ひとりよがり

 台風6号の風も弱まり、暮らしに落ちる悲しみの影も、散らばったままの木曜日。

 そういえば、今年はあまり蝉しぐれさえ、まともに耳に入らなかった気がする。
 僕は、とても憂鬱な日常に、自分の言葉の持つ意味をなくしかけていたのかもしれない。本当のことを言えば、深い絶望の中で、全てが無意味に思えていたということなのかもしれない。
 この暮らしは、まさに戦中のそれだった。
 毎日テレビをつけると何事もなかったかの様な陽気な番組が繰り返され、一番まともな情報が流れるのは、決まってネットだった。

 福島第一は、今一体どうなっているのか。

 僕の抱えた葛藤の全ては、そして多くの国民の抱えていたであろう葛藤の全ては、そこに行き着こうとしていたのだろう。


 音楽イベントで、脱原発を掲げたメッセージソングは歌ってはいけないことになったという噂さえ聞こえていた。
 東京では放射能が降り注ぎ続けていたけれど、それについて口にすることも許されない風潮が蔓延しているといった話も、ネットで毎日毎日たくさん目にし続けていた。

 シンガーソングライターとして生きてきた僕にとって、あの震災は、僕という存在について、自分自身に根底から問い直すことを、強く迫るものとなっていた。
 基本的に表現に何か大きな変化があった訳ではなかったけれど、無意識に見過ごしてきたと思える色々なことに出会ったし、何よりも日常に対する観察に変化が生まれていた。

 日常と自分自身の関係性。
 そして、他者との接点の持つ意味について、以前には感覚の鈍かったであろう視点が、芽生え始めていたのだと思う。

 当たり前に、そこにあるものとしての富を享受され、原発の持つ深い意味に思考を向けることもなく、僕はこの国に生まれ育った。
 子供の頃、原発って聞くと、何だかとても危険だなって本能的にとっさにそう感じていた筈なのに、僕ら人間はみな、与えられた常識の中で、直感を鈍感にして、生きていく為にいつも社会に順応していくんだ。
 きっと、それはそれで悪いことなんかじゃないとも思う。 
 だけど、どうしようもない虚しさを覚えるのは何故なのだろうか。
 僕は、まず僕自身の存在の在り方を問うことから、3.11以後の日本社会に生まれ変わった気がしていた。


 大手レコード会社から発信されるアーティスト達の音楽は、世の中の本当のことを歌うことの出来ない現実の中にあった。
 業界を支配する権力がそれを許さないことは、ネットの時代には、もう大衆の中でさえも常識になっていたのだろう。そして、そのことが、現代人の持つ知性の低下に深く関わり、直接的な打撃を与えていると、僕は考え続けて生きてきた。
 音楽で空腹を満たせはしないけれど、知性を磨くその先の未来にだったら、一番早く到達可能な媒体なのだというのが、僕の持論だった。

 一体僕に何が出来るだろう。
 それが僕の日々の常となり、そしてそれは日本国民の多くが共有していた筈のひとりよがりだったのかもしれない。


 僕が一番ストレスを感じていたことは、様々な意見に対して、あまりにも幼稚な議論の衝突が起こり続けることだった様な気がする。
 こんなこと言うと、お前は何様のつもりだと批判を受けそうだけど、日本人って本当に心が貧しくなり、根性があまりにも悪くなったって、心底そう思った。何かにつけて揚げ足取りをして、他人を攻撃することばかりが目についた。
 そして、文明はここで一度滅亡を迎えるのだろうかって、真剣にそう考えていた。
 何か、途轍もない大きな人間の枯渇感が、金や物や権力へと人々を駆り立てていて、その欲望に終わりなどない様だった。

 二十一世紀に入り、9.11に始まり、何か世界の隠されていた闇を支配する力が、僕らの目の前に、超物理的に形を変え、出現する様になったと感じていた。
 そして今年、二〇一一年は明らかに人類の歩みという、とても長い時間軸の中での大きな区切り目に違いなかった。
 世界中で次から次へと大災害が起こり、地球自体の生命活動のリズムが今までとは全く違ってきている様だった。
 取り分け感受性の鋭い人間でなくとも、その変化は歴然と感じ取れるに違いなかった。
 人類は、生き方を今変えなければ、どうしようもなくなると、僕はいつもそんなことを考え過ごしていた。

 そして、3.11が起こった。
 国家的犯罪という陰謀説までネットでは出回っていて、その可能性だって何も不思議なことではないと思った。
 人類はそこまで、文明力学を進歩発展させてきたんだ。そして、欲望を理性の声に従わせることが不可能となり、暴走列車の様なこの暮らしを止められもしない。

 金よりも命。
それが世の中の常識であって欲しかったけれど、それは権力を握る多くの人間達の信念とは明らかに違っていることは間違いなかった。

 命よりも金。
 福島の人々の命、人生、ほんのささやかな夢や希望よりも、金、金、金。 ほんの少し、不幸を背負った人間に手向けるべき、痛みへの共感などの心の余裕さえなくした人間が、もっともらしく理屈を並べる。
 決して誰にも、他人の生き方を裁く資格はないけれど、この国に今日ある悲劇は、僕自身の人生に起こった痛みであり、権力を振りかざし、人の命さえ自分の人生の都合の為に陥れてゆく人々の痛みでもあることを、どうか知って欲しいと、僕はそう祈る様に暮らしてきた。

 それは一体どういうことかというと、上手く他人から奪ったつもりでいても、人間という存在は、結局最後には自分の行いから発生する物事を獲得する定めなのだと思っていたからに他ならない。
 残念ながら、それを証明する術を持たないが、自分の感性が、それが宇宙の真理であるというのだから仕方がなかった。

 それを理解しながら、新しい幸福の価値観のもとに生活を僕らは始めなければ、放射能に毎日覆われた、このちっぽけな島国に未来なんてある筈もない。
 金は当たり前に大切だけれど、今までと同じに、目の前の欲に駆られて、社会全体や地球レベルの平和や幸せについて考えられない国に、もう未来なんてないのだ。
 現実を見つめることは、時にとても苦しいことだけれど、それでも今のままのこの国の在り様では、悲惨な未来に僕達は絆や夢や愛の全てを引き裂かれ、きっと暗い運命に呑み込まれてゆくだけだろう。

 殺人国家に生きる僕。そして君。
 このヘビーな現実をほんの少しでも明るい未来へと繋げることが出来る希望は、やはり諦め捨ててしまうことのない、温かな僕達人間の心だよ。
 僕は、純粋な眼差しで、この世界を見つめ続けていたい。

 金が全てだと信じる人々の考えを変えることは、とても困難なことだろう。
 そして、体制とはいつの時代も、どこの国でも、金や個人的財産を増やし、心の枯渇感のバランスを保とうとする人間の作る、金の奴隷パラダイスなんだ。
 初めから、権力を握り、この悲しみの世界とわたり合おうと決意した人間の群がる世界なのだと、僕はそう思う。
 そして、純粋な思いは、いつも国家権力に打ちのめされ、本当の自由なんて、僕達には与えられもしない。

 戦後の教育自体が、洗脳的に権力を握り生きることを讃美し続け、多くの国民はその狂った常識の奴隷となってきた訳だ。
 だから、僕はその洗脳の呪いを解く為のロックを歌いたくて、魂をうずうずさせながら暮らしてきた。 
 僕が、こんな風に個人的意思を表明することは、勿論社会的には本当にひとりよがりなことで、無意味に近いことだと思う。

 だけど、3.11以後のこの新しい世界では、そんなひとりよがりな情熱であったとしても、ほんの僅かな希望の歌が心の中に探し出せそうな気がして、僕は帯びたたしいメロディーを頭の中に繋ぎ、君に伝えたい夢を見ていた。


 原発という現代文明社会の原動力は、呆気なくもその神話を脱ぎ捨て、僕達は自動的に、何かの多大なる犠牲の上に享受されてきた富のそのサイクルから離脱する絶好のチャンスと、絶体絶命的ピンチの中で遭遇していたのだろう。

 そして、戦後の洗脳的物質的価値観にしがみつきたい人々と、新たなる幸福の価値観を発見し、より高い人間の幸福を実現させるべく、具体的にパラダイムシフトを組み立て経験しようとする人々とに、大きくその道は分かれてゆくのだろうと僕は想像を巡らせていた。


 人間とは、きっと枯渇感を感じ続ける定めの生きものなのだろう。
 そして、その枯渇感を埋め合わせる為のゲームが人生なのかもしれない。 愛や夢や理想を心に用意しようとするけれど、現実は思う様には決してならないのだと諦めを覚えた時から、人はみな金と権力欲に傾いてゆくのだろう。
 そして、僕らは様々な罪を犯す。
 開発の名のもとに自然環境を破壊し尽くし、そしてそれを望む望まないに関わらず、先進国の人々は、生活の中でそれに加担している。
 だけど、そのこと自体大抵無自覚に通り過ぎてゆく。
 だってそれはまるで、原発の意味を考えもせずに、呑気に暮してきた今日の僕達の姿そのものじゃないかと、そう思う。

 国がもっとこうしてくれればいいのにって、いつもそう思うけれど、国家とは基本的には国民のことなど初めからどうでもいいという前提のもとに成り立っているものなのだということを、僕は今一度苛立ちの中で、そう強く認識していった。
 そして、僕の求める真の自由と平和の意味について考え続けた。

 体制を形作り動かすもの。
 それは世論の意識だと思う。
 そして、今ある体制の姿は、僕達国民の意識の投影に違いないだろう。
 だから、僕達は自分自身にいつまでも負けないで立ち向かい、大切なことを、純粋なその思いを守り続けなければならない。

 それは、決して誰かに押しつけるものでもなく、自分自身がそうあれる様に。
 それが、僕の信じるロックンロールだ。
 この冷めた時代に、何でもかんでも人やもののせいにして、責任を逃れることばかりに必死になった、見栄っ張りで薄っぺらで傲慢なこの時代に、もしもそんな流れを生み出せたとしたら、ほんの僅かな希望が残されているのかもしれない。
 どちらにしても、僕は自分の信じたこの道をゆこうと思う。
 自分自身の平和を、まず初めに強く求めて。