タッチパネル

 街角に佇み、タッチパネルを操作する人々。
 しなやかな指先の動き一つで、様々な情報にアクセスしている。
 ネットサーフィン。
 オークション。
 週末にヨーロピアンレストランでのディナーの予約。
 ウエディングの日取りの相談。
 友達から送られて来たメールには、日常の何気ない和むフォトが一枚。
 etc…


 二十四時間。
 世界中が繋がり合い、真実とデマが障害物競走を続けている。



 政府は市民権を軽々しく扱えない時代を迎え、民衆こそ主役という素晴らしい世界の幕開けが始まっていたことは明らかだった。
 様々な情報が透明化されてゆく。
 恐怖政治終焉の序章を知らせるカオス。


 真の自由。
 平和。
 そして、愛。
 僕は探し続けている。
 ロックンロール!
 システム仕掛けの7Days
 飼い慣らされた心。
 退化するように進化する文明の歩み。
 この街で如何に強く生きてゆくか。
 気忙しい毎日の営みの中で、心に花を添え潤いを与えてくれる筈の哲学を持ち込むべきタイミングは今だ。


 渋滞に骨を折るドライバーが苛立ったクラクションを鳴らす。
 まるで悲鳴のように、ざわめいた街角の空気に波紋を生んでいる。
 心の中で投げたその石は現実の壁に跳ね返り、ルーズな社会の矛盾に解決策等はいまだ見つけられない。


 乗車待ちしているタクシー乗り場の営業マン。
 仕事の取り引きメールを受信後、すぐ折り返し送信メールのメッセージを打ち込んでゆく。
 突然降り出した雨に慌て、頭上を手で覆い空を見上げる。
 都会の高く埃っぽい空に希望と挫折を感じながら、遠き青春の日々を想い出している。


 二〇一七年。
 人類の知性の旅は続く。



 駅前のビルの一角にパソコン教室の看板が掲げられるようになってから、随分時代は流れていた。
 IT革命後、時代の波に乗り社会で生き残る為に悪戦苦闘しながらパソコンの勉強をしたサラリーマン達の姿が記憶に残っている。
 何処かのテレビの特集で、またハリウッド映画の中のワンシーンとして、様々な場面に登場していた社会現象だった。
 社会モデルは進化し続ける。
 僕らの知的好奇心はそれに対応し、時代の波に乗って知性のサーフィンが続く。
 昭和の頃、三種の神器を買い揃えた各家庭の風景に似た、現代の端末機器達の登場に順応してゆく人々。
 だが、その影でタッチパネルに触れることさえ恐れる人が存在していることも、もう一つの現実として時代に浮上していた。
 アナログ派とデジタル家電登場の波にどんどん乗ってゆく派とのライフスタイルは、どれ程に食い違って来ていたのだろう。
 そして、そのどちら側にも存在していたであろうメリットとデメリットという事柄に僕の意識のフォーカスは向かってゆく。



 ミーハーで新しいもの好きならば、端末の新機種への乗り換えが早そうに思える。
 子供のような無邪気さとも言えるのだろうし、また単に深く物事について考えていないから流行の波に無自覚のままさらわれているとも言える側面もあっただろうか。
 経済を回す上で、社会的には有り難い御客様であることだけは間違いないのだろう。
 スクラップマウンテンを生み環境破壊を進める。
 そういった観点から見れば、かなり幼さの残るライフスタイルだとも言えたような気がする。
 だが一方、好奇心を損なわず行動派とも言えそうで、物事は一長一短な面があり簡単には語れなさそうである。


 アナログ派人間という名の大きな括りで纏めたカテゴリー。
 一人一人違った理由を持ち、デジタルの波に敢えて乗ろうとはしない。
 どちらかといえば思慮深くて何となくインドア派のイメージを勝手に思い描いている僕がいる。
 勿論、こんな勝手な想像には全く信憑性などはなくていい加減なものだろうと、もう一人の僕が呟く。
 ただあんまり頑なに端末機操作に対して嫌悪している人の姿を見た時には、生きてゆく上での障害にさえなりうる観念に捉われ、精神的に酷く疲弊してゆくサイクルに陥ってしまっているようで勿体ないなという気持ちになることがあった。
 自らで未知なる可能性の扉を閉ざす姿を見ていた気がする。
 IT革命が起きた頃、渋々パソコン教室に通って社会的スキルの向上に努めたアナログ世代。
 時代が急速に変わり、社会的技能をバージョンアップさせる必要性が中年や老人になってから襲い掛かる。その波に乗って生きてゆくことへの困難さを感じている人は多かったのだろうなと、今更ながらに思いを馳せてみる。
 コンピューターの取り扱いに幾らか馴染みながら育って来ることが出来た僕達の世代には、想像のつき辛い部分があった気がする。
 パソコン等の取り扱いが苦手だと社会人としてワンランクもツーランクも格下げといったような社会的価値の変化に、自己を否定されたような気持ちにさえなっていた人もいたのだろう。
 タッチパネル恐怖症。
 それは、そんな状況下で時代に生まれた自己否定感の現れであった気がしていた。
 人生の半ば過ぎに新しいスキルを身に付けてゆくこと。
 当時の社会現象に対して僕は、グローバル化する世界の中で多くの人が小学校に再入学させられ、通知表により能力を評価され直してゆくような現実に戸惑いを感じていたのではないかという印象を少なからず受けていた。


 その点、女性陣達はそういった傷つき易い男の変なプライドと言っては問題があるのかもしれないけれど、何処か頑なになって守っているような心のエリアは余り持ち合わせていなかったのだろう。
 遊ぶような感覚で、各端末の新機種登場に好奇心や感動の目を向けていたように思う。
 誇りは持ち続けなくてはならないけれど、変なプライドなら捨て去る方が賢い選択なのだろうなと個人的にはそう思っていた。
 女性や子供達の持つしなやかで瑞々しい感受性を素直になって見習い、心のレッスンを始める為の勇気ある一歩を踏み出すことが、多くの男性陣にとって必要不可欠な時代的流れに入っていたように思う。


 アナログ派、デジタル派と大雑把な括りでの話だけど、長所と短所がそれぞれにあり、バランス感覚を磨く事の大切さを思う。
 健やかなる感受性、純真さについての話だった。
 どんな生き方になるにしても大切に育まなくてはならない筈の人の心。
 タッチパネルとの接触にさえ、映画「未知との遭遇」ではないけれど人間の心理的反応が様々に垣間見えていると思った。
 思考停止でただ商業ベースに乗っかり生きていることへの罪の意識を感じている僕がいる。
 原発安全神話を信じさせられて育ったとはいえ、祖国が世界中にとんでもない迷惑を掛けた福島第一原発事故にしても同じ思いになる。
 アナログとデジタルとのバランス。
 自然と文明との共存。
 西洋文明と東洋文明との融合と調和。
 全てがリンクしていて無関係では決してない。
 バランス感覚。
 感受性を取り戻すって可能なことかな。


 心を閉ざすことを大人であるかのように教育されて、激しい生存競争を勝ち抜く為に育てられた僕達。
 日常自体が一大エンターテイメントショ―の現代。
 華やかな祭りに終わりはなく、孤独の色が見つけられない程に鮮やかな原色が日常を取り巻いている。



 真夜中。
 液晶画面には憂鬱な文字列が踊る。


 お前などカスだ
 消えろ!
 www



 確かに平和な国だけれど、リアルな世界から仮想空間へと流れ着いた人の狂気がある。
 夜な夜な匿名サイト内を徘徊する人々。
 入り口はあっても出口のないネットラビリンス。
 日常には納まり切らない寂しさや孤独が、満たされない思いの辿り着ける場所を求め彷徨っている。
 買い物依存症
 資格収拾癖。
 リストカットに薬物中毒。
 etc…


 どんな生き方を選んでいたとしても、絶対的なことは皆自由になり幸せを求めているということ。
 それがたとえ歪んだ形で表現されていたとしても。
 人はそれぞれに、色んな形で愛を感じようとしているみたいだ。
 スクラップマウンテンというものは、そういった人間のソウルの渇きを象徴的に物質化したものだったのだろう。


 幾層にも折り重なるようにして違った現実が交錯する世界。
 時には、天国にいるような穏やかで至福感に満たされた日を過ごすこともある。
 逆に寒々しく憂鬱な世界を魂が漂流しているような日もある。
 だけど、きっとそれが人生だ。
 僕らは日々、世界を愛したり拒絶したり。
 二度と同じ日がやって来ることはない。
 ただただ行け行けGo Goでもなく、人生の冒険を回避するでもなく。
 タッチパネルとの接触、ネットとの関係性みたいなものに現代人が深層心理の中で何を求め、何を恐れて生きているのかというそれぞれの主義や主張、叫びが散乱しているように思えた。
 ネットは明らかに心理的要因を鮮明に投影する物理現象だという気がした。
 仮想現実でもあり、二次的な世界で人は深いソウルの欲求や理想を自分勝手に夢想する。
 人と関わっているようでいて、たった一人ぼっちで時と戯れているようでもある。
 現実程人間関係の壁は高くはなく、無責任な自我の欲求を吐き出す場のようでもある。
 独善的に意識が傾くのは、きっと避けられない。
 個体としてのリアルがそこには満ち満ちていた。



 ラッシュアワー
 電車内には、現実から逸脱してゆくかのようにタッチパネルを操作して仮想空間へと扉を潜る人の群れの姿がある。



 人格は状況によって変化してゆく。
 立場が人を作り上げてゆく。
 ネットの中での二次的人格を生きる人もいる。
 現実で叶わなかった愛や理想をフィードバックさせて、満たされない欲求や欠落感みたいなものを埋め合わせようとしているかのようだ。


 本心かどうかも分からない言葉。
 遠回しに批判するメッセージ。
 一見友好的に思えるが、ただ単に自分の印象を良くしたいが故の讃美。
 本音と建前の追い駆けっこが続く。
 仮想現実の台本を書き上げるライターのように人生の舞台を作り演じながら、今日も人は自らが見たいものを見て、信じたいものを信じ続けている。
 タッチパネルに触れて何処へゆくかは個人の意識の誘導次第だ。
 そして、ウインドウに触れることすら恐れる人々がいる。
 欲求に対する解決方法の模索と衝動に対する逃避とが、背中合わせに未来へ進んだり退行したりしている。
 僕らはタッチパネルを手にしたことで、現実世界と自己の抱えた欲求とをより中立的に中和させて愛を形作るチャンスに恵まれているという解釈には、きっと間違いがなさそうだ。



 多くの人々は余りにも長い年月、物事について自ら考えること、感じてみることを放棄して生きて来過ぎてしまったような気がしていた。
 感受性の衰えは、未来への挑戦というリスキーな事柄を回避しようとしてしまう気がする。
 今迄通りの古いやり方の中でしか、自分の居場所を世の中に見つけられなくなってゆく人々。
 そうして、やがて頑なさの中に閉じ籠って行ってしまうものなのだろう。
 歳を取ると頑固になったりするのは、そういった心理が関係していたのだろうか。
 邪魔なプライドによって失敗を恐れるが余り、人生の冒険を遠ざけてしまう。
 すると、後は引き算ばかりの疲弊した人生へと後退してゆく道しか残らなくなってしまうのだろう。
 そう考えてゆくと、心の若さを持ち続けることの大切さの意味が見えて来る気がする。
 物事のネガティブな面ばかりを見がちな中年以降の多くの人々。
 人生で苦い経験を幾つもした結果ではあっても、自らの持つ信念によって生み出され見せられた人生絵巻であり、世の中はそういうものと言って決めつけてしまう程絶対的な経験などではなかった気がする。
 そう信じた自分の価値観を振り返る作業こそが先で、本当は結果には余り大した意味はないのかもしれないと僕個人はそんな風に感じていた。


 世の中をまだ知らないからそんなことが言えるのだといった意見。
 確かに若者程無鉄砲なことが多いもののような気がする。
 だが、世の中の権力構造のようなものを知ってしまったから何も言えなくなったという論理には賛成出来ないものがあった。
 それはズバリ言い訳だろうと思う。
 本当は、世の中のことを知った以上放って黙っておく訳にはいかなくなったというのが正しい論理ではないだろうか。
 そんなことを言ったら、永遠に世の中は悪しき支配者達のパラダイスであることを許可し、自分の尊厳を放棄したも同然となるだろう。
 大人の顔をした嘘つきさんが僕らの心の中には住んでいる。
 物事を分かった振りをして、楽な方へと流されてゆく。


 文明機器を嫌悪する心理の正体。
 それは諦めに関係しているもののような気がしていた。


 挑戦と逃避。
 心の上での若さと老い。
 ネットの世界に犇めき合う人の心の欲望や愛憎。
 コンパスに持つべきは、つまり目的意識の高さなのだと思う。
 それが全てを磁石のように人生の中に引っ張って来るからだ。
 志一つで運命が変わる。
 行動を司るもの。
 刹那に流されることでもなく、衝動に蓋をして挑戦というリスクに目を背けるでもない志こそが一番大切にしなくてはならないものの筈だった。
 失敗を恐れるが余り、物事を分かったような顔をして自らすら偽り誤魔化す癖の殻を、人はまだ破れただろうか。
 人生に意味などなく、成りたい人になればいい。
 そう考えてみることで刹那的生き方に出口は用意されるのだろうか。
 僕らのライフスタイルに今、哲学が愛を呼び掛けている。



 タッチパネルの液晶が光る。
 真夏の誘蛾灯に群がる虫達のように、僕らは心の辿り着くべき場所を求め自由の羽を羽ばたかせている。