梅雨空の彼方

 夕暮れの街並みを照らし出す街灯。
 そのたった一つの風景を切り取ってみても、多くの時代背景を語ることが出来るものなのだろう。



 僕の暮らす街の明かりにも、最近LED電球が備え付けられた。


 とても静かで、何だか人の意識が光を放つが如くに知的にすら感じてしまう様な、その輝きを僕は見つめ、薄暗い部屋に佇んでいた。
 そして、ふと少年時代の心象風景を回想する一人旅へと出掛ける。


 ノイズを立てる切れかけの街灯は、何てささくれ立った僕の心を逆撫でするのだろう。
それは、抑圧した感情をつっ突く波長の様だ。
少年の頃、人待ち顔をして佇んでいた公園で、孤独の色に染まった日常を代弁する悲しみの歌として、僕の心を捉えて止まない光景だった。


 そんな風に僕の歌は、体験を歌い上げてゆく性質を帯びているのだろう。
 街の街灯の蛍光灯が、LED電球へと取り換えられた瞬間に、僕の歌は言葉から古くなり、そしてある意味滅びてゆくのだろうなと思う。
 オール電化住宅など、生活は常に様々な移り変わりを見せ、その度毎に音楽形態も変化していくものなのだろう。
 リズムやサウンド。メロディーラインの特性や詞の世界観。
 それらの全てはスタイルを変化させては、古さや新しさといった感覚を生み出していく。
 そして、きっとその流行には本当はたいして意味なんてないとも言えるのかもしれない。



 少年の頃、フォークソングに対してとても強い違和感を覚えたことを記憶している。
 今考えれば、それはまさにライフスタイルの変化から生じたギャップだったのかなと思うことがある。
 多くのフォークソングの中で歌われていた世界観と、自分を取り囲む現実との違いが、共感性を乏しくさせ、サウンド自体に肉体レベルで違和感を感じていたということなのかなと思う。


 そして、僕は自分自身が音楽を生み出す生活を、人生に選び生きている。
 言葉の壁を感じ、そして言葉の持つコミュニケーション能力に希望を感じながら。



 僕の日常は、言葉を白紙の上にばら撒くことから始まっていくかの様だ。
 現実を目の前にして、実際に自分が今感じていることとの距離感を探り、埋め合わせながら、心の在りかを見つけ出すこと。
 それが目的なのだろう。


 作詞。


 僕は、魂の言語としての音楽を形作り、それを成立させ機能させるべく、大学ノートの白紙の上に、無意識から零れ落ちる言葉を無数に拾い集める作業に、連日の様に打ち込み続けていた。
 梅雨時の鉛色の空を部屋の中から見上げては、記憶の中を無限に広がっていく様な心の旅を続けた。


 僕らはきっと、繰り返される日常の中で、互いに個体観念としての正確性に欠けた躓きを覚えているに違いないと感じている。
 それが、僕にとってのアートの必要性の根源を成すもので、まさに音楽の正体と言えるものだった様に思う。


 個体観念の曖昧さ。
 現実とは、一体どれだけ人間の真の欲求に近い形で育まれ機能しているのだろう。
 不確実な自己の欲求。
 厳密に言えば、そういったものを軌道修正させてくれるものこそがアートなのだろうと思う。


 自己欲求の追求を社会は今、真にどれほど容認しているのだろう。
 企業戦士達はスーツで身を固め、社会上のルールの中で、常に心の真実に向かい合うことを本心に要求されているのだろう。


 きっと自己欲求とは、ある意味短絡的な自己満足の追求や我がままさとして、社会の中で強く認識されているものではないだろうか。
 ハイテクノロジーの発達によって、日常は本当に様々な自己実現の可能性に満ち満ちていると思うけれど、僕ら人間は、個体意識の中でどれだけの自由を獲得しているだろう。
 個体意識の確立という事柄は、自我を成す部分の話だと思うけれど、それ自体がエゴイズムな問題として、僕は社会的な洗脳の中で、自己欲求の目的自体を見失い大人になった様な気がする。


 街角に溢れる音楽は、いつの時代も、人々の自己実現の可能性を歌い上げているのだろう。
 そして、同時にそれは曖昧な個体観念を誘発させ、自己欲求とどれだけ密接に絡み合っているのかは、きっと誰にも分からないものなのかもしれない。


 家庭を守る主婦であれば、社会の柵は少ない分、もしかすると自己欲求の核心に触れ易い環境に暮らしていると言えるのかもしれない。
 これは社会的問題というよりは、超個性の追求であり、本当の意味での自己実現の可能性を高めてくれる生活の実現をテーマにしている問題の様な気もする。


 僕の追求している人間としての幸福というテーマは、今世の中とどれくらい距離があるのだろう。
 もしかしたら、僕が昔、少年の頃にフォークソングに感じた、自分を取り囲む生活と音楽との距離感ほどに食い違った色彩を放って存在しているのかもしれないし、実際のところは全く掴み切れない話なのだと思う。



 街の街灯がLED電球に変わったというだけで、常識的生活はその表情を何か一瞬で変えていくかの様だ。
 それは、僕が作詞を続ける中で意識していた現代社会の象徴であり、そして僕の個体観念は超自我への覚醒へと向かい、きっとそんな風に創作は続いていたのではないかなと思った。


 作詞を続けていると、何だか欠落した超自我のメッセージを拾う様な感覚世界を彷徨っている気持ちになる。
 記憶の喪失とも呼べる様な実体験を魂は回想しながら、自己欲求を辿る永遠の旅は続く。
 その行為は社会性を逸脱し、本能と情熱との狭間で、無限の可能性の扉を次々に開き、そして全生命の神秘性の中に舞い落ちていくみたいな気持ちになるんだ。


 僕は決して正確な言葉を持ち合わせている訳では勿論ないけれど、音楽があったから、たぶんメロディーという普遍性を感じさせてくれる振動の力を借りて、超自我からのメッセージを世界と繋げ、分かち合う為に、作詞という世界を漂っていたのだろう。



 六月が、梅雨の晴れ間に一瞬青空を輝かせた様な、言葉の正確性を求めた、僕の作詞という闘いの日々より。