永遠の九条



永遠の九条
Words & Music by Yoshinori Sugawara


零戦 焼けついたエンジン唸り 空中戦 弾丸に白煙 視界塞がれ
旋回 敵艦の背後につける 彼は十六 操縦かん握ってる
亡国のFlight
兵士の 英霊讃えるのなら
永遠の九条 謳おう Japan Wow
少年兵達 最敬礼 空仰ぎ 舞い散った青春よ


もう一度国へと戻れたならば 桜の咲く頃 君の手を取り 歩いてみたい
榴弾投げ 首には銃弾巻き 密林に潜み 機関銃を構えてる
亡国のFlight
決死の覚悟で あすまた飛ぶよ
永遠の九条 謳おう Japan Wow
満天の星に祈る夜 忠誠誓い 安らかな夢を見る



もう二度と繰り返さない 日の丸よ 永遠の九条 Wow Wow Wow


永遠の九条 謳おう Japan Wow
少年兵達 最敬礼 空仰ぎ 舞い散った青春よ
太平洋 舞い散った青春よ







   永遠の九条


 黄昏の桜並木を見つめ、春風の中を歩いている。
 小高いこの丘からは、学園が見下ろせ、部活の学生がグランドで仲間達と青春を謳歌している。


 そして、一瞬零戦の焼けついたエンジン音が耳元をかすめた気がした。



 3.11以後のこの社会。
 過ぎゆく青春の日々に、今一体どんな思いを抱え暮らしているのだろう。
 僕は、桜の咲きほころぶ季節を迎えた学園を見つめながら、ふとそんなことを思い、何気ない平凡な風景の表情をなぞるように歌を口ずさむ。


 管理教育といえば、僕の生きた青春の象徴だった。
 感受性を育て育む事を徹底的に削ぎ落とし、子供達の心を家畜化させていった資本主義による制度に違いなかっただろう。
 3.11。
 誰も自分の暮らしをどうしていくべきか、自発的に生活し、人生の価値を掴み取ろうとする者の殆どいない街。
 この国難が露呈していった、この国の素顔を見つめながら、憲法の解釈の変えられようとしている九条について考えている。


 政治家は誰も戦争を経験した者はなく、イメージの中での妄想を戦争だと信じ込んでいるかのようだ。
 本当の戦争が何かを知らぬ坊ちゃんの暴君が、憲法をいじくり回し、権力指向の資本主義の中で、この国の最も悲しい歴史の一つから学んだ教訓に、今唾を吐き掛けようとしている。


 黄昏の空を背に満開となった桜並木は、とてもロマンチックで、僕は太平洋の彼方に舞い散った少年兵達の魂へと思いを馳せている。



 戦争が良くないことは、本当は誰もが分かっていることかもしれない。
 隣国の核の脅威に備えることが、核を新たに持つことや軍国化することの正当な理由だとしたら、この世界から戦争がなくなることなんて永遠にないだろう。
 それは、きっと悲観的に未来に構えた姿勢に違いないと思う。
 だとしたら、今人類にとって何が必要なのだろう。
 そんな風に、桜の舞い散る道を歩きながら、物思いに耽っている。
 僕にとっては、歌うこと。
 それが、愛する思いからの行動の第一歩のように思えていた。
 恐怖心や孤独や絶望。
 それらの思いは、誰の心の中にも存在する。
 それに対して、人は様々な防御の姿勢を続けてはいるが、それは守りに入った行動に違いなく、益々排除しようと躍起になり闘っている対象を育てていることになる。
 僕は、いつもそんな気がしてならなかった。


 自分の心の内へと益々閉じ籠っていくような、孤独で寂しくて、空虚な世界。
 それが、二十世紀の戦争体験という象徴となって、人類史に悲しみの金字塔を打ち込んだ。
 人の心が疑心に取り憑かれてしまった時、深い絶望感というものは、外界への攻撃となって現れるのだろう。
 例えば、秋葉原での連続通り魔殺傷事件を取ってもそうだ。
世界の全ては自分の敵。
そんな風な疲弊した精神構状態にまで追い込まれてしまった人の心にとって、この矛盾する悲しみの世界に正義があるとするならば、きっと全ての権力に立ち向かい、見境なく他者を排除していくことでしか、自分の人生に降り掛かって来た不条理に対する答えは、見い出せなくなるものなのかもしれない。
病んだネット社会にしても、その構造は同じだと思うし、果ては国家間の戦争という最悪の事態にまで発展し兼ねない。
だから、いつまでも大切な気持ちを忘れてしまわぬように、この世界には歌があるのだと思う。
戦争になれば軍歌が鳴り響き、部隊の指揮を高め、鼓舞する時に欠かせないアイテムとなる。


 だけど、人類が真の平和を望むのならば、僕らは自らの抱えた疑心とまず闘うべきだ。
 僕はそう思う。


 社会に出れば、常にライバル達からの手酷い裏切りや憎しみを買うこともあるだろう。
 それは、そうだ。
 社会構造上、それが道理に叶っているのだから、言ってみれば逃れようなどない理屈が確固として存在していることになる。
 そんな社会の中で、如何に平和な心でいるのかということが、僕ら人間にとっての生涯に渡る修行なのだろう。
 憎しみを捨て、愛と真心一つで自分の抱えた悲しみに立ち向かうこと。
 それが、僕にとってのロックンロールだ。


 人は決して外にあるように見えるこの世界は変えられない。
 悟りを開いた人が、幸福は自分の内側にあるものだと教えているのは、きっと自分の持つ観念によって歪めてしまい見つめている世界をどうにかするのではなくて、価値観や信念をただ人間はこの世界で体験しているに過ぎないということを伝えたかったのだと思う。
 だから、人が闘う相手は、まず自分自身なんだ。
 自らの心に取り憑いてしまっている疑心と向き合い、葛藤の壁を乗り越えていくこと。
 それこそが人生なのだと思う。
 誰のせいでもない。
 資本主義というレースの中で、人は大切なことを見失い、毎日競い争っているけれど、全ては自分の持つ観念が作り上げた幻想のようなものなのだろう。
 そのことの意味を理解するまでの一瞬の夢を、僕らは今までの人生の旅の中で一人一人見続けていたような気がする。


 原発が壊れ、放射能の脅威に曝されている日常は続いている。
 だけど、そんなものにさえ、何か特別な意味がきっとあるのだろうと思う。
 闇の中で、希望が何も見つけられないような時。
 そんな時こそ、人は自らの内側に愛という希望の光を発見するチャンスなのだと思う。



 太平洋に舞い散った少年兵達の青春のドラマが、3.11以後のこの社会に突如リアリティーを持ち甦って来るようだ。


 桜の花びらの一ひら一ひらが風に運ばれ、どこかに辿り着こうとしている。
 安全神話の消えた世界で、僕が見つめていたのは、少年兵達の魂に課せられていた運命と、その命のバトンを僕らが次にどこへ繋げようとしているのかについてだった。