季節に埋もれたアルバム

 古いアルバムの手直しを続け、作品を磨き上げながら、2013年の音楽活動を思う。


 今年は曲をたくさんネットを利用して発表出来たらいいなと計画中の、金曜日の午後。
 今、窓の外では、不意に雨がパラついたかと思うと、また少し、淡く爽やかな青空が雲間に顔を覗かせている。



 ブログでは本当に色んなことを語ってきた。
 ふと、昔の記事を読み返してみる時があるのだけれど、若さ故の至らなさもちょくちょく目に付き、だけどその未熟な情熱が愛おしいような思いにもなる。
 勿論、意図せずとも、僕の言葉を読み不愉快な思いをした人がいるかもしれない。
 その時は、僕が若さ故の情熱で舞い上がっていたのだと、どうかお許し頂ければ幸いだ。


 僕は、今日までどんな風に生きただろう。
 どでかい夢の話ばかりして、もっと行動出来なかったかな、など色んな事を思う。


 昔のアルバムを作り直しながら、自分の社会的役割を果たす為に、今年はこのアルバムをどんな風であれ形にして、歌っていこうと考えている。
 僕にとって歌を作り歌うことは、行動そのものということなのだと思うんだ。
 確かに、歌でこの世界は変えられないという意見もあり、それも一つの側面として事実のように思う。
 ふと、僕の好きなミュージシャンが雑誌でそんなインタビューの内容を話しているのを目にして、色んなことを考えた。
 そのミュージシャンが言っていることの意味も凄くよく分かったんだけど、僕の考えとは違うんだなってことも事実として見つめていた。
 長年メジャーの第一線で活躍してきたミュージシャンが、音楽の持つ力について、僕には少し未来への希望の言葉とは違って思えた言葉を残した。
 その言葉を表面的に捉えて受け取っては話の真実から逸れてしまうように思うし、よくよく掘り下げて話せば、また意見の一致に至る話かもしれないけれど、僕は音楽の持つ力について、もっと意識的に可能性を追求した話を語りたいなと思ったんだ。



 3.11を経験して、多くの音楽家が音楽の無力さにぶつかり、この世界に対しての限界を感じている姿を見てきた。
 八十年代の繁栄の時代の中で羽ばたき輝いた日本の音楽シーンは、その翼を今失ってしまっているように見える。
 音楽は今や無料で幾らでも好きなだけ手に入れることが出来るし、娯楽が多いから、音楽に求められるものも、とても思いが希薄になっているのかなとよく考えることがある。
 それは同時にクリエーター側とリスナーとの間に存在してきた信頼関係の様子と位置付け、時代を感じ取ることが出来るのかもしれない。


 音楽家は一体どんな意識で暮らし、音楽を生み出し奏でてきたのだろう。
 そして、どれだけ自分を信じ、音楽の力を信じ生きてきたのだろう。


 そういったことに対して、僕はとても引っ掛かりを覚えていたんだ。
 現代ミュージックの行き着いた、この3.11以後の世界について深く考えている。


 例えば、3.11や9.11に対して音楽が無力だったってことの本質的意味合いは何だろうと思いを巡らせてみる。
 それは、現実世界の現象を波動として捉えると分かり易いのかもしれない。
 音楽が現実の中でその効力を持たないということは、現代の過酷なまでにマイナスの磁場を帯びたそれぞれの現象に対して、音楽の持つ波動がゼロからプラスの方向の磁場に向かって中和作用を発揮しないことを露呈しているってことが言えるんじゃないかなと思う。
 八十年代までの社会システムの中で、音楽家ですらある意味常識化した音楽の世界の住人として暮らしてきたのではないかって視点で、真摯に僕はその意味について向き合い、真実を掴みたい。
 そうしなければ、僕にとってもはや、この世界での音楽の果たすべき真の役割や希望のようなものが見えてこない気がするから。


 第一に音楽の持つ波動が、現実に対して中和作用を化学反応として人の心に及ぼしていないという事実があるように思える。
 これが、僕にとって一番決定的なこととして目に付いて仕方なかった。
 マイナスの磁場に対して、プラスの磁場に引き上げる波動としての音楽の力が、現代に必要だと僕はそう思っていた。
 人の心にもう一度聖域を取り戻す為に。
 この腐敗し切った社会に、愛を守る為のルールや優しい秩序を生み出していく為に。


 僕は、そんなことを考えながら、昔作った僕の音楽の原点的アルバムに思いを向けた。



 昨日は、音楽ソフトを使ってアレンジをした曲に歌入れをした。
 今日そのテイクを改めて聴いてみると、とてもつまらなく感じて、その理由を探った。
 まず、第一に言えるのは、やっぱり機械の音だから、どんなに表面上綺麗に聴こえるサウンドでも、結局命が宿ってなくて、ボーカルとの絡み合いに魅力が感じられないことが要因のように思えた。
 やっぱり、僕は一見地味に思えてもギター一本で生きた音を出そう。
 アルバムのデモ作りのやり方についての大きな方向性に決心が着いた瞬間だった。


 それにしても芸能界はズタボロの昨今だし、エンターテイメントがどうも魅力的に感じられない現代だ。
 音楽家でいうと、業界でやっていくと、名声を得るビックチャンスには巡り合える可能性が開けるだろうけど、アーティストとしての魂を売り払わなければならない掟の支配に生きなければならなくなる。
 そうして、いずれ芸術はアーティストの手の中で静かに死んでゆくのだろう。
 それがまさに3.11以後に露呈した、ミュージシャン達の抱えた音楽の力に対する無力感だった気がする。
 それは、日本社会でそれぞれがどう生きてきたのかを、ある意味大いなる時代の流れに問われていたということが言えるのかもしれない。
 時代をどんな風に解釈したとしても、一つ動かぬ事実として言えることは、殆ど誰も社会的矛盾に対して音楽を通し声を挙げなかったということが、僕にはとても印象的だった。
 この国のロックって何だ。
 そんな風に考え続けた日々だった。










 2013年は、たとえささやかな活動であったとしても、目の前の小さなことに一つ一つ取り組み、行動することを大切にしたいなと思う。
 その象徴として、昔のアルバムの手直しは、僕にとってとても意味深いものだった。


 このアルバムは2000年に元々殆どの曲をたぶん作ったもので、歌詞が納得出来ない曲が一杯で、未完のまま放置状態が続いていた。
 カセットテープに吹き込み、ラフなデモ音源として眠り続けた曲達。


 だけど、僕はこのアルバムへの思い入れをずっと心に秘めたまま暮らし続けてきた。
 そんな月日の中で、現代ほど人の心が貧しく悲惨な時代はないといったような話を耳にしたことを思い出す。
 本当にその通りだろうなと思う。


 インターネットが世界に普及して、益々人との繋がりやネットワークが出来ているけれど、同時に様々な心の繋がりが希薄になってきているなと、ネットをやっていて強くそう感じるよ。
 皆人のことを構っている心の余裕もなく、生存競争の渦に巻き込まれているのか。
 そんなことを思う。


 ネットをやると、ブログなんかで相手の色んな情報が分かり過ぎてしまい、人の心の動きがどれほど自分中心なのかってことについて、毎日のように様々な出来事にぶつかり、心気忙しい日常の捉われ人のように暮らしは続いていくようだ。
 僅か数年前には、まだ人情の名残りみたいなものがあったように思うけれど、それぞれの人間性の本質が姿を現しているのだろうと思う。
 嘘のない本当の姿になっただけなのかもしれないって気がするんだ。
 例えば、今までは地味で目立った存在に思えなかった人の精神的な強さや素晴らしさにふと気付かされるようなことがあったかと思うと、逆に、素敵に見えていた人の垣間見せた一瞬の素顔に、何だかとても寒いものを感じるようなことがある。
 政治家の裏の顔がどんどん社会的に表面化しているのと同じように、この世界は全て同時進行でリンクしていることが、とてもよく分かる。


 バブル時代の繁栄した社会で、物質的に豊かな生活を送り、僕らは様々に着飾り、ある意味格好をつけて暮らしていたのだと思う。
 物質面でも精神面でも、そういった傾向が強かったように思う。


 今は、格差のギャップが酷く、生存競争はより露骨なのだろう。
 格好なんか気にしている場合じゃないって空気が流れているって思うし、人に対してとても無関心な社会だ。
 自分の幸せを追求することはとても大切なことだけれど、そこに責任もない。
 よく言われることだけれど、自由に伴う筈の責任がなくて、自分勝手になってしまい、そこに現代の無秩序さというものがあるように思う。
 一見表向きには平和な社会だけれど、内面はとてもクールで、人の体温が感じられず、殺伐とした様相で日常は過ぎてゆく。


 そして、その現実を嘆いているばかりでは、僕らは自分だけをどこか別の場所に置いておいて、愚痴を零していることになってしまうように思うんだ。
 じゃあ、あなたはそんな社会の中で何をしてきたのかと聞かれたら、やっぱり僕らは日常を諦め顔をしてやり過ごしてきたのだろうと思う。だから、こんな時代になったと言えるんじゃないかな。
 きっと、誰が悪い訳じゃなくて、それぞれの社会的責任を自分で自分の胸に問い、日々を幸せにしていかなくちゃならないように思う。



 僕らが一つ愚痴を零す時、そこには新しく勝ち取るべき幸福への価値観が存在している筈だ。
 そんな些細なことから、毎日を僕は大切に生きていきたい。
 愛も夢も諦めたこの街で、埋もれてしまわずに強く生きていかなくちゃと思うよ。


 季節に埋もれたアルバムを手に、もうすぐ春の足音がそこに迫っている今日に小さく微笑んだ。