ベクトル
雨の降る午後。
僕は美容院の小さなテーブル席に佇み、うつろう街の風景を窓ガラス越しに見つめていた。
「まだ降ってますよ。ムンムンする感じですね」
客足の途絶えた、七月中旬の水曜日。
カットを済ませ、帰り支度に入る迄の束の間の静かな時間。
いつもの担当を務めてくれている美容師の彼女は、出入り口から空を見上げながら、僕に話し掛ける。
アスファルトを踏み鳴らす車のタイヤの音が、静寂を切り裂いては、その曝け出された日常を僕らは継ぎはぎしていくかのようだった。
「ああ。そうですか。あんなに晴れて暑かったのにね」
野球チームのメンバーが、まだ二人しかグランドに姿を現していないチームメイト同士のように、ゲームが始まる迄の余韻に包まれているような会話の流れを見守る。
もうすぐ夏はそこにやって来ている。
高気圧優勢の季候が生まれる瞬間の訪れを感じながら、この街に続く当たり前のような毎日に音楽をそっと心の中で奏でた。
社会のことや政治的な難しい話をしている人なんて、普段あまり表立っては見掛けないし、路地裏の野良猫は、雨宿りの軒下で余りにも呑気な顔をしていて、それなりの自由と幸せを楽しんでいるように見えた。
取り立てて何かにせっ突かれている訳でもない暮らしに、文明の背負った危機を感じ、身構えている者など、僕の目には殆どと言っていい程映らない現実。
僕は、その現実の壁をノックするような8ビートで歌い出そうとしていた。
「ありがとう」
そう言って美容院のドアを出る。
背中に覆い被さる美容師の彼女の声が、明るいトーンで鳴り響き、またの来店をお待ちしていますといういつものフレーズに会釈を返し微笑んだ。
車で家路を辿る途中目にする街の風景も、昨日迄と大して違った様子はなく、繰り返される人の暮らしに劇的変化の兆しなど何もない様子だった。
昨年末に国会で通された特定秘密保護法案から数カ月。
今度は集団的自衛権が事実上容認となり、そして川内原発再稼働というシナリオが民意を押し切る勢いで着々と進められていた。
夕食の後のコーヒータイム。
僕は、来月の予定に入れてあったライブのことを考えていた。
大学ノートには、書き出してみた幾通りのセットリスト。
白紙はやがて、僕の人生という名の航海を続ける上での羅針盤へと姿を変えていく。
そこに浮かび上がる矢印。
そいつを確かめながらボールペンを走らせ、自らへのメッセージの言葉に感覚を研ぎ澄ませて、魂の鼓動を拾っている。
ライブ当日は、長崎に原爆が投下された八月九日で、僕は音楽を通し、その日への祈りをどんな風に形作り届けるべきか思案を重ねていた。
うっかりすると、当たり前に見える日常に押し切られるように時は流れ、人は大切な何かを見逃すように生活に気を奪われてしまいがちだから。
だから歌という祈りが必要な社会なんだって、僕は心の中で一人叫んでいた。
人は大切な何かをうっかり見落とし、やがてはそんなものを忘れていく生き物だから。
あの日から、一人の人の一生程の時間が経過した今日。
終戦の年なんて、たかがそれっぽっち前の話だというのに、僕の故郷の広島はコップの中の平和に暗たんとしていて、集団的自衛権容認という、事実上戦争を肯定する憲法の改正に対して、凄く心が鈍感になってしまっているって僕は感じていた。
福島第一原発のメルトダウンについても終わった事といった社会風潮に染まってしまっていた。
愛は盲目という言葉があるけれど、愛の代用品としての金に支配された街。
経済至上主義というものは、まさかここまで人の感覚を麻痺させ、当たり前に守られ尊重されるべきである筈の人権だとか、人の生死に関わる重大な社会問題にまで目を覆い、無関心でいられるのかと、打ちのめされるような思いで、依然横たわったままのこの国の重い現実を心に受け止め暮らしていた。
僕が子供の頃、広島では夏休み中にやって来る八月六日は全校登校日で、平和学習会が開かれていた。
体育館に集って、皆で戦争に関する映画を観る。
その後クラスに戻ると、原稿用紙が配られて感想文を書いた。
僕は、そんな平和学習がそんなに悪い気がしなかった印象の中、夏が近付いてくると、そんな当時の想い出をよく振り返ってみることがあった。
何よりいいなと思えた訳は、僕らが自発的に物事を考え、解決策を模索するよう委ねられているという点だった。
僕は、そういう勉強はとても好きだと思ったし、それこそが人生なんだって、まだ半人前ながらにも哲学を持っていたと思う。
そんな平和学習の時間は、明らかに通常の詰め込み式の学習内容とはクラスは様変わりを見せ、その開け放たれた教室の自由さに、僕の心は躍った。
クラスの仲間の多くは、そんな感想文を書かされる時間に苦痛の声を挙げていた。
その理由には、まず自分の思いを言葉にして書き、伝えるということへの不慣れさや苦手意識みたいなものが、きっとあったのだろうと思っていた。
絵を描いたり、作文を書いたりすると、よく周囲から茶化されるようなことが多いような社会環境に育つ内に、正しく自己主張することにさえ不信を覚え、人は大人になっていく。
それが表現への不自由さを覚えている人の心に染みつき、原点として影を落としていたのだろう。
楽器演奏や歌を人前で歌うことへの気恥かしさも、そんな体験の積み重ねから生じるものだって気がしていた。
白紙に自分だけの線が引けず、感性への不信が一生を左右していく。
人生という名の航海で、自らの羅針盤を持たぬまま彷徨う運命を辿る。
そんなイメージが大人になった僕の心には、ふと浮上し連想している。
当時、多くの仲間達が答えのない問いについて考えることには慣れていないということは、幼い僕の目にも明らかだった。
ライブハウスという場で、原発や反戦を直接的に歌うロックに出合うことがなかった。
勿論、僕が狭い世界にいて何も知らな過ぎたというだけの話かもしれない。
だけど振り返り、心の中に蘇って来るあのクラス風景。
ペーパーテストの続いて来たような、3.11以前の世界。
そして、感想文を自らが考え書かされているような、3.11以後の世界。
最後の最後は、個人の意思の決定により世界は生まれる。
僕はそう思う。
自分がどこに向かい歩き出そうとしているのか。
それが、僕らの生きる世界の方向性を司るベクトルになるに違いない。
原発について、憲法改正について。
集団的自衛権について、あなたはどう考えていますか。
その答えこそが、きっと次の世界を創造する。
僕は、3.11が起こってからのことや戦争への思いをこの日歌いたいと思っていた。
そして、自らの出した結論から次の世界へと歩き続けていくのだろう。