通りがかりの公園
土曜日。
僕は、車を停めると、木曜日のHIDEAWAYでのライブを振り返りながら、窓の外の動物園の脇にある、賑わった公園を見つめ、佇んでいる。
遊具で元気一杯に子供達がはしゃぎ回り、夢中で遊んでいる姿に、この国の未来を想う。
さらば資本主義。
2013年という時代に、僕が問い掛けたアルバムがある。
何故、日常が混沌としてしまっているのかということを思う時、意識が散漫なままで、社会全体が、自らの生み出している時代の輪郭自体の姿を、認識することが難しくなってしまっている現実があるからだと、僕は思う。
真夜中に向かい、田舎の闇夜を照らす、このライブハウスを訪れたのは、約二カ月ぶりのことだった。
カウンター席に座るいつものメンバー。
かなり、気が停滞してしまっているのを感じていた。
テレビ画面では、レイ・チャールズが歌っている。
とても懐かしいけど、今の日本社会のハードな現実の中では、救いとなるメッセージとは言えないような、時代の重っ苦しさがあったのは事実のように、僕は思うんだ。
資本主義という枠の中での成功。
そういったものが、ある意味救いと成り難いような感覚。
そんなことを思う僕は、この社会の中で、あまりにも場違いな存在なのだろうか。
だけど、仮にそうであったとしても、僕は自分の感性を信じ、歌い続けていきたい。
僕にとって必要な歌が、どこにもない。
ならば、自分で歌えばいい。
それが、このアルバムを作るきっかけだったとも言えるのかもしれない。
特定秘密保護法案なんてものが国会で審議される。
ファシズムを許している僕の現実に存在しているのだろう。
全ては当事者意識の欠如の問題のような気がする。
他人事や人任せの結果が、この惨たんたる日常なのだろう。
今回の国難は、ただ被災者に対して、温かく見守り応援するだけのスタンスでは、決して乗り越えられない問題だろう。
さらば資本主義。
木曜の夜のステージは、なかなか良かったんじゃないなかと自分で納得している。
僕の歌は、詞が難し過ぎるといった、昔は聴く人の反応がそんな風だったように思うけれど、長く歌ってきて、社会の様子が変わって来たように感じる。
平和な社会では、リアルに感じられないような問い掛けの言葉も、心に響く感覚が違ってきたような部分があったのだろうか。
世の中的には、恋や愛の歌が受ける。
だけど、今年の僕のテーマは原発問題であり、3.11であり、そして資本主義だった。
社会的な不条理に喘ぐ多くの人々がいる、この国で、大人になったら、やっぱり大人の歌を歌わなくちゃ。
そうじゃなきゃ、何だか恥ずかしいような気分になると思うし、ましてや3.11以後のこの世界に生きていて、歌が嘘のようで悲しくなると思う。
時々、ラジオのパーソナリティーを務めるメジャーミュージシャン達の原発問題に対する意見を聞いていると、本当に大本営発表を鵜呑みにしているってことが、リアルに伝わって来るようだ。
僕は思った。
なるほど、だから本当に歌えないんだって。
そして、それが時代の姿の投影でもあったのだろう。
真剣にライブを聴いてくれていた、馴染みのメンバーの顔が甦る。
子供達の無邪気さを感じ、公園の風景を見つめていると、この胸が不意に熱くなった。
本当は、今自分達こそが声を挙げなきゃならない筈なのに。
そんな風に、一人のアマチュアミュージシャンが語っていた姿を思い出す。
間違っていると感じることに、勇気を持って間違っていると思うと伝えること。
それが、今この国に一番欠けている誠意のような気がした。
誰だって、わざわざ人から嫌われたくはないだろう。
だけど、これは本当に愛なのだろうかと一歩立ち止まり、自らの行動を省みることが、大切なことだって、僕自身そう思うんだ。
全ては、まず自分から。
僕は、自分の心の在るがままを歌い出そうとしていた。