天国に近い国

 一月半ばのよく晴れた水曜日。
 食料品店前のベンチに座り、僕は陽だまりに少しの間佇んでいた。
 特別な奇跡が起こりそうもない、ごく平凡な日常に、何故かゆったり流れる様な時間と幸福を感じていた。


 不安を探せば切りのない現代社会。
 この頃は、真実を目の当たりにしても、人々は自分が認める現実以外を無視する様に互いに擦れ違っていく様だ。
 僕は、何となく小さな幸福の物語を心に思い描いて、その場に足を止め、街角に生まれた座標点の如く、現実の意味に個人的解釈を加える存在になっていた。



 引っ切りなしに行き交う人々。
 アメリカンナイズされたライフスタイル。


 僕は、こう想像力を膨らませてみた。


 時空の旅人となって、この次元にもしも現れたとしたら、そこの通りを歩く流行りのドレスの彼女も原始人並みに滑稽な姿に映るのだろうか。


 そう考えると、格好良さの表面張力が僕の意識の中でそのバランスを崩し、イデオロギーの上に進行するであろう哲学の歩調が、一斉にラプソディーを奏で始めた。
 僕は少年の頃からずっと、こう考え、願い生きてきたのだろう。


 本物の輝きが一つ、この胸の内に生まれよ
 と。

 丁度そう思った頃だった。
 目の前の駐輪場の脇に、一匹の犬を連れたお爺さんと叔母さんが現れた。
 何とも愛らしい犬は老犬の様だ。
 特になんてことのない物語の始まりだけど、この話が僕に恵んだ幸せは計り知れないものの様な気がしたのは一体何故だったのだろう。


 二人は直ぐさま僕の座る二つ続きのベンチに、同じく腰を下ろした。
 太陽が青空に輝き、何だか春の様な陽気だった。
 街に吹く風もとても気持ち良くて、少なくともこの瞬間は、東の大地で起きた悲劇を忘れさせてくれ、優しい慰めを受けている様に感じていた。


 犬は飼い主のお爺さんの忠実なしもべの様だが、意思表示はしっかりしていた。
 パンを鼻先に当てられても、興味を持たずほのぼのした表情を浮かべている様に見えた。
 お爺さんは犬と暫く語り合ったのち、何か用事を済ませる為に立ち上がり、そのまま犬の綱を繋ぐこともなく歩き去っていった。
 犬はただじっと、その後ろ姿を見つめていた。
 それからずっと、僕が傍で見ていても脇目も振らずお爺さんの帰りを待ち続けた。
 その純粋でまっすぐな忠誠心は美しく、ある種の痛ましさに輝いている様に感じられた。


 行き交う人々の多くが、そんな犬の姿に微笑みを零し通り過ぎていく。
 僕は、動物の純粋でとても気高い魂に触れ、心底癒される思いになった。
 どうやらこの犬は、この街の人気者らしい。
 僕はそう思った。


 十分か十五分位経った頃だっただろうか。
 お爺さんが犬への手土産を持って嬉しそうに戻ってきた。
 お爺さんがその手にしているものは、太いソーセージであることが目に入り分かった。
 犬は、さっきのパンの時とは違い、ソーセージには食欲を膨らませていた。
 ここに来るとこれが貰えると知っているのだと、ベンチに座ったお爺さんはそう口にしながらソーセージをちぎり犬に与えてゆく。
 お爺さんの帰りを犬と待っていた叔母さんも、いつものことだと言う様に微笑みを零していた。
 お爺さんが去った後、ちゃんとそこにいる様に人間を諭すほどにさりげなく言った切り、煙草を燻らせていたが、好物をたいらげてゆくその愛らしい姿に見入っている様だった。


 なんてことのない話。
 だけど、とても新しく感じてしまう訳は、やっぱり生きた本物の情愛がそこに存在していたからなのだろう。



 その後、何となくお爺さんと会話になり、この犬の話を少し聞かせてもらった。


 お爺さんは家族とは暮らしていないそうで、犬はまさに家族同然として付き合っている様だった。
 自分が先立った後の犬の心配を口にする。
その言葉に犬への深い情愛の色が滲み、僕の心にじんわりと伝わってきた。


 心の距離感の取り辛い様な人間社会の複雑さの中で、動物とのコミュニケーションは実にシンプルに違いないだろうと、いつも僕は思う。
 何の見返りを求めることなき純粋さを自分も持ちたいと思った途端に、もう次の欲望の奴隷になりかけている様な暮らしの中で。
 きっと、そんな意識に生まれることが出来たとしたら、色んなことが聡明さの中に輝いて見えてくるのだろうなと想像は果てしなく続いていく。
 そんな心の自由を手にすることが出来たら、きっと天国に入国する為のピザが神様から僕達人間に支給されるのだろうな。
 人間が究極的に辿り着くべき境地に違いないと感じる。
 赤子の様な純粋無垢な魂にこそ、神は宿り、天の祝福は舞い降りるものなのだろう。
 だから、精神の浄化に動物との触れ合いはとても有効だと思う。


 やっぱりこの犬はちょっとした街の人気者なのだそうで、朝、お年寄り達が広場で体操をする時連れていくと喜ばれるのだとか。
 一日来ないと心配する人が現れるほどだそうで、癒されると言われるらしい。
 おっとりとした風貌とは違い、自分よりも大きな別の犬と勇ましく闘う一面があるかと思うと、子猫を拾って帰ってきて、育てているのだそうだ。


 なんて人間チックな奴かと思った。
 年齢は思っていたよりも若く、六七歳位とのことだった。
 東の大地の原発事故によって、こんなにも俺様モードの卑しい人間が溢れ返っている社会の姿が浮き彫りとなった世界の片隅で、嘘のない情愛の物語が進行していることは僕にとって救いだったのだと思う。
 本当はこんな命の営みを守る為の正義があれば、社会はそれで正しく機能するものなんじゃないかなっていつも思うよ。



 出世や金に目の眩んだ狂った人間社会から見たらきっと、大して価値のない様な犬の一生の物語のほんのワンシーンに、不意に僕は遭遇した。
 それは、何となくそんな淡い期待がふと胸に込み上げた瞬間に出会った、柔らかく素敵な小さな愛の物語。
 自分の意識が共鳴する現実の扉を、人は叩き人生を旅しているのだろう。
 今ある世界が壊れているのは、人間の心の中に恐怖や憎しみといったネガティブな感情が渦巻いているからに違いない。
 愛と恐怖はいつも同時に扉を隔て存在している。
 きっとこの物語は、その真実についてもう一度問い掛ける機会を与える為に、僕自身の想念が引き寄せ、目の前に現実として現れたものだった気がする。


 天国に近い国。
 僕はこの物語をそう名付け、心のページにお爺さんと犬の微笑ましい幸せな横顔を思い返してはスケッチを重ねた。