真夏のACOUSTIC NIGHT

 今月、八月五日(日)に広島の地元にあり、いつも御世話になっているHIDEAWAYというライブハウスで、アコースティックライブを予定しています。
 久しぶりのライブで、歌は万全では決してありませんが、最近感じて作った歌や、春から梅雨時に詞を練り直していた昔の未完のままだったアルバムの中から選曲してステージを届けたいと思います。


 お店のOPENは夜八時で、僕の出演は、たぶん十一時辺りの遅い時間になってからになると思います。
 夜中近くで遅い時間帯なのですが、地元のアマチュアミュージシャンの集う店に、是非遊びに来て下さい。
 いい仲間や熱い音楽に出会えるかもしれません。


 

 





   真夏のACOUSTIC NIGHT


 随分、ライブから離れていた。
 約一年ぶりにHIDEAWAYのアコースティックナイトへ飛び入り参加しようと思う。


 311以来、僕はずっと、うずうずする様な気持ちで日々を過ごした。


 この社会に育まれ、そして今自分に何が出来るだろう。
 原発が吹っ飛び、放射能を含んだ風が世界に垂れ流され続けていたけれど、体制は安全神話崩壊を根本的に認めない姿勢を貫いた。


 何故だろう。
 そして、絆というフレーズと共に思想統制まがいな安全キャンペーンが続いた。


 多くの国民が、それは可笑しいと思い始めていたのだろう。
 だけど、社会に生まれたその流れを止める術が何なのか、誰にも語り尽くすことなど出来なかっただろう。
 僕はロックンロールを信じ、様々な心のビートを刻み、主張を掲げ生きてきたけれど、最近は体調を狂わせてしまっていて、そのことが原因で喉の方もとても疲れ易くなり、まともに歌も歌えず、仕方なく喉を休めながら、新しい歌を日々生み出し続けた。
 少し情けない気持ちでいたことは否めない事実だ。
 だけど、今は成り行きに任せるしかない様に感じていた。



 何故こんなにも社会的なことを直接的に訴える歌が存在しないのだろう。
 そう考えてみる時、業界の依存体質が浮き彫りとなる様に思うけれど、それはまさに僕達日本人の体質であり、国民性の象徴だったのかもしれない。
 そして時代は、ロックとは対極の性質の意識、波長に共鳴するかの様に主張なき協調性に日常を染め抜いている様に感じていた。


 ギター一本で世界をひっくり返してやろうと憤った、僕のひとりよがりな夢を見た青春の日々がある。
 僕の敵は常に、僕自身の心の弱さだったのかもしれない。
 愛を求め、そして僕は愛を疑っていた様な気がする。
 その疑いという疑念を払拭するまで、歌は僕の心の糧となり、勇気をいつも与えてくれていた様に思う。


 疑いという名の幻想を打ち破れ。
 ロックンロールは今も、僕にそう熱く語りかけ続けてくる様だ。


 この社会の集合意識を変容する為に必要なことは、きっと愛に対する疑いを払拭することだろう。
 僕らは酷く傷つき、脅え、信頼という名の絆の意味を忘れ去ってしまっているのかもしれない。
 僕は、自分自身の心の真実から世界を見つめようとしているのだろうし、本当にはこの世界の実態について把握しようがない訳だけど、何もしないよりはましな歌を歌っていたいなと心からそう思うんだ。



 まだ、喉の調子が戻った訳ではなかった。
 だけど、真夏の夜に歌い出してみようと思う。


 僕が僕らしくあれる為に。