げたのは紛れもなく国民である僕達1人1人だった。
今の日本人の生き方が本当に悲しかった。
何もかもがお金儲けだ。
夢も希望もない。
日本社会独特の閉塞した時代の空気感を、東京オリンピックに参加する為にやって来た外国の選手達は皆心のどこかで感じ取り帰国して行くのだろう。
礼儀正しさという点で、外国の選手達は皆今の日本人のよりも数段美しかったかもしれない。
かつての日本人が持っていた感性を今は外国の人が持ち、日本人はそれを失ってしまっていた。
心の中がすっからかんになった日本人の姿が浮き彫りとなった東京オリンピックだった気がする。
おまけにもうお金もない。
ないない尽くしでどうしようもない。
今年はたぶん丁度1945年の終戦の年辺りに当たる年なのかもしれないということを思っていた。
1つの時代が完全に終焉する時代の節目というものがあると思う。
そういった意味で今年は完全に何かが終わったという気がしていた。
現在のこの日本列島程バイアスが掛かり易い国というのは先進国の中では珍しいように思う。
かなりそのトリックは単純なのではないかという気がしているが、大衆がそれを見破ることが出来ない。
大人でも体制側によって飼い慣らされ育つとこんな風に思考停止した人間になるのだなと思う。
僅かな人々だったのかもしれないが、自分を持って生きている人の目からすると権力者達の本音と建て前について良く見えていて現実を理解していたのではないかと思う。
例えばメディアに登場する政治家達の言葉のイントネーションや発言の後のちょっとした仕草にその人物の本音がチラリと態度として顔を覗かせる。
人間というのはそういう風に出来ていると思う。
罪に問われている人物が無実を主張している映像をニュースで見ることがあるが、言葉に上手くすることが出来ないが実際に犯行に及んだであろう事実が表情や身振りや態度全体に滲み出しているなと思うことがよくある。
人を見た目で判断してはいけないと思うが、無意識が体を通して真実を表現するという現象は実際に起きていることだろうと思う。
人間は皆神の分身だから、心の中の神様は欺けないということだろうと思っている。
例えばスタップ細胞を発見した女性について、初めその研究内容を否定するような報道がされていたと思うが、彼女はその状況の中で酷く打ちのめされ悲しんでいて悲鳴を挙げるその精神はひたむきさを湛えているように思えてならなかった。
だから報道されている内容に何か社会的圧力のようなものが加わりたぶん真実が歪められているのだろうなという気がしていた。
結局スタップ細胞は彼女が実際に発見したと今は認められている。
肉体自体が現実の状況の中で1番正確に真実を物語る話し手なのかもしれないということを思う。
社会的な自分の立場を守る為に嘘をついたならば、全ての人の心の中に住む神が自らに嘘を言うなと言うのだろう。
そういう時には、自らを戒めるその声に反応したもう1人の自分が歪んだ形で心の底から体を通して外の世界に溢れ零れ落ちるような現象が起きているのだろうと思う。
本当のことをありのままに告白している場合にも、同じような現象が起き肉体を通して真実が表現されるのだろうと思う。
そういった非常に細やかでデリケートな人間の心の動きを描写し観察出来るような感性を持てるようになると、何が真実なのか自分ではっきり見極められるようになる。
自分の心の中に住んでいる神との対話が出来るようになると、外界の情報に振り回されずに人は生きられるようになる。
そういった感性を育んで行く上で、いい芸術作品に触れるという事は本当に大切なことだろうと思う。
社会全体に感性の分野でいい影響を与えられるように、僕達のようなミュージシャンは一生懸命素晴らしい曲を作って多くの人に聴いてもらえるように頑張らなければいけないと思う。
社会情勢が不安定になり人々の意識が変わりそうになると、いつも真っ先に名曲が街から姿を消す。
ラジオが流さなくなったりするのだが、911の時ジョン・レノンのイマジンが放送禁止になっていた。
体制側は人々が意識を目覚めさせ力を持つことを恐れているんだ。
優れた名曲というものがどれ程人々の意識に影響を与えるかということの実例だと思う。
悪事の数々について沢山のことがバレバレなのに、すっと呆けた振りをした日常が演じられているばかりといった状況だと僕は思っていた。
僕を取り巻く日常的な環境のレベルは体裁を繕うばかりのようで寂しさを覚えていた。
踏み込んだ話をすると、意見がぶつかり合って人間関係を破壊して行ってしまうような社会構造の中での複雑さが人々を互いに孤立化させていたように思う。
バイアスに取り込まれて生きる人々の心理について思う。
人は現実的に生きることを考えているから多くの人にとってはそれが人生の最重要課題となっていたのだろうと思う。
生物としてある種とても正しい方向性に向かってバイアスに取り込まれた人々は歩んでいたと言えるのかもしれない。
そのような反応を示す条件付けを与えられている訳で、正しくそれに反応しての結果だったのだろうから。
群衆が経済大国という名のラビリンスの中で愛の迷路を彷徨い歩く時、幾ら手の届かない理想や憧れについて語っていても現実は立ち行かないと考えそういった諦めの上に真面と言われる理屈っぽくてクールな思考を常に形作り持ち歩いているように思えていた。
だがその流れを変えなければ人生は失って行くことばかりにやがてなって行くだろう。
やっぱり政治は大衆の心の写し鏡なのだなとつくづく思う。
可笑しいと思うことに対して社会的な圧力が掛かるからと息を潜めNoを言えないで暮らしていたのでは、いつ迄経ってもこの社会に救いはもたらされはしないだろう。
救世主は国民1人1人に違いない。
だがそうは言っても一体何から手をつけ始めれば良いのだろうか。
そういった問い掛けが常に心の中に浮かんで来るのは、きっと僕1人だけではなかったのだろう。
体制に逆らい正義や真実を幾ら声高に主張してみても打ち負かされるのは必至だった。
皆そのことをよく分かっていたから、社会の中で上手く立ち回るということを身に付け覚えながら大人になって来たように思う。
社会システムの中で敗北を記す言語や行為というのは愚かでダサイということになっている。
それが本当は正しいことであったとしても。
人は現実としてやっても無駄な事はしない。
蜘蛛が巣に掛かった獲物を仕留める為に必要なことだけをしてあすに生き延びようとするのとそれは同じだ。
時代の中で人は少しずつ生き方を変えて行く。
だが今回のコロナワールドでは人の生存に関わるエリアに問題が浮上して来ている。
やっても無駄だったことを実践しなければもう立ち行かなくなって来ているのだろう。
という事は、革命が人々の意識によってもたらされる可能性を秘めている時代だという事のような気がする。
革命が生じる必然性が時代に働いているようだった。
生きとし生けるもの全てが懸けて戦っている生存の名の下に。
だがコップの中に閉じ込められたノミは、やがて跳ねても無駄だと分かると跳ねなくなる。
今の日本人がそうなのではないか…
311が起きて原発の安全神話が崩れ去ろうがコロナパンデミックが仕組まれ権力者層からの先導の日々が続こうが、自分で考えて行動を取ろうとはしない国民の姿を僕は悪い悪夢でも見ているかのような気持ちで見つめながら暮らして来た。
社会によって決められた通りにただ生きて褒められることだけをする。
こういうのを愚かな大馬鹿者っていうのではないか?
これではきっと誰にとっても本当に希望がなくなって行ってしまうように思えていた。
自分の意見というものがないことの深刻さを物語っているようで恐ろしく感じていた。
皆で現実を見ずに御伽の国で手を繋いでスキップを踏みながらハイキングをして楽しんでいるようなとても危うい生き方に思えてならなかった。
体制によって洗脳され夢遊病者みたいになってしまっている。
戦後からずっと。
東京オリンピックが終了し、世界各国からやって来た選手達が日本で経験したずさんな環境の中での自らの競技の体験を告白し日本政府を批判し始めていた。
いつものことながらメディアはその情報を一切流さなかった。
そして政府はコロナワクチンを義務化へと向かわせる為の法案をオリンピック期間中にさっさと可決したようだった。
国会議員や国家公務員は打たなくてもいいということらしかった。
そこ迄分かり易い法案を通していてもその意味が何を物語っているかこの国の人々は本当に分からなかったのだろうか。
コロナウィルスは人為的に作られた生物兵器であったということが既に明かされていた。
そしてその予防に努めるワクチンの登場というのが実に怪しげなものである事は明らかな筈だった。
結局全て権力者層の自作自演で、何かの目的を果たす為に行われている劇だと考えるのが正論のような気がする。
コロナパンデミックを封じ込める為にワクチン接種が必要という政府の主張自体が可笑しいと感じないのは人間的感性の欠落ではないだろうか。
それともそう感じてはいるが、そのことに対し抗議したり行動を取ると自分が社会から省かれると恐れて息を潜めているということだろうか。
どちらにしても人間として恥ずかしい生き方をして来た結果ではないだろうか。
僕が言い過ぎなのか。
いや。
違う。
たぶんそれが今の日本人の紛れなき姿だ。
秩序やモラルが完全に地に落ち間抜けな国に成り下がったこの国で、2021年8月のお盆を迎える目前の頃東京五輪は閉幕していた。
グダグダなおじさん達や賄賂と接待と政略結婚なんかの柵の巷に、希望に繋がるものは何1つないかのようだった。
街は見栄と偏見の吹き溜まりだ。
いつも下を見て社会的弱者をいじめながら生きている。
それが日本だろう。
責任転嫁塗れの無責任な生き方が袋小路に追い込まれ、愛を求め彷徨うラビリンスに出口はないみたいだった。
80年代のバブル絶頂の頃のあのお祭り騒ぎの成れの果てが今日だ。
この国にとって今救いとなるものはなんだったのだろうか。
たとえ金銀銅のメダルを幾つ並べてみても何か虚しさが残る気がしていた。
オリンピックに出場した世界各国のアスリート達が素晴らしい事は僕が言う迄もないことだっただろう。
毎日休まず自分自身と向き合い、自分をたぶん時に追い込みながら己の技を磨いて来た人達だ。
選手の皆さんには心からご苦労様と言いたい。
日本人とか外国の選手だとか分け隔てはなく、皆さんよく頑張られたのだと思う。
拍手を送りたい。
僕達に世界的なスポーツの祭典であるオリンピックを通して人類の可能性を見せてくれてありがとう。
東京五輪が無観客にて終了し、曝け出された日常が素顔を静かに現し始めていたようなお盆目前の頃の事。
この夏久しぶりに我が国で開催されたオリンピックへの思い等徒然なるままに書き留めておいた。
バイアス
お久しぶりです。
ソロ活動を長らく休止していましたが、久しぶりのこのブログへの散文の投稿となります。
コロナワクチン接種が本格化しようとしている今、僕の思いを伝えます。
皆さんに散文を読んで頂き、僕の思いを共有してもらえることを願っています。
バイアス
毎日に起こる出来事とは、巨大なジグソーパズルの1ピースを手に入れてはこの場所かあの場所かと迷いはめ込んで行く作業であるかのようだ。
全ての出来事は1つの事実に沿って生まれ、必然性の下に存在している。
不自然に見える物事の1つ1つでさえも真実というものを僕達が知り得るならば、全て間違いなく自然界の法則を通し必然性の下に存在しているという事は明らかなことだろう。
ほんの些細な心の中に起きるさざ波や疑問に対して、感覚を研ぎ澄ませ生きることを始めなくちゃ!
例年に比べ相当に早い梅雨入りの意味とは何なのだろう。
例えばこんな1つのテーマに沿ってあーだこーだとその意味を考えてみる事は、時代に一体何が起きているのかを理解して行く上で面白いアプローチになるかもしれない。
人間的な本当の賢さとはどんなものだろうかと考えてみる時、物事をよく観察して自然法則に添い営まれている生命活動への理解へと向かう一連の分析能力のことではないかと思った。
赤ん坊は、ハイハイを続けながら腕の筋肉や背筋等体の筋肉を鍛えてやがて立ち上がる。
老人は、衰退して行く肉体を元気に保つ為にハイハイして運動するのも悪くないかもしれない。
最近僕の周りにいる人の中の1人の老人がそんなことをしていたという話を聞いて、頭のいい人だなぁと思った。
これは生きた学習の模範のような実例と言って良いかもしれない。
こういった自然の摂理に沿った生命活動への観察力を持てる人は、きっと上手く生きて行くことが出来るのではないだろうかと思う。
そしてこういった能力こそが人間にとっての本当の賢さのような気がする。
教科書が僕達に与えてくれる知識に頼らず、自分自身で感じ考え生きるということの大切さを僕は思う。
コロナの時代に於いても、ブレずに迷わず生きて行けるかどうかはそういった感性を持っているかどうかに関わる問題だと思う。
今日はこういったテーマに沿って僕の思いを語ってみようと思う。
狂った気候の変動の意味について考えてみる時、それは人類が経済活動や発展の為に環境破壊を続けて来たことで季節を狂わせ、自然の摂理からの恵みを受け取れなくなる結果を生じさせたと考える事は出来るだろう。
だがどうだろうか。
気象操作による人工的な現象ではないかと考えるアプローチもある。
人類はいつまでも争い続けている。
愛し合うことで生まれる互いの豊かさを信じられず、奪い合いに勝利し生き延びるしかあすはないと思い、小さな自我が不安から叫びを挙げているようなバイアスが存在している。
資本主義は現時点に於ける優れた社会システムであることに間違いはないと思う。
少なくとも軍国主義よりはずっとマシだと僕は思う。
だが露骨に権力を握る1部の人間が庶民を支配する構造は見当たらないかもしれないが、庶民が家畜として扱われているということに違いはないかもしれない。
僕達1人1人が家畜の羊だということを知らなくちゃいけない時が来たと思う。
ネットの世界には今沢山の真実に基づく情報が溢れている。
だがデマや詐欺も沢山混在している。
それらの情報を如何に判別し選択して行くかは、1人1人の感性に関わる話だろう。
資本主義社会は人間的で豊かに生きて行く為に僕達に備わっていなければいけない筈のその感性を根こそぎ奪い去ってしまった。
人類家畜化計画。
日本が戦後アメリカによって嘘のデモクラシーを与えられて来た日々を振り返った時に浮かび上がって来る総称としての呼び名だ。
行儀良く真面目になるようしつけられて来た僕達は、真実の情報に触れる度に心の中には様々な不安や恐れが生まれ、混沌とした現代の中で精神が萎縮してしまっている。
真実の情報に触れた時に心が疲弊して行くのは、そのようにプログラミングされ様々な価値観を育って来る中で植え付けられて来たということを意味している。
心が自由にならないように僕達はプログラミングされてしまっているのだ。
それはある1部の特権階級にいる人々だけが富を得られるようにと仕組まれたこの社会の詐欺に違いない。
ネットの情報を如何に汲み取るべきかについて迷い不安が生じているのは、そのことにより生まれた弊害であると断言して良いと思う。
庶民の心を自由に解き放てば、1部の特権階級にいる人達だけが得をする社会というのは成立しなくなる。
権力者達は家畜に逃げられた牧草主となる。
巨大資本に支えられ産業が生み出している商品の多くが、家畜に与える餌のような物だと分からなくてはならない。
トレンドもそういった要素に満ちている。
そしてその流れを遮らないように社会には強いバイアスが働き続けている。
今この社会の中で時代にカオスが巻き起こっているのは、1部の特権階級の人々の生活の安定を守る為の制度を崩壊させないように僕達の心理に組み込まれて来た思考が現実世界の中で起きる現象に対して反射的に反応して不安や恐れという感情を生み出しているからだろう。
バイアスとは真実を覆い隠すベールだ。
バイアスが時代という名の時空間に反射しこだまする人々の叫びの残響を轟かせている。
それがカオス状態の実態かもしれない。
カオスの発生とは、1部の特権階級にいる人々の都合の為に仕組まれて来た制度が崩壊しつつあるので、バイアスがそれを強固に働き守ろうとしているということではないだろうか。
バイアスが働く原理の根底に存在するものは、家畜としての庶民の心の中に沸き起こる不安や恐れという感情だろう。
その条件付けを自分自身が持っていることを多くの人に気が付いて欲しいと思う。
家畜が逃げ出さないように築かれた牧草地の柵に覆われた生活が資本主義社会というものだ。
1部の特権階級の人々に馬鹿にされるように不安や恐れを感じ脅えている。
それがカオスの意味であり、バイアスの正体だ。
コロナの時代について思う。
今僕が話して来た内容を踏まえた上で、よくよく冷静にこのコロナ時代を俯瞰して見つめてみて欲しい。
ワクチン接種を受ければ本当に僕達は生き延びることが出来るのだろうか。
特権階級による特権階級の人々の為の政治。
それが嘘の民主主義を支える根本原理だということを僕達は深く知らなければならない時が来たのだ。
その絶好の機会がコロナの時代である。
コロナワクチンはどの企業がどんな目的の為に生産しているものかを理解しなければならない。
安易にワクチンだから接種すればこれで大丈夫と考えてはいけない。
世の中は常に詐欺が横行している。
特権階級の人々の為にある特権階級の人々の為の政治であるということを忘れるべきではない。
コロナワクチンがどういった方向性に僕達を導こうとしているのか、社会的な活動の裏には常に違ったもう1つの真実の物語が進行している。
そういったことに気が付くか気が付かないかは、感性が生きているかいないかに関わる問題である。
念には念を入れて言っておくが、資本主義社会は感性を潰す為の教育を施して来た。
ある1部の特権階級にいる人々達だけが得をする社会を実現する目的の為にである。
基本原理としては家畜は黙って従えという思想に基づく。
ネットの世界には有益な情報が沢山あるが、端末を操作してネットをすること自体が不得意な人も沢山いる。
そういった人は家族や知人の中でネットの得意な人から情報得るのもいいかもしれない。
端末操作が苦手な人の中には、ネットの世界自体を毛嫌いするような人の姿を見掛ける。
端末操作が不得意という自分に劣等感を覚えるネットの世界を否定することで、自分の自尊感情が傷つかないように保とうとしているように見える。
だけど今やネットの情報を得るという事は、個人が自身の権利を守ろうとする重要な事柄となっている。
苦手だからと避けていては生きて行けないという問題になっていた。
だからそういった人はどうか心を開いて様々な情報に触れ、自分の命や権利を守るように努めて欲しい。
今多くの人が端末を手に社会の矛盾に声を挙げ、支配者層と日々戦い続けている。
SNSでは真実の情報が大量に流れ続けている。
だがSNSは支配者層によって牛耳られているので、そういった人々にとって不利益に働く情報はたちまち削除されて行き、そんないたちごっこのようなことが繰り返されている。
散文を長々書き僕が自分の思いを伝えようとしても、文字離れをしている人も多い。
資本主義社会に於いては自分で感じ考える能力を削り取られるように育って来ているので、本当の意味での勉強する能力が衰えてしまっているのだ。
活字に対して苦手意識を覚えている人が存在している訳は、そういった構造の中で育って来たからだろうという気がしてならない。
音楽や文章等様々な表現媒体を通しながら、僕のような表現者は受け取ってもらい易い方法を様々に模索して行かなければならないのだろう。
ネットの世界が普及して以来、娯楽パラダイスになった日常。
昔のように流行歌を皆で口ずさむなんて現象は起き難い。
趣味が多様化しているので、皆好き勝手に分断を生じさせながらでも個人の好みに偏って行く傾向が見られるようだ。
そういった意味ではバイアスが掛かり難くなっているかもしれない。
物事は全てプラスとマイナスの要素を同時に併せ持っているものだろう。
日本人の他者を細かく思いやるような感性や美意識は素晴らしいと思う。
だがその反面余りにもおとなしく従順過ぎて、社会的矛盾に対して誰も異論を唱えないという欠点にもなっていると思う。
侵略戦争もない島国に育った僕達は、政治活動への関心率は世界標準からして随分低いように思う。
311が起こって原発事故に遭遇し、放射性物質の危険を訴えた人々が国会議事堂前でデモに生まれて初めて参加し体験した。
だが食べて応援という資本主義経済優先の社会システムの歯車を止めることは出来なかった。
そして今回のコロナ。
ワクチン接種が始まったと同時にコロナ感染者数が急増しているのは偶然だろうか。
ワクチン接種でコロナに感染させているのではないのか。
ワクチン接種を大量にしたインドで何故あんなにもコロナ感染者が死亡しているのか。
医者はコロナワクチンを打ちたがらない人が多い。
打って問題が生じれば自分が責任を問われるからだ。
大金を積んでワクチン接種をしてくれる医者を募集している。
それらの現実を記号のように並べて、一体何が起こっているのか冷静に考えてみればその答えは自然と導き出されるように思う。
薬害訴訟問題みたいにまた社会問題が新たに生み出されて行くのではないか。
歴史は繰り返される。
人間なんて安全な物を食べて太陽の下で元気に働いていれば健康に生きていられる。
神様がそのように作っている。
不自然なことをするから病気になっているだけだろう。
社会不安が吹き荒れる。
当たり前のことだと思う。
人の心が彷徨っている訳は、偽の情報を与えられて錯乱状態に陥っているからだろう。
嘘は心の毒だ。
人々は目隠しをされて崖に向かい歩かされているかのような日常だ。
大丈夫だよと誰かの嘘やデマを信じている。
不安にならない方が不自然だ。
結局コロナワクチンは、人体実験を重ね十分人に有害で免疫システムを破壊することが認められたからこそ実用化されたヤバい代物ってことだろうなという怪しさに満ちている気配がした。
テレビやメディアが異様にワクチン接種を推進している。
PCR検査は大切だろうとコロナ発生当初考えたが、蓋を開けてみれば検査自体がきな臭く信用性に欠けている。
どこかからの命令の下操作された茶番の臭いがするようだ。
街ではワクチン接種推進を訴える宣伝カーのスピーカーからのアナウンスが流され、ジャパニーズスタンダードを庶民に呑み込ませる目的の為でしかないと思える気配に包まれ、一見平和的で民主主義的な平和な風景として装われ庶民の暮らしにまんまとファシズムが紛れ込んでいるように見える。
まるで死にに来いと言っているかのようだ。
それが分かる人間が本当に少ない。
骨の髄迄家畜化され切ってしまっている。
社会の表舞台が推進しているものだからこそ逆にヤバいのだということを知らなければならない。
だってここは資本主義の国なのだから。
命ではなく経済が第一優先の社会だ。
庶民は家畜や奴隷で用が済めば捨てられる。
当たり前だ。
コロナワクチンによりコロナに感染させられて、今度は感染源となり更に感染拡大に貢献する役目を背負わされて行くのだろう。
はっきり言ってしまえば人殺しの汚い仕事を無理やりに押し付けられているのだ。
そして何故自分がコロナにかかったのかや人殺しをの役目を背負わされたことも知らないままにこの世を去る。
知らない内にテロリストにされて闇に葬られるのだ。
それが資本主義国というものだろう。
本当に悪い奴らは自分の手を汚すことなく優雅に遊んでいる。
家畜は牧草地で群れて過ごし何となくのどかな気分に浸り平和を謳歌しているつもりで生きていたけれど、真実なんて何1つ知らされることはない。
コロナワクチンを打って病気にならないようにしようねと飼育員に言われ、真面にその言葉を信じている。
僕がコロナ対応に努めるこの社会に感じているのはこんな所だ。
多くの人はもう十分に洗脳され切っているので、たとえ僕がこんな風に言っても僕の言葉を信じないだろう。
奴隷として育てられ、いつしか奴隷根性と言われるものを持ち奴隷でいることを自ら志願するような暮らしを続けて行く人々。
奴隷でいるとある種の楽さがある筈だった。
その楽さというものが牧草主から与えられる報酬だっただろう。
自立する為にはその楽な世界から抜け出さなければならない。
それを成し遂げられる羊は1部だろう。
この国ではこれ迄偽のコロナ患者が作られて来て実際に感染の危機に遭う確率は低かったかもしれないが、ワクチン接種が実施された以降の暮らしがとても心配だった。
大量に本物のコロナ患者が急増して行く。
人工的に作られたウィルスで免疫系統をやられて行くのだろう。
ただの風邪やインフルエンザをコロナと偽り、そして今度は人工的なウィルスをワクチン接種によってばら撒き感染拡大を図る。
テレビやメディアは益々コロナの恐怖を煽り立て、庶民がワクチン接種を受けるように促す。
ネットの情報に触れていて、まぁこの辺りがこの社会の構造の中で起きている事実ではないかという気がする。
東京五輪だとメディアが騒ぎ立て、アスリートファーストなんて恐ろしい言葉が平然と使われ、いつまでもどこまでも気の狂ったようなジャパニーズスタンダードが日常を覆い尽くしている。
アスリートは一等兵扱いであるかのようだ。
五輪という世界的スポーツの祭典で戦争をしている。
五輪発祥の由来など建前上の理念へときっと落ちぶれた。
軍服からスーツに着替えたような政治家が国会議事堂内でたむろしている。
大日本帝国は続いているのだ。
この社会の根幹にあるのはファシズムなんだ。
死にたくなって当たり前のような日常だ。
嘘の中にどっぷり漬け込まれているから心が苦しんでいるんだ。
時短で夜間営業禁止の飲食店街。
政府が給付金をさっさとばら撒かなかったのは救済する気がなかったからだろう。
口先で言ってることなんて信じることは出来ない。
やっていることこそがその人間の考えに沿った行動である事は明らかだ。
コロナに関する報道を恐ろしく感じる人が多いのではないかと思うが、恐ろしく感じさせようとしているのだろう。
恐ろしく感じさせて自分達の利益を生み目的を果たす為だろう。
本当に報道に愛があるならば、人々を安心させながら事実を優しく伝えようとする報道姿勢を取る筈だ。
だから結局人々を不安がらせてバイアスを掛けようとしている風にしか見えない。
コロナワクチンはたぶん危険だ。
家畜が増え過ぎたから処分しようとしているのかもしれない。
メディアから流れて来るコロナの情報について、疑わしくて胡散臭い内容が感じ取られるようだと僕は思う。
1部の特権階級にいる人々達が得をする為に世界を機能させようとする時、庶民を不安がらせ自分達の思惑通りに躍らせる巧妙なトリックが仕組まれているということを知らなければならない。
メディアはそれを成し遂げる為に使われ機能して来たのだ。
だから公の発表を鵜呑みにしてはいけない。
311の時もそうだし、コロナも自然災害による被害であるかのように報道されているが、これは人類が私利私欲により欲望を満たそうとする時引き起こした戦争による被害だと考えて良いと僕は思う。
常に報道に感じる違和感が僕の中にはあった。
感性を研ぎ澄ませていれば感じることが誰だって出来る筈だ。
資本主義社会はその感性を根こそぎ奪って来た。
そればかりか人間としてまっとうな感性を持たないように、心が真実の情報に触れた時不安がるように様々な価値観を人々の心に植え込んで来た。
様々な情報が混在するネット社会に接触した時、人々の心に巻き起こっている不安とはそのような経緯の中で培われて来たものだ。
感性が生きていれば情報を自分で取捨選択することが可能だが、多くの人々は今それが出来ない状況に陥ってしまっている。
そのことをまず知って欲しい。
社会的に叩かれている人が実は誠実な人で、多くの人々の幸福を願っている人だったということがある。
メディアが善人を悪人に仕立て上げて行く。
ある1部の特権階級の人々の利益の為に行われていることだ。
それが世の常であるということをくどいようだが伝えておきたい。
社会的成功なんて、そんなシステムの中で上手くやったということでしかないと考えることも出来るかもしれない。
だから資本主義社会の中で成功した者が絶対的に優れているということではないということが言えると思う。
実に権威に弱い世間だが、上からのお零れにありつける社会構造は実質終焉している。
過去の社会の中での成功者達の姿を追い求めていても、もう新しい時代を生きて行く為の模範となるような回答は得られないだろう。
何が本当に成功であり素晴らしいのかということの意味が入れ替わって行く。
だが現在僕達が生きているのは紛れもなく資本主義社会である。
そのシステムの中で上手く生きて行かなくてはならないという現実があった。
人の心は弱いから、正しい事が何であるかということよりも社会に 上手く順応し生き残ることを最優先して行く毎日が続いている。
芸能界にいる人気者にしてもそうだ。
大衆の目をたとえ欺き大成出来たとしても、時代を超越した普遍性を勝ち取ることは今ある成功モデルの枠の中では達成出来ない。
そのことをまだ誰も知らない。
コロナワクチン接種が実施され始めたから一安心。
そういった意識が広がっているのが今の日本社会である。
自分達が騙されているのだという視点はその中にはない。
それを疑う行為は世の中から疎ましがられる。
真実へと回帰する流れを食い止めるように思想統制されているから、世の中はそのように働く。
日本社会は非常に同調バイアスの強く働く社会だ。
昭和の長き戦後の平和な時代がそれを培って来た。
戦後の日本を導いたのは誰か。
それは戦争に勝ったアメリカサイドの人々である。
日本は属国で権利も自由もその時奪われてしまったのだ。
だから今ある日本社会の世論を疑ってかからなければならない。
311の時は同調バイアスが人の感性を封じ込め勝った。
資本主義社会が人間らしい営みを制したという形になった。
コロナ時代の今はどうか。
コロナワクチンは誰が開発しどこからやって来ているのか。
いい加減そのことを僕達は1人1人が深く考え見つめなければならない時が来たように思う。
人任せ、政治任せの人生ではいけないということだ。
自分で考え感じ生きる。
ジャパニーズスタンダードがそのような流れへと回帰して行くことを僕は強く望む。
テレビやメディアは洗脳装置だ。
人々を不安がらせ、1部の特権階級にいる人々の富を守る為に働いている。
国のあらゆる省庁からのお達しが狂っているという視点を持つべきだ。
コロナ情報自体がでっち上げだと考えてみるべきだ。
今あるカオスは、資本主義社会の崩壊前夜の一大イベントだと時代を俯瞰して見つめてみて欲しい。
バイアスが強く働いている時代だが、それはつまり資本主義という名の牧草地を囲む家畜を逃がさない為の柵が破られつつあるということでもあると思う。
神風が吹く
そう言って特攻隊員達は零戦に乗り、突撃命令に従い戦場へと向かった。
コロナワクチン接種を受けることとマスクや手洗いをすることと3密を避けることで安全
そう思って資本主義を支える家畜達は、牧草主の思惑など知らずコロナ戦争に駆り出される兵士となり日々を生きていた。
第2次世界大戦。
311。
コロナ。
全てが同じ戦争だと考えて良いように僕は思う。
僕のこの記事を読んでもしも僕の思想を排除したいような気持ちになったとしたならば、それこそがつまりはここで僕が語って来たバイアスというものではないだろうかと考えてみる視点をどうか持ってみて欲しい。
スケジュールに花束を
フレンチトーストのブログ「スケジュールに花束を」
https://frenchtoast2014.hatenablog.com
10月ももう終わりですね。
気が付けば今年もあっという間に残り2ヶ月程になりました。
今日はフレンチトーストのブログについて紹介します。
僕は今、フレンチトーストのライブ活動を始めています。
皆様に活動の内容を紹介する為に、フレンチトースト専用のブログを始めました。
当ブログ「シュールにROCK決めこんで」をいつも訪問して下さる皆様には、本当に心からありがとうございます。
当ブログ同様に「スケジュールに花束を」をどうぞ宜しくお願いします。
SHOWの幕開け
段々と秋の気配が強まって行く季節ですね。
先日16日のミュージックファクトリーさんでのライブを無事終えることが出来ました。
ライブに来て下さった皆様には本当にありがとうございました。
温かな拍手に沢山のエネルギーを頂いた気がします。
僕は「FRENCH TOAST de SHOW!」と題したフレンチトーストライブを始めました。
月に1回か2回位のペースで継続してこのライブを続けて行こうかなと思っている所です。
ライブのスケジュールが決まり次第、このブログでお知らせして行こうと思います。
宜しくお願いします。
第1回
FRENCH TOAST de SHOW!
演奏曲
1 愛しき人生
2 AFTERNOON LIVE
3 MY WAY
4 CHOCOLATTES de SHOW!
5 CHALLENGE
6 素晴らしき人生を
FRENCH TOAST de SHOW!
FRENCH TOAST de SHOW!
九月に入り、夏の暑さも和らぎとても過ごし易くなりましたね。
フレンチトーストとして僕も出演させて頂くことになっている、ミュージックファクトリーさんでのクロスオーバーミュージックについてのお知らせをします。
今回のフレンチトーストライブは、僕にとって新たなミュージシャンとしての人生の始まりとなるライブにしたいなという気持ちで日々を過ごしています。
第一回目のショーの幕開け。
題して「FRENCH TOAST de SHOW!」
そんな風に名前を付けてみました。
僕のこの国への想いを音楽にして伝えます。
是非遊びに来て下さい。
音楽は必ず世界を一つにします。
僕はそのことを今も強く信じています。
日本は今、本当に心の中が貧しい時代を迎えているように思っています。
見た目では分からない心の飢餓。
それを感じています。
過酷な生存競争。
システムによって管理された偏った道徳観。
僕らの日常の生み出す矛盾。
人の心は真の希望が見い出せません。
様々な混乱の中で感じている心の渇きに潤いを!
FRENCH TOAST de SHOW!はそんなスローガンを掲げたライブです。
僕はこれからこのショーを継続して開こうと思っています。
お時間のある方は、是非お越し下さい。
誰もが歓びを持って参加出来る社会を!
真の変革とは何かを排除することではなく、物事の真実を解き明かしてゆく中でお互いの抱えた矛盾すらも含め理解し合い、愛を育もうとすることではないかと考えていました。
批判からの社会変革は絶対に成功しません。
日本社会に欠けているもの。
それは人間的な感受性を無視せず、 優しく素直な眼差しで世界を見つめ、全ての痛みに共感して行こうとする気持ちなのかもしれません。
欠けているものを補おうとする時に争いが生まれてしまいます。
問題解決をしようとする善なる心が悲しみを生んでしまうのです。
その際、それぞれの掲げた正義が衝突し合って悲しみが連鎖しているということではないでしょうか。
真の平和運動とは、そのような人の心の科学反応によって営まれるものではないでしょう。
理屈っぽくなってしまう頭を少し脇に置いて、愛と調和のリズムを感じることから僕はこの日本を再構築させて行きたい。
きっと音楽には神様によって特別な力が与えられています。
僕はFRENCH TOAST de SHOW!に様々な思いを託して歌い出してみたいと思います。
ライブで会いましょう。
