十字架の扉
気付けば春一番が吹き、そして春分の日を迎え、季節は春に燃え上がり始めようとしている。
そして、僕の経験している二〇一二年は、今までとは明らかに何かが違っていた。
思考が物質化する速度がとても速い。
一言で言えば、意識のバイブレーションが精妙になっているということだと思う。
僕は、二〇〇五年に「理想社会」というアルバムを制作していたのだけれど、それは地球の次元上昇をテーマにしたアルバムだった。
いつもの様に何となく、思いつくままに曲を作っていると、そのテーマを自然とキャッチした。
結局、アルバムはいまだに未完成のままとなっていて、ラフなデモ音源だけが部屋の片隅に眠っている状態なんだけど。
高度知的文明世界の到来。
何らかの必然性に導かれ、僕は音楽という媒体を借りて、宇宙に存在すると言われるアカシックレコードに刻まれた情報を、メッセージとして受信したのだと思う。
この世界は激変する。
それが、僕が自分の生み出す音楽を通して垣間見たと感じられた未来のビジョンだった。
そして、僕が体験している現実の流れは、今もそのビジョンに沿い進行中の様に感じ続けていた。
例えば、この世界から戦争がなくなるということは、僕が心の中でどんな人をも敬い、裁くことなく受け入れた時、実現するものの様に思っていた。
今まで僕は、悲しくて虚しいが故に、何かとずっと闘ってきた気がする。
この人生の中での、その一番の象徴は、両親や家族という身近な存在と全く理解し合えずにいたということだったのかもしれない。
家族といえども、僕達人間は、魂の上ではその性質は様々に異なっている様で、色々な集合意識のもとに集い、進化の旅を続けているのだろう。
互いを思いやり、理解し合って、支え合うことの出来る、温かな家族。
それとは逆に、何から何までそりが合わず、とてもギクシャクして険悪なムードの家族。
そのどれもが、形は違えど、一番心魂の成長の為に役立つ配役として存在し、影響し合っていることは、自分の半生の旅を振り返ってみた時、真実の様に思える。
結論から言えば、僕が家族関係から学んだ一番大きなメッセージは、受容することの大切さだった気がする。
僕は、この世の理不尽さというものを家族から教わり、そしてその関係性の中でさえも、己の自由を獲得する愛の世界を、結果的に見せてもらってきたのだと思う。
どんなに辛く理不尽な出来事も、受け取り方を変えることで、体験する現実を創造し直すことが可能なことを学ばせてくれた僕の家族に、今心からの感謝の気持ちを伝えたい。
そして、僕が家族関係の中で培い、覚えてきたものの全てが、二〇一二年の今日、真実に輝いている様だった。
きっと、困難さとは個人の持つ制限を示す象徴の様な気がする。
その体験は、僕らが持っている現実に当てがう条件付けのモノサシの存在を知らせてくれているのだろう。
様々な観念についての話なんだけど。
現実は、自分がどんな風に意味を持たせ解釈するかで、更に次の現実の扉が開き、思考は物質化するものなのだろう。
この三次元世界で、未来だと定義されている方向に向かい、時間軸上を現実は進行しているというのが、今の物理法則が世の中に示すことの出来る常識の域範囲だと思うけれど、ただそれだけでは説明し切れない、現実の成り立ち方が存在していることを、僕は最近特に、肌身で強く感じ取っているのだと思う。
例えば、こんな話をしたい。
ある場所で、いつもよく会っている人に、自分の思いを言葉にして伝えた時のこと。
その相手は医療に関わる仕事をしていて、僕は自分の感性の中に広がる、理想社会に於ける医療のイメージを、想念波として言葉足らずの会話に込め伝えた。
すると会話の途中に、瞬時に三段階くらい、パッパッパッと目の前の現実が更新され、別のタイムラインにでも乗っかる様に、現実の中を自分が次元移動していることを体感した。
これは二〇一二年に入ってからの話で、これまでには意識した覚えのない不思議な経験だった。
この体験が、僕に何を教えたかというと、いかに僕ら人間は自分の思考の共鳴する次元の扉を常にノックし、毎瞬毎瞬、現実を意識の力で創造し続けているのかという、宇宙の物理法則についてだった。
一瞬、別の現実に僕の世界は更新され、そして自分を含め、その場にいた全ての人も、瞬時に別の意識で暮らす別人として、その場に存在しているという紛れなき事実が、直感を通してとてもリアルに感じられる思いだった。
これは、百一匹目の猿の話が差すところに集約されていく出来事なのだと思う。
ある猿が海水で芋を洗って食べ始めると、教えてもいないのに別の猿までもが同じ行動を取る様になるという、この百一匹目の猿の現象は、この世界の集合意識がどの様に成り立ち、存在しているのかについて、僕達に色々な洞察を深める機会を与えてくれている。
意識の波長が変わると、僕らはその波長に合った集合意識の織り成す現実の扉を開き、次元を瞬間移動しているのだろう。
そして、その現象は次元上昇の原理を説明するのに十分な要素を僕に感じさせた。
こうして言葉にするとぎょうぎょうしくも感じられるのかもしれないけれど、実際に神と呼ばれる存在と同等の創造力を秘めているとの仮定から、人間という存在をふかんして観察した時、そのあまりの驚異的パワーにより一瞬を意識が捉える間もなく、きっと現実は次々とイメージにより形作られているのではないかと僕は考えている。
だけど、今までよりも意識がより精妙になり、エネルギーの物質化が三次元的な時間上、飛躍的に早まったとしたら、その現象に対する意識の反応も少し違ったものになるのかもしれない。
現実が瞬間的に更新されていく際のエネルギー密度の上昇が、次元の扉をくぐり抜ける行為自体の瞬発力を高め、きっと僕に新たな感覚を植え付けようとしていたのかもしれない。
普段僕らは、慣れ切った現実の創造のリズムに、自分の神の一部としてのイマジネーション力を忘れ、まるで何事も起きていないかの様に、無意識に次元の扉を通過しているのではないかなと思った。
二〇〇五年に、アルバム「理想社会」で僕が描こうとしていた高度知的文明世界について、それは、次元上昇後の世界という概念に縁取られ、当時まだ心の中で、その実現性を見い出す糸口がはっきりとは掴めないままだった様に思う。
だけど、今は現実の中で確かに何かが噛み合い出し、新しい現実の扉が日々開かれていることを目撃し続けている。
そして、何よりも自分の意識の波長が、現実を今、この瞬間引き寄せ、完璧に創造しているということを、とても良く理解出来る様になった気がする。
次元上昇とは、言い換えれば許しだと言えるのかもしれない。
イエス・キリストが体現していた愛の世界だ。
その意識に到達する時、この物理次元の中での全ての柵から魂は解き放たれ、違った世界の中に誕生するのだろう。
そのシンボルとして、キリストは存在したのかもしれない。
今ある世界の中での、魂の進化の最終段階として位置付けすることが出来る様に思う。
奪い合う必要なんてない。
争い合う必要なんてない。
何かが足りないという幻想を心の中に生み出し続けている観念に光を当てて、ただ現実の解釈を変えることで、僕らの体験する世界は激変するだろう。
枯渇感は、本当は幻ということなのだと思う。
そして、その枯渇感の投影がこの荒れ果てた地球の姿なのだろう。
だから、豊かさに目を向け、心の中をポジティブな愛のエネルギーで満たしてやることがとても大切なのだと思う。
誰かを裁く行為は、自分自身が裁かれ続ける世界の悲しみに君臨することを宣言するに等しいことなのだと感じる。
だから、自分の心の中にイエス・キリストの意識が存在していることに気付こう。
これは宗教的な話ではなく、人類の一員としての彼の美しさを讃美しながら、自らもその意識エネルギーに融合していく幸せな生き方について話しているつもりなんだけど、上手く伝わるだろうか。
全ての存在は、角度を変えて見つめる自分自身の姿なのだと思う。
意見の対立は止むを得ないこととして、なるべく思いやり深く他人に接したいものだ。
結局、人生の中での経験が皆違っているから、考え方だって、ただそれだけで、きっと随分開きが生じて然りなのだろう。
そう考えていくと、自分の人生に起こった出来事に対して、誰かや何かのせいにすることが、とても無意味なことに思えてくるものだと思う。
だって、何かを裁くということは、今度は自分が裁かれる現実の扉をノックし開く行為になるだけなのだから。
ネガティブな物事に反応するということは、自分自身の心の中にそれと同じ観念が存在していて、感情の浄化が必要なのだろうと思う。
そして、同じ物事を見る視点をポジティブな方向に切り替えて、本当に自分が望むリアリティーへと続く次元の扉をノックする為の新しい価値観を用意することで、現実の流れに変化をもたらすことが可能となるのだろう。
ある現実に対して、僕らは無意識的に意味を持たせるけれど、誰の得にもならない現実を創造するよりも、やっぱり愛や喜びの世界を創造したいなと僕は思う。
全ての出来事の中に眠る可能性を信じて、ポジティブな発想から世界を見つめ続けることで、きっと僕らは、その集合意識の織り成す次元の扉をノックし、素晴らしい現実は創造されていくのだろう。
愛の眼差しでこの世界を見つめれば、その側面は増幅し、自らの下した解釈の結果として物理次元は作用するものらしい。
愛の世界を実現させる為に、まず自分自身が光の存在になること。
ネガティブな現実を見ているならば、きっと余計にポジティブな意識の力で、素晴らしい愛の世界の扉を開いていこう。
今日、自分の属する人類の集合意識に愛を学ぼう。
全てが自分の一部だと理解して、困っている人がいたら、思いやり深く温かな愛の手を差し伸べよう。
きっと僕らは、もっと愛し合える。
きっと世界は、もっと輝く未来へと辿り着ける筈さ。
人類の集合意識から制限がより少なくなり、魂の自由を発見する様になると、きっとこの文明社会の常識はひっくり返り、今後様々なアートや発明が地球を明るく照らし始めるに違いないと僕は考えている。
僕の思い描いていた理想社会の出現を予感している。
方法は簡単だ。
自分が愛になればいい。
ただそれだけさ。
愛は全てを引き寄せる。
足りないものなんてない。
間違った存在なんていない。
全てが愛なんだ。
科学は常識を打ち破るだろう。
物事を分け隔てなくなると宗教は一つになる。
何が正しくて、何が間違っているのか争う必要はなくなる。
誰かの上に立とうとしたり、競争して嫉妬や妬みの感情から不調和に染まってゆく必要もない。
神も悪魔も違いはない。
現実も夢も、大して違いなんてなかったのだと、きっと誰もが気付く筈さ。
それがこれからの世界。
世界に愛を。
目の前には無限へと繋がる次元の扉がある。
喜びの心で開くか、恐れの気持ちから繋がっていくかで、どんな集合意識の中に生まれることも出来るのだろう。
扉を開く時、僕らはある信念や価値観を心に秘め、その向こう側の世界へと歩き出す。
自分自身が信じていることを体験する為に。
目に映る世界の全ては、僕ら一人一人にとっての偽りなき真実だ。
それを否定することは、本当は他人には不可能なのだろう。
きっと、愛は全てを可能にする。
自分の存在さえ否定しなければ、僕らはこの世界を否定する訳を心に持ちようがない。
世界は美しい。
そして、人生はとても素晴らしい。
今、この瞬間、目の前には自分の信じたものを現実として体験する為の扉が存在している。
僕らを導くものは、紛れもなく僕達の信念でしかないのだろう。
どんな未来へと続く扉を開くかは、いつも僕らが持つ価値観により、毎瞬毎瞬選択されているのだから。
僕は、この世の理不尽さとまず初めに、壮絶な闘いを繰り返した。
だけど、その方法論は自分の望む現実を創造するものには結果的になり得なかったということを、家族は身をもって僕に指し示してくれた様に思う。
否定することからは、結局何も生み出せはしなかったという教訓がここに存在する。
そして、僕はその真実をはっきり自覚した時、イエス・キリストが両手を広げ、この世界の全てを受け入れようとした生き様の意味が、ほんの少しでも分かった様な気がした。