システム仕掛けの7DAYS
学校、社会。
組み込まれ、使い捨てられていく人の心。
ジャンクフードを頬張って、ライバル達とあくせく競い合えば、メンヘルを抱え、処方せん薬で疼く魂を夜な夜な黙らせてゆくばかり。
それが、僕らの日常なのだから、幸せが本当に小さくてつまらない。
ラッシュアワーに揉まれて、いつも悩み続けてきた幸せの意味を、君と分かち合いたい。
社会の実体について語れば、きっとゲスな話を繰り返すばかりになってしまうのかもしれない。
ファッション誌に踊る来シーズンの流行りの予想、それにイケてるアイテムの紹介。
それらは全て企業戦略の名の下に繰り広げられる経済戦争の戦闘の様子だろう。
大抵の人間は、何の為に生まれ、生きるのかについて、日常的に立ち止まり、考えたりはしない。
小学校では、洗脳的に一部の権力者層を支える為に、民衆という名の奴隷を飼い慣らすべく、毎日教育が続いていくよ。
いい子って、それは誰にとって都合のいい子だと言うのか。
エリートに限ってと思わず言いたくなるほど、今の世の中、極悪な連中が溢れ返っているしさ。
物事の体裁、体裁、体裁。
大切なのは、いつもそうだ。
そして、民衆はそんな価値観にNOを突きつける勇気さえ奪われ、魂を抜き取られてしまっているよ。
この国の国民は、いい人ばかりに見える。
それはもっともなことだろう。
権力者側に媚、掟を決して破らず、反逆を企まぬよう仕向けられ、育てられてきたのだから。
だけど、システムに繋がれた奴隷のままでは、人間としての真の幸福の意味なんて誰にも分かりはしないだろう。
何かを持っているから幸せだと、人々は当たり前の顔をして口を揃える様に言うけれど、その幸せの価値は一体誰からの押し売りなのか、どうかよくよく考えてみて欲しいよ。
高級車に高級マンション。
リッチでセレブなアーバンライフ。
例えば、それが本当に人の幸せというものなのだろうか。
高給取りの夫を持ち、将来的経済の安定の保証にありつくことで、心の不安は本当になくなり、満たされるのだろうか。
僕は、人の幸せってそういうことじゃ決してないような気がするよ。
この社会のシステムに組み込まれてしまっている以上、僕らは皆、金儲けの駒であり、経済戦争の兵士だということなのだろう。
それ以上の意識を持ち生きる者は、変人扱いを受けることだって、きっとあるのだろう。
僕らはいわば、社会的な場で常に、常識の名の下、赤信号を共に大手を振って歩く働き蟻になることを期待され、大人になった。
何々会社の管理職だといっては煽てられ、ドロップアウト組だといっては蔑まれ、それらの声にいちいち一喜一憂しては悩み、落ち込み、浮かれ、羽目を外し、だけどよくよくそんな人間を観察してみると、自分というものがどこにも存在していない。
それでは、幸せがどんなものなのか体感出来る筈もないというものだろう。
だから、多くの人は哲学的に生きることはとても苦手なのだろう。
自分の心の声を聞き、今自分が果たして何を感じ、考え、何を求めて今日を生きようとしているのか、まるで理解することが出来なくなってしまっているのだろう。
僕の歌を聴いた人が、よく心のざわめきを覚え、踵を返す様に立ち去って行く光景を、今までに何度となく目の当たりにしてきた。
それは、無自覚で心に蓋をし、抑圧した感情に歌を通して触れるからなのだろうと、僕は考えている。
幼い頃から、心の中で切り離し、本心を偽り生きてきた心の痛みに向き合うことを必要とする部類の歌だと、あえて自分で言うのも恥ずかしいことの様にも思うけれど、今はそんな風に定義して、この話を続けたい。
人は普通、これまでの自分の人生を否定される様な価値観に出会うのはまっぴらな生きものじゃないかなと思う。
厳密に言えば、何かが何かを否定するということは、この宇宙の法則の中でない様な気がしているけれど。
この世界には、究極的には愛しか存在していない気がするよ。
僕は、歌で社会の既存の価値観と闘い、より良い未来を夢見て生きてきた。
僕自身を幸せにしてやる為に、自分にとっての真実を音楽で描き出す必要性があったんだ。
僕はとても変わり者だったから、社会的な価値観に殉じて生きることが出来ず、不器用に転んでばかりだったよ。
そんな僕が、自分を支える為に生み出す歌は、逆に社会的には、受け入れ難い価値観に滲んでいて、譲り合える部分がとても少なかったのだろう。
社会的な価値観には背を向け、従わず生きた僕の歌は、まず自分の心の叫びを大切にし、感性を殺すことなく、ただ素朴に人間的に生きていたいという願いだけの要素で構成していた様に思う。
社会的価値を追い求めることなく、心に向かい合う歌は、時代の流れ的には魅力に乏しいものだったのかもしれない。
歌は生き様だと常々そう思う。
僕は劣等生のままで構わない。
ただ、自分に正直に、誰に認められなくとも、自分が本当に魂を込めて、この人生を生きたと胸を張り、歓喜することの出来る様な感動を生きたい。
だから、僕にとっての真実を歌う。
誰かや社会から歓迎されることイクオール幸福という構図が、心の中でどうやっても成り立たないから。
十代の頃、ラッシュアワーに揉まれ、毎日毎日這いつくばる様な思いで暮らした。
日常をはみ出すことを許されず、段々社会との違和感の中で自分自身を見失っていった。
周囲の大人達は、そんな不器用な僕をどやしつける様に励まし、惨めさを噛みしめる思いで生きた。
この現実は何処か狂っていて、何かが可笑しい。
僕の心は、悲しみの流氷が溶ける様に、その姿を変えていった。
いつも当たり前の様にあてがわれる社会的な役割。
それ自体が、僕にはとても重くて、一体何の目的の為にそうなってしまうのか、その実態を自分の感性を通して、少しずつ理解し、葛藤を乗り越えていった。
社会の実像に近づけば近づくほどに、僕が生きたいと望む愛と自由の世界とは果てしなく遠い価値観で構成された世界なのだと、思い知らされる様な気持ちになった。
普通多くの人は、そこで夢を諦めていくのだろう。
それが社会のシビアな現実なのだからと。
そして、その本質的理由にこそ、この社会の本当の闇の姿が垣間見れる様に思えた。
僕らは皆、嫌が否でもこの社会に属し、何かを期待され、要求されて大人になっていくのだろう。
自分の理想と現実の狭間で、きっと人生は捨てていくものの方が多いものなのだろう。
だけど、社会が与えてくれないと思える心の自由を勝ち取る為に、本当に僕らは社会的容認を得ることを待つ必要があるというのだろうか。
僕は、そのことが人生に於いて、本当は一番大切なことのように思うんだ。
現実はそんなに甘くないのだからと自分の本心の声に目を伏せ、諦めることとは、きっとこの社会に日常的に蔓延する暴力の本質的姿に違いないように僕は思う。
妬み、嫉妬、嫌がらせ、競争心。
それらの全ての感情を司る価値観の原型をそこに見る。
犯罪、レイプ、殺人。
親が子を虐待し、身内で発生するトラブルが後を絶たない。
自分の人生に対する責任の取り方。
それがつまり、この社会にとって決定的に欠落しているものだと僕は思う。
だから、自分の価値観とは違う他者を躍起になり、排除し続けなければ自分自身がもう存在することすら出来なくなる様な無価値観を、僕らは多かれ少なかれ人生に抱え込んでしまっているのだろう。
社会的暴力の実体とは、他でもない、僕ら一人一人の心の等身大の姿でしかないように思う。
愛や夢や理想といったものを、人々が心の中で犠牲にした数だけ、この社会に暴力は生まれ、そして悲しみは生まれる。
初めに社会的暴力が存在している訳ではない。
この社会の本当の姿は、僕らが自分自身を傷つけた結果としての投影という形で、そこに実在している様に見えるということなのだろう。
僕らは、この社会に属している様で、実は自分自身の持つ既成概念の捉われ人ということなのだろう。
自分の持つ思想、価値観、思い癖、思い込み、それらの想念が生み出す夢を、もしかするとこの世と呼んでいいのかもしれない。
自分の人生に於ける責任の本当の取り方を、僕達一人一人が理解し、実践していくことで、この世の暴力や悲しみは消え去っていく筈だ。
現代社会はルーズで無責任過ぎる。
そして、それは僕自身が持つ心の表れなのだろう。
だとしたら、文句や愚痴ばかり零していても、何一つ解決していかないことが分かる。
まずは、自分がこの世界で理想的な人物として生き始めることから、真の革命はなされていく様に思う。
他人への批判は、自分自身の人生に負うべき責任に対し、目を伏せ、苦しい現実に対して文句を言っている様なものじゃないかな。
社会がこうだから、上手く生きれない。
僕らは、普通生活の中に生まれた困難さに対して、そう考える生きものだろう。
そして、諦めの心から他者への攻撃性が生まれる様に思う。
その証拠に、自分の理想に向かって力強く生きている、心の輝きを持った人をごらんよ。
そんな人々は、いつも瞳が澄んで輝いていて、寛容の心を持っている様に見える。夢を叶える為に、社会がこうだからとも言わない。ただ自分の信念のままに、勇気を実践しているだけなんじゃないかな。そして、むやみな他人への攻撃性は持っていないだろう。
僕らは、この社会のシステムにまず組み込まれ、心身を使い捨てられていくプログラムの下に生きる運命を辿る。
だけど、それは決して変更不可能なものではないよ。
それは、自分自身の持つ既成概念との闘いの日々。
僕はそんな日常を、システム仕掛けの7DAYSと呼んだ。