JACK

 ※このJACKというタイトルの記事は、暫く前に書き始めていたのですが完成したので公開しました。

 

 

 

  JACK

 

 僕らの過ごす日々は、目まぐるしく姿を変えながら猛スピードで加速し移ろい続けているように感じている。

 昨日の出来事への世の中の捉え方は、もう今日には使い古された常識であるかのように様を変えて行く。一日二十四時間を刻む秒針のリズムに、僕はそんな風なスピード感を感じていたのかもしれない。全てが急速に変化を遂げているかのように感じていた気がする。

 

 

 僕は四月五月とXを覗き、世の中の流れを見つめて来た。

 長らく覗くことのなかったこのSNSは、知らぬ間にツイッターからXへと呼び名が変更されていた。ツイートもポストと呼び名が変わる等していたが特別使い方に違いがあったという訳ではないのか、新たに利用する上で困ることはないようだった。

 

 Xは市民メディアとでも言えば良かったのだろうか。

 大手新聞社の記事がデマや洗脳に塗れていることやテレビが嘘ばかり伝えていることも、市民レベルで段々と理解されていたのだろう。そのきっかけとなったのはコロナワクチンだったように思う。ワクチン後遺症に苦しむ人々が世界中に溢れていた。

 

 

 こんな風な事態に陥ってみて、初めて政府の主張には偽りがあったのだと国民レベルで深い議論が生まれ出していたように思う。

 侵略もなく長らく続いて来た平和もどきの生活の中で、日本人は親の愛を疑わないのと同じようにたぶん社会通念みたいなものにある種の信頼を強く持つ国民性を育んで来た気がしていた。性善説的に心の愛を信じているかのようでありながら、だが現代特有の冷めた感情も持ち合わせていて、信頼しながらも何も信じていないかのようなある種矛盾したメンタルバランスを感じるような思いになる。

 

 僕らは掛けられた洗脳から容易くは脱却出来ないみたいだった。

 身近な親世代にはネットは余りしない派も沢山いたことだろう。自分の食事の面倒を自ら全て見ている僕の食生活を気遣い、栄養が良いと信じて疑わない牛乳を飲めと勧めて来てくれる身近な存在である親世代の姿があった。だがこの昭和の時代の牛乳信仰は、僕の中では既に崩れ滅んでしまっていた。親世代との間にはジェネレーションギャップがあり、話がなかなか上手く噛み合わないことがあった。

 こんな時は話を聞き流し、相手の信念を尊重し見守るくらいしかやりようがないのかなと思っていた。自分の意見を伝えたとしても、きっと人は自らの信念を覆すものに対してまず身構えてしまう生き物であったのかもしれない。表現者にしても本当に新しい者は初めは理解されないものなのだろうし、寧ろ拒絶から始まるといっても良いのかもしれないなと思う。人は安定を揺るがすものを排除しながら、時代を遠く彷徨っているかのようだ。

 

 コロナワクチンに対する考え方は、この国の人々や世界の人々の人生観を深く内観する象徴となった気がする。

 

 

 コロナワクチンについて、僕は311の時の福島第一原発事故による放射性物質の問題に類似する特徴を見る思いがしていた。

 資本主義の中でどう立ち回るか。損得の優先するような社会風潮に対し、心の中に募らせていたような気がする悲しさが僕の心を支配しているように思えていた。コロナワールドに遭遇して尚一層風潮は色濃く時代を冷めざめと彩って行くかのように思えていた。時代により何を信じ生きて来たのかと神に問われているかのような、審判の時を迎えているように思えていた。心の中がまるで透けて見えるかのように、隠されていた物事が告白を続けるような時間が流れ去って行く。

 コロナワクチン集団接種と聞くと何だか僕の心の中では集団自決とイクオールで結び付き自動変換され、神風信仰の素顔が覗いているように思えていた。

 科学的に証明されぬものの立場は非常に脆く、世の中は権威の力になびく。大衆心理として肩書きに弱く、有名な程優れていると思い込む癖みたいなものが真実から心を遠避けていたのかもしれない。

 コロナワクチンを巡る様々な憶測がコロナワールドの過ぎゆく月日の中駆け巡り、何が正解か証拠を上げて語ることは誰にも不可能なことのように僕は感じていた。

 外国の医師が真実を突き止め警鐘を鳴らす動画を、旧ツイッター時代に目にする等して来た日々を振り返る。

 

 

 医師はたぶん水酸化グラフェンだと言っていたように記憶しているが、コロナワクチンの成分の中に水酸化グラフェンを発見したその医師が危険を知らせていた。

 カミソリの刃と同じ構造体であり非常に安定しているらしく、体内を傷つける仕組みについて語られていた。世界中のアスリート達が試合中にバタバタと倒れている動画が旧ツイッター時代に流れていたことを思い出す。この話はたぶんそんな頃の話になるのではないかと思う。医師はインターネットを通じ真実を伝えようとしていたように思うが、残念ながら暗殺されてしまったようだった。忌まわしきファシズムが世界を取り巻いている実態が露呈する大犯罪だと思ったが、多くの人々にとってはまだ陰謀論という扱い止まりとなる確証を得難い案件であったようだった。

 

 僕のような一市民が危惧の念から幾らわめこうが、人々は打ち込まれた洗脳による信念体系の中でしか物事に反応しないように思えていた。

 常識の囚われ人であり、心に安定をもたらしていたのはカルトまがいな社会通念であった気がしてならなかった。

 

 僕はそんなコロナワールドを彷徨いながら、自らの感性に響く情報を取捨選択しながら暮らして来たように思う。

 この狂った世界では、頭で考え過ぎるとなかなか真実には辿り着けない気がしていた。

 世の中はたぶん条件付けされた思考の中で周り続けている。たぶん僕もそんなカルト的宗教の信者みたいなものだったのだろうと思う。一部の天才はその矛盾に鋭い感性を向け、嘘を見破り生きることへの苦しみを感じながら生涯を過ごして来たのかもしれない。本能的にその社会の偽善性について感じ取ってしまう人は、なかなか生き辛い世界に違いなかったことだろうという気がする。

 恐らくそんな風に時代性をキャッチし自ら危惧する思いを作品へと昇華して大衆にメッセージするだけの器を持った表現者は、残念ながら二十一世紀には不在のようだった。だが逆に言えば民衆一人一人こそがリーダーであり、カリスマが君臨する時代ではないということだったのだろうか。

 

 日々の暮らしの中で基本的に人は文明の中での洗脳を受け、様々に心の中に打ち込まれた価値観により情報にラベルを張り取捨選択をしていた気がする。

 洗脳されたマインドでの取捨選択は、きっと誤りだらけとなってしまうものなのだろう。もっと研ぎ澄まされた野生的生存本能みたいなものに直結した感覚で情報をキャッチしながら、風潮の流れに惑わされず自らの感性に響く情報と繋がり人生を切り開いて行くような生き方をすることで、様々な困難を乗り越えて行かなくてはきっと生き延びることが許されないような厳しき時代性を僕はひしひしと感じて来た気がする。

 コロナワクチンについてどう考えるか。

 それは恐らくそれぞれの人の意識レベルが磁石のように作用し、信念体系を司るマインドの周波数と同調する観念に付随し行動が取捨選択されて行ったということだったのではないだろうか。これは理屈の部分を越えていて、周波数同士の引き合いによる融合という気がしていた。他人がとやかく言ってもなかなか信念を変えることはたぶん難しかったことのように思う。実際に自分で体験を通して物事を理解して行くこと意外には、人は偏った偏見を持ってしまった意識の中で事実を見極めフラットな意識に戻り現実と呼ばれている体験を通過することは難しいものなのかもしれないと思う。

 コロナワクチン接種に関連したトピックには、政府の偽善性を見破るまでの国民の葛藤が存在していたように思う。

 戦争のない国で社会構造について真剣に悩み青春を通過し大人になった人は、たぶんそんなに多くはないのかもしれない。

 この偽善だらけの社会に生かされたならば、本来僕らの青春は暗いものであるような気がする。様々に思い悩み葛藤を抱えるべき期間だという気がしていた。

 だがどうだろう。

 実際には高校生は人生で最も楽しい時期だと感じる若者が、たぶん大半をしめていたのではないだろうか。そこに現代の社会からの洗脳度がかなり表れている気がしていた。

 高校生が人生で一番楽しい。

 ある意味ド正解である気がするが、だがその心理には社会に対する諦めが初めに既に確立されていて、これは奴隷根性と言われる信念に付随する悲しくて危険なものだと僕は感じていた気がする。体制に支配されマインドを酷く傷つけるられ飼い慣らされてしまっている。そんな風に僕は感じていた。

 

 たぶん人生に対する悩みって畑に蒔かれる肥料みたいなもので、青春はどれだけ物事について悩み自問自答を繰り返して来たかということが人生の土台を形成する上での大切な財産となるような気がしていた。

 コロナワクチンに関連したトピックの問題に直面して行く壮絶な日々が、まるで時代を成熟へと導く厳しき指導者のような働きを担っていたのかもしれない。

 嫌だけど目を背けて来た高度経済成長期やバブル期等に山積させて来たであろうと思われる社会的な課題が、後付けで日常にどっさりと積まれたかのような状況だと言えたのかもしれない。

 

 

 僕個人の話だが、二〇二二年はバンドフレンチトーストの作品として戦中お見舞い申し上げますというタイトルのアルバムを制作しコンサートを二回開催した。

 コロナをテーマに掲げ、この国に流れ続けていると感じていた神風信仰についての思いを作品の中に刻み込んだつもりだった。

 神風が吹くと扇動されながらワクチンパスやマイナンバー等様々にファシズムにより包囲されて行く日常に対する僕なりの警鐘を鳴らす活動だったつもりだが、メッセージを拾ってくれる人にはなかなか出会えないように感じていた。

 同調圧力が強く働く日常に弾き飛ばされる僕の主張。恐らくはそういった状況が続いていたのではなかったかという気がする。

 僕の心の中では、日常の中で暴力に出会い差別を受ける屈辱の爪弾きのその名は神風だった。

 言い争い意地を張り合う尖った勢力争いに解決の日は訪れないかのような重た気な日常に抱えていた問題が山積し、右も左も行き止まりの袋小路に追い込まれて行くような絶望を僕は感じていたのかもしれない。

 

 

 だがそんな日常もここに来て一気に様相を変え、流れが大きくシフトチェンジして来ているようだった。

 戦中お見舞い申し上げますというフレンチトーストのアルバム作品の中でミステリーのエピローグというタイトルのナンバーがあった。

 コロナワクチンに対する危惧を歌った曲だった。身近な存在に聴いた感想を尋ねたことがあった。ライブバージョンで演奏前に台詞入りだったが、ゴチャゴチャしていて情報が多く頭が忙し過ぎて良く分からない。たぶんそんなような感想だったように思う。曲の感想をくれた人は、ごく平均的な意識の日本人という印象を受けていて、恐らく世の中の多くの人が同じように感じるのかなと僕は思った。まるでメッセージが響いて行かないような、手応えなき感覚に終始する活動になっていたのかもしれない。

 

 だがコロナワクチン後遺症についてリアルに人々が問題に直面していた今は、日本社会の常識が数年前のコロナワクチン接種が開始された頃とはもうすっかり変わってしまっていたように感じていた。

 政府や医学を信じコロナワクチン接種を受けだが、後遺症によりトラブルが発生した日常に嘘があったことを多くの人が肌感覚で体感していたのだろう。これは僕の主張していた野生の感性の中に響く感覚ということが言えたのかもしれない。頭のいう理屈ではなくて、既成概念に縛られない生まれ立ての自由で素直な人間的反応である気がしていた。プロパガンダからの被害に、現実問題として直面してしまう前に回避する能力。たぶんその能力がこの社会に山積している問題を片付けて行く一つの大切な力なのかもしれない。その能力を高めるには、何度も失敗しながら学ぶしかなかったのかもしれない。その能力を支える感性を育て失わない生き方を多くの人が実践出来たとしたら、民衆の暮らしの中でたぶん権力者達のファシズムがつけ込み介入する隙がなくなって行くような気がしていた。

 

 二〇二四年である今年、フレンチトーストは結成十周年を迎えていた。

 僕は記念アルバムを制作しておきたいと思い、急ピッチで仕上げて行った。コンサート開催も考えた。結局お客さんが集められなかったことと、フレンチトースト結成の地のきららカフェでのコンサート開催が難しくなったという理由等があり開催することが出来ずにいた。

 そんな状況の中Xを通じて社会が日々激変して行くような様子を見ていた僕は、ソロ活動に戻ることを考えた。

 フレンチトーストの活動で僕はラフでフランクなノリに思えるその音楽性を楽しんでいたが、時代にロックンロールが必要な時のような気がし始めていた。ソロではロックンロールをやっていた僕だった。

 

 

 この世界には、たぶん今全くロックンロールがない。

 コロナワクチン後遺症の問題がこんなにも顕著に浮かび上がった世界に於いて、その実態について訴えるロックが生まれて来ないということに僕は人類の希望のなさを感じ嘆いていたのかもしれない。

 世界クラスでもそれを表現するだけの器のあるミュージシャンが不在である現実を目の当たりにしていると感じていたように思う。

 

 911の時その現実に対して曲がリアリティーに着いて行けないといった内容の発言を、佐野元春さんだったか口にしているのをテレビで観た記憶があった。

 なるほど。確かに。

 僕はそう思ったような気がする。

 テーマが壮大過ぎて表現が間に合わない。

 自身で曲を作るミュージシャンにとってそんな現実があったのかもしれない。

 

 コロナワールドについて歌うことは難しいことなのかもしれない。

 だけど口籠もり主張しないという訳にはいかない思いを、僕は感じながら日々を過ごしていた。ロックンロールをやって来た以上、それはある意味義務だと思っていた。

 だがこれは命懸けの義務で、他人が当人に指図出来るようなことではない気がしていた。

 311の時斉藤和義さんが、自らのヒット曲の替え歌で原発の危険を訴えてくれていたけれど、本人の危機感から生まれる正義感みたいものに思わず突き動かされての行動だったのではないだろうか。

 世の中真実を歌えば正義が勝ち取れる等と、安易に思える程青臭くもない僕だったのかもしれない。何を歌っても焼石に水。無名一ミュージシャンがこの社会の構造の中で這い上がり成功した例を僕は知らなかったように思う。まるでやっても無駄なことのように思えてしまっている中年の力ない僕がいた気がする。だがきっとそれでは駄目だと感じてもいたのだろう。模索を続けなくては、自分で歌を作り歌うミュージシャンとして失格ではという思いに駆られていたような気がする。

 斉藤和義さんは自らのヒット曲の替え歌として原発利権社会に物申してくれたが、詳しくはないのだが新しきナンバーとして歌を社会的な場に誕生させてはいなかったのかもしれない。歌を作ることは出来たとしても人々から共感を得役立つ、そんな生活の中で力を発揮するような曲を生み出すことはかなり難しき話だったような気がする。

 

 ミュージシャンを長くやって来た僕だけど、自らの体験からヒット曲は狙って作れるものではないかもしれないなと思う。

 ある程度は可能だとは思うが、名曲の誕生を望むのはそれはかなり難しいことのように感じていた気がする。

 僕の経験の話なのだがライブハウスで歌った時皆に受け入れられる曲というのは、初めて歌った時に聴いた人が何らかの感想を自然と口にし伝わって来るということがあった。曲にヒット性がありそうなってしまうようだった。そしてそれは曲を作った本人の僕の思いとは違っていて、予想外に曲が一人歩きして人々に受け入れられて行くという体験だった。

 

 そんな体験を振り返りながらコロナパンデミック条約というWHOに関係する条約について様々に思い巡らせ、このテーマで曲を作ろうと日々を過ごしていた。

 曲は直ぐに書けたが、だからといって社会に役立つだけのナンバーであるのかという問いについて予測することは不可能に近かったのかもらしれない。ある程度多くの人に受け入れられそうに思える曲が作れたとしても、実際に社会の中で人の生き方にまで影響を及ぼすような力のある曲を作れるかどうかなんて意図して出来る範囲のことではなかったのかもしれない。だがより良い社会の実現を願い、今やれることを今ある能力でやるしかなかった。社会的に存在意義のある曲を作ろうと僕個人が幾ら奮闘してみた所で、そんなに容易くは果たせぬ希望についての話なのかもしれない。だがそれでも音楽をやって生きて来た僕としてはトライを続けていたかった。国民の暮らしはもはや希望が見出せないような極限状態にまで追い詰められて来ていたように思う。取り敢えず JACKとROCK DOWNというタイトルの二曲が生まれた。自己満の領域で人類史の中の藻屑と消える蚤であるにせよ、闘うことから始めなくてはならないと感じていた。

 ロックで時代をパッシングすることは、たぶんとても難しい。

 歌詞が批判の領域に留まることもあるだろうし、その先にまで突き抜けて行くような希望の光となり混乱の世を明るくするようなことにはなかなかならないものなのかもしれない。

 

 ロックについて色んなことを思いながらロックから思想性みたいなものが失われ退化して来た現代であるように感じているが、豊かな人間教育への可能性を僕はロックに見い出そうと探していたのかもしれない。

 真の自由。

 平和。

 愛。

 

 真実なんてもう誰も口にしないような時代。

 生存競争の中馬鹿を見て取り残されてしまうことにはもう辟易で傷つくことに臆病になり、僕らは自らの感受性を虚勢しながら物事を分かったような顔をしながら生きて来たのかもしれない。

 東京の駅で人が倒れてももはや誰も足を止めない。そんな社会の姿があるようで、Xでそんな日本社会の日常の素顔を垣間見ていた。誰かを助ける為に立ち止まれば自分が社会の皺寄せを受けてしまう程に時間に縛られ、暮らしには義務化された理不尽な要求が政府から付き付けられていたということが言えただろうか。追い立てられる街の喧騒の中で、人々は大切にしなくてはならなかった筈の人を思う心の愛を捨てながら生きて来たように僕は思う。それはやるかやられるかの戦争体験だったような気がする。

 

 

 ロックンロールが滅びた社会で、僕は今何を主張すべきなのだろうか。

 偉そうに人に何かを言えるような立場にはない人間であることは、それなりには分かっているつもりだった。自己責任論が蔓延する社会の片隅に生かされていて、ともすれば自分に駄目出しばかりの日常が続いていたのかもしれない。自己責任という言葉は鬱社会の代名詞であるかのようだ。一パーセントのエリート層から生まれた、愚民を嘲笑い心を殺す為の言葉の暴力である気がしていた。たぶん僕はか弱き子羊かもしれない。だがまだ諦めてはいない。諦めたら本当にゲームオーバーだったのだから。大したことは出来ないかもしれない。だけど細やかであったにせよ、自分に出来ることをやり続ける勇気を失わないでいたいと思った。かなり心はぶっ壊れてしまっていて機能不全に陥っていたような気がするが、希望の未来に向かい前進しようとするその歩みを止める訳には行かなかった。日常は暴力に溢れ悲しみの色に染まって見えていたとしても、次の山がどう動くかなんて誰にも分からないのは確かなことだった。

 

 

 たぶん今時代はロックンロールだ。

 ロックンロール以外に今の混沌とした世界情勢を打破し、希望に突き抜けて行くような熱き情動を伝える表現手段はないのかもしれない。

 

 

 mRNA。

 初めから絶対に人体に打つべきではなかったワクチンだと、僕はそう思う。

 過去のワクチンとはもう比較すべきではない呪いの強さみたいなものを感じ、忌々しく思っていた気がする。

 きっとヤバ過ぎる代物だと感じていたのだろう。

 

 大量虐殺計画。

 人類をアウシュビッツ収容所送りにして、地球を統治する野望に燃える種族。

 そんな人々が実際にこの世界に実在していて、日本政府もその手先なんだという実態が遂に明かされていた。

 コロナワクチンは生物兵器。

 人を殺す為の集団接種。

 日々急速に明かされて行く確定事項が並ぶ。

 かつて陰謀論と呼ばれていた実しやかな話が、現実として姿を現していた。もう疑いようもなく否定する余地はなかったと、僕は個人的にはそう思っていた。

 

 岸田総理は日本を治験大国にすると明言した。

 だが僕らは国の所有物ではない。

 勝手な取り決めをされては困る。

 

 自民党という大犯罪集団が国会議事堂をジャックしていた。

 国会内で国民の声を体現し語ってくれていたように感じていた令和新選組の議員に、口封じの厳重注意がなされる。誰が聞いても可笑しな話だろうと思った。本当のことを言う議員が罰せられ、犯罪者が野放しのままだった。今更自民党に権力を持たせておくべきかどうかを議論をするような段階にはもうなかった。これは僕個人の考えだが、もう完全にNGだった。犯罪者集団であり投獄すべき人々であり、与党としての資格は白紙撤回しかない状況だったと思う。国を私物化した脱税犯達が、自分達のことだけを考えて国民に対しファシズムを振りかざしていた。自民党を擁護出来るだけの材料はもう残ってはいないと僕は思った。党を解体し滅んでもらわなくては日本が終わってしまう。自民党政治を終わらせなくては次がもうない。きっと今は反戦反核を声高に主張することの出来る最後のチャンスなのではないだろうか。言論統制や思想統制の先にあるのは、デジタル監視社会なのだろう。マイナンバー辺りから締め付けが始まっているものと思われる。移民を受け入れ文化を破壊し、世界を統治して行くアウシュビッツ計画が進行しているものと思われる。

 この話はコロナワクチンに纏わる詐欺の話所ではなく、恐らく今の文明社会を埋め尽くしている物からは想像が及び辛いようなテクノロジーの発達したSFの世界の中のような未来での大犯罪の話になるのではないかと思う。

 僕はミュージシャンとして生きていて、幾つも無限に存在するであろう未来が音として聴こえる気がしていた。音楽は周波数で、様々な領域にある現在過去未来に意識の波長を合わせれば音楽としてその世界観の宿すリアリティーが聴こえて来ていたのだろうという気がする。それを上手く曲にして人々に伝えるのが、音楽家の役割の一つなのだろうと考えていた。

 例えば映画監督のスピルバーグはAIって作品を通し、映画の世界でそれをやっていたのだと思う。

 ブラックボックスの開いた世界で自民党員等の国民を支配することへと向かう人々の乗り合わせた未来行きの電車が、時空の壁を越えるように狂気の情念を燃え上がらせながら走り続けて行くようだ。

 

 そしてそれとは真逆で、地球市民としての自覚に目覚めて行く人々の意識の覚醒も加速していたように思う。

 真実に気付き、政府にNOを叫ぶデモ参加者達。生きる権利を懸け立ち上がる人々。誰が救ってくれる訳でもないと悟り、人は自ら感じ考え行動を始めていたようだった。

 僕は僕にしか出来ないやり方で愛や真実を叫びたいと思う。

 

 

 来たる五月三十一日。

 この日国民運動として、東京の日比谷でデモが実施される予定となっていた。先月の話だが、四月十三日に行われた池袋のデモには驚いた。何万もの人が参加していた。大方のメディアからは情報が流れて来ることはなかった。このデモ集会について知った時、普段余り自分の政治的スタンスを表明しないように思えていた日本人が時代性に危機感を募らせ立ち上がったと感じるような喜ばしき出来事だと思った。

 

 令和六年の世で、五月三十一日に国会議事堂を民衆がジャックすることを僕は願う。

 グローバリズム、コロナパンデミック条約に僕は反対する。

 レプリコンワクチンは滅亡へのカウントダウンに他ならない代物だと思う。

 その推進にはどんな正義もない。

 全ては欲得の為の偽善であり、嘘でしかない。

 日本のDSの大犯罪を許してはならない。

 独裁国家の誕生を阻止すべく、自民党解体以外に道はもう一つも残されてはいないと僕は思っていた。

 きっと様々な国民感情があったことだろう。

 自民党を支持する人も当然いたことだろう。

 だが脱税犯が改憲を語り、独裁国家誕生を目論んでいることが明らかな今、どんな主観があるにせよ国民生活の人権を守りたいのであれば自民解体一択しかもはや道はないと僕は思う。

 アンケート調査で生活に安定を求め自民に期待する人の姿があった。役者を使ったプロパガンダだったのかもしれないが、今更独裁国家誕生を目論む悪しき自民党に期待すること等ないと人権の守られた国を望むのであればそう言わなくてはならなかった筈だった。これは個人の趣味とか主張とかそんなレベルの話では既になくなっていると思っていた。取り敢えず自民党を政権の座から引きずり下ろしてからの話でしかない。議論したいなばそれからにしたい。今は緊急を要する。独裁政権が誕生するか否かの重大局面だった。恐らく自由にものを言うことの出来るラストチャンスではなかったのだろうか。そんな風なことを考えていた。

 

 僕らは二次元的なお花畑に生きて来ていて、実際にそうなってしまってからようやく困った現実問題に慌て出すような性質が見られるように思う。

 これは現代の日本人特有の心の病気なのかもしれないなと思う。反応が余りに鈍くてヤバい。僕を含めての話だと思っている。たぶん怒りを表現してはいけないとか、社会的なマナーを教えられ飼い慣らされて来た結果だったのではないだろうかと考えていた。だけど今は人の心の愛を傷つける狂ったルールを破壊しながら、自らの心が正しいと感じる道を切り開いて人生を歩んで行く強さが必要な時だったように思う。だから失敗を恐れずトライする勇気を持ちたいと僕は思った。ふと気付けば社会全体に蔓延していたように思える諦めムードみたいなものに流され、か弱き子羊を演じているような自分の姿に気付くことがあったような気がする。未熟な僕だとは思うが、自分とまだ闘っていたいとそんな時は思った。

 自分も含め世界中の多くの人々の心が段々と制御不能に陥って行くかのようで、そんな暮らしの中で裏も表もないようなリアルが顔を覗かせているように僕は感じていたのかもしれない。

 

 色んな信念体系の下に主義主張があったにせよ、自民党をまず解体しなくては次がない。

 もう全く選択の余地がなかった。紛れもなく当たり前のこととして社会的に誰もが認識出来る状況になっていたと思うが、くどいようだが重ね重ね伝えておきたい。自民党だけは絶対に駄目だ。裏で繋がっている政党も当然駄目だ。

 

 古い政党はどこもかしこももう駄目になってしまっていたのだろう。

 政党の国民に寄り添う振りに簡単に騙されてしまう、国民性の人の良さに悲しさを思う。コロナワクチンへの考え方がそのことを顕著にしたと思う。残念ながら感性で詐欺を見抜けなかった。それは確かな事実だったように思う。

 人の豊かな感性を削ぐことが、支配者層にいる人間達にとっての義務教育課程に於ける命題だったのだろうという気がする。

 

 

 僕らが百パーセント同じ正義を共有し意見が同じになるなんてことはないと思うが、取り敢えず言論や思想の自由が約束された社会を望むのならば自民党の解体は誰もが共有すべき必須課題として目の前に表れていたのだろうと思う。

 そうでない現実を望む人にとっては、また別の課題があったのだろう。

 僕は地球市民が主役となる、そんなピースフルで平等な社会の実現を願う。

 

 この記事に書いて来たことは、あくまでも僕個人の現政権や政治等への思いだが、国民の皆様はどう思っていたのだろうか。

 

 

 

 紹介しているYouTubeはJACKというタイトルの曲です。


www.youtube.com

JACK

Words & Music by Yoshinori Sugawara

 

鮨詰めの満員電車降りたコロナワールド

不要不急の外出を自粛してもう数年

ホームステイ マスク 手洗い うがい ぶち込まれたワクチン

ワイマール憲法の手口に似た日本政府

ディープステイト グローバリズム 外資系に国を乗っ取られて 国会は劇場化したまま

国会議事堂をJackせよ 国家権力の大犯罪 虐げられた子羊達

国会議事堂をJackせよ

国を変えるのは今しかない

 

大手企業の社長がニュースでマイナンバーの話

保険証廃止に躍起の大臣 一味なら不買だろうな

脱税犯が改憲を語るイカれた政治

あくせく働いて血税絞られる

民衆の暮らし小指の先ほども気に留めない 能登は放置プレイ 議員バッチを奪い返せ

国会議事堂をJackせよ 六人に一人貧困 這い上がる術奪われ

国会議事堂をJackせよ

気がいいだけじゃあもう殺される

 

コロナパンデミック条約にNo!

生きる権利勝ち取ろう Stand Up Japan!

 

 

国会議事堂をJackせよ 国家権力の大犯罪 虐げられた子羊達

国会議事堂をJackせよ

国を変えるのは今しかない

横に手を繋ぎ国会包囲せよ