透明な椅子
日常が僕の手を擦り抜け、見つめるものに真実が映らない。
それは、少年の頃から僕が抱えていた、生きることに対する最大の葛藤だった。
誰がいけないという訳でもないと、今はそう思う。
この椅子に佇んで、僕を取り囲む現実という全ての物音に、今日の音楽を感じている。
全ての佇まいに、ビートを感じている。
ポツンと座った椅子。
日常という名のスクリーンに映し出される幾つもの心の光と影。
目の前を行き交う人々は、互いに個々人のストーリーを背負い生きている。
そんなごくありふれた風景を見つめながら、僕はふと寂しさに捕まり、心の自由を奪われている。
何故だろう。
もうずっとそうして生きてきた筈なのに、そんな疑問や日常への疑念が突如心の中に沸き起こり、僕にとっての愛や真実といったものと、競争原理の中で日々社会が生み出すものとの狭間で、ただ一人、孤独に埋もれていく。
幸せがあまりにもややこしく思える、僕らの抱えた暮らし。
集合意識というと、何だか難しい話みたいになってしまうのかもしれないけれど、社会通念がとても強固に、愛のエネルギーの障害物になっているみたいさ。
それが、僕の歌の根底に流れるものだったのだろう。
僕は、日常のトーンに不自然さを覚え、それとは違ったハーモニーを心の中で一人奏で続けた。
少年時代の夕暮れの公園で。通学途中の路地裏で。
社会人になってからも、ライブハウスで僕は心のハーモニーを奏で、歌い続けた。
だけど、その音楽は日常に流れるポピュリズムと一線を隔て、交わることがないみたいだ。
きっとそれは、目に映る世界には、無数の次元が存在しているからなのだろう。
そのことに気付き始めた頃から、僕は自分を見失うほどに何か激しい衝動に心が病んでいくことはなくなった様な気がする。
平均的な社会通念の世界の住人として日々を暮らす人々に対して、自分は場違いな人間なのではといった、いわば悲観的な感覚に捉われ生きてきたであろう、僕という突飛と言われる様なことももしかしたらあるのかもしれない存在との、社会的な摩擦。
そんなものを音楽に昇華することで、僕はバランスや調和を生もうとしてきたのだろう。
寂しさは風の中。
虚しいと泣けば、メジャーのバラードが聴こえる。
それは、悲観することなき真実の歌。
君は君のままでいい。
何だかそんな風に、背中を押してくれる友達の様な歌だ。
誰にも理解されず、受け止めてもらえない様な気持ちを、何故いつまでも孤独の中で一人、僕らは抱えているのだろう。
システムに繋がれ、管理され、誰もがみな人間不信になってしまい、傷つけ合い、競い合うことから降りられない。
だけど、きっと心を開き、何かを共に感じ合えたならば、少しずつ現実はシフトしていく筈さ。
その為に、僕には音楽がある。
文明はなんて複雑な幸福の定義を幾つも生み出してしまったのだろう。
そして、その価値に従わないものを天秤にかけ、振るい分ける様に物事に対する人間の判断が繰り返されていく。
それは、心理的に緊張や何か枯渇感の様なものばかりを生み、人々の間に不調和を生んでいる。
そして、その日常のリズムに乗っていない全ての者は、弱者のレッテルを貼られ、心はいつも裁かれる。
これが平和なのだろうか。
そう心の中で呟いた時、僕は肉体を纏わぬ存在の様に、心の粒子をミクロにして、物質現象をただ見つめ、通過していくんだ。
目の前に重たい三次元の扉があるなら、必ずしもノックする必要なんてないし、そのルールの中で通過しなければならない絶対的な義務も、本当は初めから存在していないのだろう。
僕は、そのことの意味をロックを感じる中で覚えてきた様な気がする。
壊れたルールに転がり、ぶつかりいがみ合う者よ。
自分が本当に心から望む現実の中に生まれる為に、自分と違った価値観と争う必要はない。
必要なことは、きっと自覚することだろう。
自分にとって、一体何が必要で何が不必要なのかということを。
街角に置かれた透明な椅子に、静かな心でそっと腰掛け、思考するんだ。
その時、心を窮屈にしていた柵から一人解き放たれ、次元は分離し、自由への扉は破られる。
新しい意識の中で呼吸をして、新しい意識を保ち続けて、世界は地球の自転の上で創造されていくよ。