幻のレクイエム
ニュースでは、まるで現実とはかけ離れてしまったかの様な光景が広がっていた。
「言葉を失うってこういうことなのだろうか」
僕は、生まれて初めて見るこの国が直面していた大きな危機に、魂を酷く凍りつかせていた。
東北を執拗なまでに襲う巨大地震。
気象庁の発表では、マグニチュード8・8とのことだった。
首都圏では、超高層ビルがアスファルトジャングルに踊り、僕らの想像力を遥かに上回るであろう光景が、人々を完全に圧倒していた。
ついさっきまで当たり前の様に進行していた筈の現実は、一瞬で途切れ、異様な姿へと豹変していったのだろう。
その時、人々の胸に去来したものは一体何だったのだろうか。
溢れ返る帰宅難民。
便利な筈の都市機能は寸断され、僕らの日常を取り囲むありとあらゆるシステムは麻痺していた。
そんな状況下であっても、パニックに陥り、略奪、暴動が酷く起こらなかったことは、きっと日本人にとっての誇りだったに違いない。
自己主張が苦手な分、連帯を築き困難に立ち向かう大和民族固有と思えるその整然とした姿に、諸外国の人々は喝采の言葉を送り、世界中からたくさんの声援や励ましが色んな形で届いた。
僕は、普段は隠れて見えなかったそんな国民性に触れ、自分の属する民族の素晴らしさを再確認する思いだった。
だが、全てをそれで片づけてしまえるほどに現実は平面的なものでもなく、危機に対する反応は一長一短で、良い面も角度を変えて見ると、何かしら怠惰な一面が浮かび上がってきた。
「こんなことになるなんて…」
僕は、テレビに映し出されてゆく、現実と認識するにはあまりに信じ難き悲劇的光景の目撃者となり、あの日、ただただ、なす術もなく祈り続けるしかなかった。
人々が愛したものや希望や夢の全てを呑み込んでいった津波。
そして、その後に残されたものは、まるで地獄絵の様な瓦礫だらけの壊滅した大地。
甚大な災害に直面した時の人間の無力さを痛感させられた、重く苦しい恐怖の日々を、今何と呼ぶべきなのだろう。
暫くは、不可思議な時空に迷い込んだかの様だった。
そして、一番気掛かりだった福島第一原発の実態について、政府やメディアから正しく明かされる気配はなく、列島は、何だか僕には祖国であるのに異国の地ほど孤独に感じられ、日本はまるで世界の中で隔離された孤島の様だった。
思想の分裂。
民族間での争いの渦。
それは内乱と呼ぶにふさわしく、様々な情報とそれにまつわる憶測が瞬時に飛び交い続けた。
僕は、そんな暮らしに戦後の民主主義の素顔を見つめていた。
第二次世界大戦に敗れて以来、何か精神的に大和民族は飛躍していた訳ではなかったのだろう。
アメリカの奴隷となり、ライフスタイルの全てにレールは引かれ、幸福の価値観が一つずつインプットされていったんだ。
そして、一度脳にインプットされてしまえば、人間は哀しきマリオネットとなる。
それどころか、アメリカや世界の支配者達までも計算外だったかもしれないほど、経済的価値の忠実なしもべとなり、原発被害は歴史的なものに膨らんでいった。
正常バイアスの掛かった日常は、酷く鈍感だった。
何を口にしても、どこかから批判の声だけはいつも数限りなく挙がり続けた。
人々は、自分と対立する意見を排除しなくては、現実に自分の立ち位置をもはや見い出せないほど、混乱していた。
僕は、どこから話をしていいかも、何から現実問題を解決してゆくべきなのかも分からなくなるほど、自分の人生の中で一つ一つ積み上げてきた信念体系が崩れ、その意味は、今や役に立たぬガラクタになってしまったみたいに虚しさを感じていた。
ただ、明らかだったのは、もう時代が変わってしまったということだった。
戦後の生温い平和に飼い慣らされてきた僕らは、とても貧弱になってしまったコップの中のノミみたいだった。
コップの中に閉じ込められたノミは次第に跳ぶことをしなくなる。
それから、重っ苦しい現実に対しては思考を停止してしまい、目を背ける人々の姿が多く目についた。
この現象も、やはり現代教育の結果として特徴付けられるものだと僕は思った。
現に、僕もよく親や周囲の大人達に言われ記憶がたくさんあった。
何か人生の中で問題にぶつかると、そんなこと考えているから頭が変になるのだと。
僕は、今でもそれは違っていると思う。
そこに社会的矛盾があるから躓き悩んでいる訳で、そのことに対しての問い掛けを放棄してみても、全く何の解決にもならない。寧ろ、大衆のそうした意識で織りなされている現実をまっすぐに見つめてこなかったからこそ、社会は狂い、人々は洗脳されてしまっているのだと感じていた。
社会的矛盾に対してノーを言わない文化。
そして、本心を自らにすら偽り、皆一緒に黙って耐える姿を美徳とする世俗の古く偏ってしまっている美意識。
僕は、そのことを思う時、いつも戦中の集団自決を想像してしまう。
それを拒む者を集団でなじり、叩き、軍国色に染まった狂気を感じてしまう。
その価値観もまた、戦後ずっと民族の血の中に脈々と受け継がれてきたことを証明する結果に至ったと僕は感じている。
福島支援の名のもとに、放射能汚染食品を皆で食べようという、僕には異常行動に思えた安全キャンペーン。
多くの人々が、政府やマスコミの情報を鵜呑みにして、情報の信ぴょう性を疑う声は、3.11が起こった当初、非常にまれの様に見えた。
自分を育ててくれた親への信頼感とそれは比例していたのだろうか。
大本営発表に対する多くの国民の反応の様子を見て、僕はそんなことを考えて過ごした。
僕ら人間は、たぶん過去の体験の中に現在も属し続ける生きものなのだろう。
そして、そこで覚えた記憶という原体験は、個人個人の思考や感情の全てを司り、脳というスーパーコンピューターは現実を予測し、指令を出し続けているのだろう。
その時、まず過去の体験にないものから素早く排除し、体験の中で感じた感情の起伏の大きさに準じて、物事全てに真実味を覚えたり、また反射的に現実を善悪に隔て、新しく思考の波を生み出し続けているのだろう。
だから、自分の信念体系を破壊する様な出来事に出会うと、すぐに間違いだと認識してしまい、脳から発せられるその信号に感情は従い、行動は形作られていくのだろう。
僕は、大本営発表を初めから殆ど当てにはしていなかった。
テレビもマスコミも、元々は国民を洗脳する装置だった訳で、それは実質的に今も何ら変わりはない。
季節が変わる事に、街を行き交う人々は流行のファッションを求め、社会的に認められた幸せの形に自らを押し込み生きている。
テレビや雑誌には、絶えず新しいキャッチコピーを目にし、どう生きていくか、何かからの先導の上に暮らしを築いている。
そして、あの安全神話は僕らの暮らしの中で、呆気なく崩れ去っていった。
現代社会という生命体を動かしていたと思い込まされてきた、心臓部である原発が制御不能に陥った。
それは、現代社会の中で人々が信じ、従ってきた全ての秩序やモラルを失ったことを指し示す象徴だろう。
いわゆるパラダイムシフトが起きたということだ。
人類は、より高い宇宙の法則の中に誕生し、個人の意識を現実問題に対峙する中で一つ一つ組み換え、育み、進化させて、地球という一つの国、社会、文明を作り上げる段階に到達しなければならないということだろう。
それが、きっと神の望まれた地球と人類の未来の姿だと思う。
その声に感性のアンテナを立て、生きることから、僕は新しい地球の次元に誕生したいと願い暮らしてきた。
僕の音楽は、人々と何かを分かち合い、役立つだろうか。
そう自問自答を重ねながら、季節の移り変わりを数え、本当の気持ちを音楽に込めようとしてきた。
世界中で争いや対立が激しくなっているのは、意識の隔たりがより開いてきているからと言えそうだ。
そして、情報弱者のままでは不利なことが多いことに日々出会ってきた気がする。
今、日常は諦めムードが色濃い気がしている。
ノーを口にすることのし辛い文化。
正しいか間違っているかではなく、社会にどう順応し従うかに人々の意識は向かってばかりの気がしている。
こんなに酷い、人類史上最悪の原発事故が起きても尚、政府も東電もその責任を認めたがらない。
それどころか全国に汚染瓦礫を搬送し、焼却する構えだ。
そこには、吐き気のする原発利権の闇が眠っている。
悪寒の走る様な薄汚い人間の欲望が、凶暴な牙を剥いている。
また、どこかから妙な日本人の美徳の精神の話が持ち出され語られるのが聞こえ、国民の多くは経済第一優先主義にまんまと抱きかかえられ、人々の命を虫けらほどにしか感じないロボットの様な冷たい心をした人間達の作り出すプロパガンダに騙され、拝金主義に巻き込まれてゆくよ。
今や、放射能という危険物質の取り扱いについて、何かの理由の上にリスキーな政治的選択は許されるべきではないと僕は思う。
そこにどんな理由を並べようが、結局やろうとしていることは経済優先の殺人行為に違いないと思う。
国家的犯罪だ。
この社会は、国や企業、また民間レベルまで腐り切っている。
右も左も金、金、金、金。
思考回路がまるで理解出来ない。
はっきり言って、悪魔に魂を売り渡しているとしか思えない。
そして、善良な人々の無関心さに日常はしらけ切っている。
そこには、自分に対する諦めが強く感じられてならない。どれだけ酷い心の暴力を受け、自信を失くし育ってきたのか、気の遠くなる様な闇が眠っているのだろう。
社会の冷たさとは、多くの現代人の抱えた自己不信を意味している様に思える。
つまり本質的な話をすれば、他人に冷たいのではない。まず初めに自分自身に冷たく、人生の可能性を諦めてしまっているのだと思う。自分を捨ててしまったら、ましてや他人に親切にも優しくもなれる筈がない。
だから、夢が大切なんだ。
青臭くて、社会に笑われてしまう様な純粋無垢な夢、そして愛を失くしてしまったことが、この非情な日常の正体だと思う。
今日のこの日本社会は、コップの中から零れてしまった飲み物みたいだ。
決して元には戻せない。
だから、今までと同じ様に復興、再生のドラマは僕にはとても描き辛かった。
だが、政府が場当たり政策で誤魔化そうとしているやり方は、零れた飲み物をコップの中に戻そうとする作業に見えて仕方がなかった。
いまや国民の多くが知ることとなった原子力計画のあまりのずさんさ。
危険回避の方法論のない完全見切り発車の愚策。
本当は初めから未来のない発展だったんだ。
そして、人類史上最大の事故に遭遇した。
それでも尚発展を掲げ、福島の人々に、子供達に途轍もない悲しみを平然と背負わせようとしている。
とても人間とは思えない。
福島の母達の訴えに僕は耳を澄ます。
切実な祈りの言葉が、この社会の闇に悲しく零れ落ちてゆくよ。
きっと僕ら国民は、誰かが救ってくれるって幻想に甘え過ぎてきたのだろう。
答えは、待っていても誰も救ってはくれない。
まずは、自分で自分を救ってやることから、もう一度歩き始めなければ。
闇に零した祈りは、存在の所在すら明白に掴み取りにくい顔をして、ぼやけた輪郭で揺れていた。
僕は、それを幻のレクイエムと呼んだ。