知性のサーフィン

 気分がほぐれてゆく様な行きつけの美容室の席で、僕は髪をカットしてもらっている最中にふと女性週刊誌のページをめくっている。


 一月下旬の金曜日の午後。
 フロアに置かれた観葉植物も陽気そうに微笑んでいる様だ。



 僕は、最近は滅多に見ることのなくなった女性週刊誌の、リサイクル紙に印刷された軽いページを無造作にめくり、記事に目を通す。
 するとページは美容室の空調に僅かな振動を与え、そのそよ風が頬に少し乾いた様にぶつかり、そして消えてゆく。
 冬の乾燥した空気に加湿器が働いて、蒸気が静かに立ち上るのを横目で暫く見つめている。
 そして、またページの文字を追うと、相変わらず賑やかな文面がシッチャカメッチャカに踊り、まるで悪ふざけをする子供の様に支離滅裂に思えてきた。


 何だか配置の悪い障害物競争を続ける様な僅かな困難さと、そしてどうでもいい様なことに注がれる興奮とを交互に覚えている。
 記事を追う度に、脳味噌が快不快の感情を次々と生み出し、気分の波が現実空間の中を当てどなく彷徨い始めている。


 こんな風に、何気なく日常を切り取った風景の中に佇む自分の姿を客観視している、もう一人の自分の声が心の中でお喋りを続けている。



 最近、僕はこんなことをよく思うんだ。
 改めて、
 なんて言葉って人間の生命活動の中で大切なものなのだろう
 と。


 そうしている間にも、普段不器用な僕も心和ませ、カットを任せて結構長い付き合いになる、美容師で僕より少し年下の女性との他愛のない会話が、どこへゆくともなく軽やかに転がり続けていく。


 それにしても、よく考えると不思議なもので、この女性週刊誌の記事の様に、誰かが文字に込めた想念波が、多くの読者を通じて、この世界をぐるぐると循環し、人々の心に無限の感情の波を引き起こし続けているんだ。
 人の心は、次に意識のチャンネルが切り替えられるまで、放っておくとその場に停滞し、僕らはその磁場に知らない内に良くも悪くも影響を受けている。
 気忙しい日常に追い立てられ、誰もが無意識にありとあらゆるチャンネルを次々に浮遊しているとゆう訳だが、最近僕はその現象を知性のサーフィンと呼ぶ様になった。


 僕はミュージシャンだから、たぶん普通に社会生活をしている人に比べて、このチャンネルの切り替えについて本能的に何か強く感じるものがあるのかもしれない。
 曲を作る時は、このチャンネルを切り替える様にして自分の望む、メロディーという名のバイブレーションを現実に引き寄せていくんだ。
 一種の瞑想状態なんだけど。


 「後ろの長さはこれくらいでいいですか?」
 僕は美容師の言葉に促され、差し出された手鏡を使って、正面の壁に掲げられた大きな鏡の中に映る自分の姿を覗き込む。


 「うん。いい感じ」


 いつもの様に美容師とのそんなやり取りを続けていると、美容室内にいるもう一組の美容師と客の会話がにわかに弾み始めたことに気付き、突然僕の意識は奪われてゆく。
 すると、ついさっきまで僕の脳味噌を包囲していた騒々しい女性週刊誌の記事の波動が断ち切られる様に、すぐさまその会話の新しい波が僕に押し寄せ、意識は別の世界に切り替わり、再度サーフィンを始める。

 つまり言いたいことは、普段僕らは一体どれだけ意識的にこの世界に生まれ来る色んな想念の波に気付き、知性のサーフィンを続けているのだろうということなんだ。


 一つ一つの言葉自体が、ある波動を持ち存在するという事実。
 だから、壊れた波動を持つ言葉を自分や他人の耳に何の配慮もなく聞かせること自体、とてもマイナスに働くことなんだ。


 美しい言葉をいつも心に持とう。
 僕は最近特にそう思うよ。


 全ては波だ。
 どの波長に意識を乗せて現実をサーフィンするかって、とても大切なことだよ。



 それから、ミュージシャンとしての僕の専門分野である音楽の大切さについても同じことを思う。
 現代は人としての温度が乏しいと言わざるを得ない歌が、とても多いよ。
 その波に乗った文明が、ビジョンなき未来へ向かい、恐ろしいほどに淡々と流れ込んでいっている様に感じているんだ。
 だから、なるべく情感に富んだ温かい歌を耳に聴かせてやることが大切さ。


 日常の中に蠢く波の渦。
 それらは互いに次々とぶつかり、共鳴して増幅したり、また打ち消し合って滅びたりという現象を果てしなく繰り返している。
 僕はどうせなら美しい波に自ら乗って、そして世界に対してより有益なバイブレーションを広げて生きていきたい。


 一人一人の力は確かに小さなものだと思う。
 だけど、高い意識の波動を一人が発したら、それは世界や全宇宙に瞬時に伝達されていくものだろう。
 そういった意味でも、意識の波長であるメロディーのそれぞれの音霊に、大切に言霊を吹き込み、やっぱりいい歌を作れる様に励んでいきたいものだと、いつもそう思う。
 いい波動は人々を高い意識へと導くものだと思うから。


 否定的な言葉を口にする人やネガティブな物事とは上手く距離を取ることも時に必要さ。
 現代社会は何をやってもまず否定からの解釈をされ叩かれることが多いし、多くの人は心が屈折して素直さをくすませてしまっているよ。
 だけど、それを裁くことも必要ない。
 他人が別の現実を生きることを認めてあげることが愛なのだと思う。
 ただ、僕は暴力に染まった否定的な想念波にはあえて乗ろうとは思わないという、それだけのことさ。
 そういった波が自分に押し寄せて来たら、心の中でシャットダウンしてしまう。
 それは否定することとは違って、ただチャンネルを切り替える行為だ。
 そして、自分の望む新たなる波を世界に向けて優しく、力強くお返しさせてもらう。



 美容室の席の正面の壁の大きな鏡の中には、ほんの数十分前の僕とは何だか違って見える僕が映し出されている。


 髪を切る。
 たったそれだけのことで、気分も随分軽やかになるから不思議なものだ。
 心のバイブレーションに些細で柔らかな変化が生まれていく。


 僕らはこんな風に、日常の中で自然に次から次へと意識をトリップさせていく、現実と呼ばれる世界を通過し漂流する人生の旅人だ。
 この世界には常に何かが生まれ、そしてその波に人々の意識は遠くどこかへ運び流されていくよ。
 そして、その現象は僕達にとってあまりにも無自覚かつ無防備な中で繰り返されている現実に、僕はこの頃ハッとさせられることが多い。



 知性のサーフィン。
 その現象の細部にまで自分の意識を張り巡らせ、物事の創造の原理を深く理解していくことがとても大切なのだろう。


 まだ見ぬ情熱の白い砂浜に辿り着く為に。