五月雨歌うよバラード

 雨の降る、五月の蒸し暑い一日が、夕刻に少しもたれかかる様に時をすり潰す。
 日常が荒れた素肌の様に痛々しく、ひりつく苦々しさにメランコリックな気持ちになる。


 3.11以降の世界に、僕の祈りは、ただ陳腐で取り残されていくみたいに感じていた。
 直面した危機の前で人は、一体何に抗い、何を信じようとしていたのだろう。

 甚大な被害をもたらし続けている国難の前で、政府は戦中の管理システムを稼働させたようだった。小さな島国の平和の中で、戦後、たいして精神的に飛躍していなかったであろう日本の素顔が、3.11以後の世界に寂しく浮かび上がる。
 意見の対立。感情的議論の衝突に、人生観がありありと滲み、ある意味この国は完全に崩壊していると感じた。


 僕らには、確かにどでかいことは出来ないかもしれないけれど、まずは部屋の中からかたづけてみようか。
 僕は、そんな風に考えていた。
 山積する様々な問題や困難に対して、僕らが取ることの出来る行動って、やっぱり日常の目の前の物事に取り組むことの様に思う。きっと、それが一番早く平和に近付く道じゃないかって気がするんだ。
 案外そういうことがとても大切なことだと思うし、それが出来ることが、平和や平安な世界なのだと思う。

 原発問題に関しては、下手に触れないで欲しいといった社会風潮があると思うけれど、やっぱり色々な意見に冷静に耳を傾け合い、社会を成熟に導かなければって思う。
 専門的なことに関して、僕らにはどうすることも出来ないけれど、とりあえず、この社会の闇が今回こういった形で姿を現し、混乱の中で新たなる議論が生まれたということに関しては、これは世界的な希望であると言っていい様に思う。
 荒れ果てた日常に、人によっては、心が消耗してしまいそうなことも、きっと多いかもしれない。
 だけど、だからこそ、僕らはより希望に満ちた未来へのビジョンを心に思い描いて、可能性を生んでいかなければって思う。


 最近、交通マナーに益々世相が反映されているなと感じることが多いよ。
 それはどんなことかというと、とにかく渋滞時に我先にと先を争い、混雑に拍車をかける様な光景についてだ。
 時間に追われていることは十分理解出来るけれど、それにしても僕らは、そんなに急いでどこへ行こうとしているのだろうと思う。心理的焦りの表れでしかない様に思うし、幸せの青い鳥をどこか遠くに求めている姿の様に思えるんだ。永遠に辿り着くことなきユートピアを探し、虚しい世界を彷徨っているみたいだ。本当は誰もが、互いに譲り合う豊かさの中で暮らしていきたい筈なのに。
 それなのにやってることといえば、自分の行く手を阻む対象としての他人をパッシングし、叩きいじめることばかりの様で、何とも後味の悪さばかりが残る。
 それって、社会全体がまだ何かが足りないと叫んでいる様なのだと思う。
 不完全を完全だと思えない人間の不幸が、そこにあるのだと僕は思う。
 そして、心の根深いところで、自分は幸福になるに値する存在ではないという幻想に捕らわれ続けているのだろう。

 その意識から抜け出すことこそが、きっとこの国の課題の様な気がするよ。

 僕は、その為に必要と思える歌を作り続けていた。
 それは、誰の為でもなく、まず自分自身の為に。

 屋根を弾く、五月雨歌うバラードに心を傾けながら、人の暮らしの幸せに思いを巡らせていたんだ。