熱帯魚






   熱帯魚
 

 天気予報では、西日本を台風が縦断するとのこと。
 僕は、故郷の広島から長崎の遠い空を見上げた。



 世の中は、お盆休みの初日を迎えていた。
 慌ただしく身支度を整え、東にある街を目指した。
 ギターケースを車に積み込み、暫く走ると中規模都市の市街地へと国道は流れ込んでいく。
 ミュージシャンとしての人生を選んだ今の僕に、本当の意味での休みなどなかった。
 起きている間中、何か表現に関わることを考えている訳で、貪欲な僕の心は、何か核心的なものを掴み、曲としてこの世界に思想を結晶化させたいと願っている。


 駅前にある市営地下駐車場は空いていた。
 車を素早く駐車して、ギターケースと、それから販売用の自分のCDと本を入れたバッグを提げる。
 荷物で両手が塞がり、狭い地下道の通路で行き交う人に幅を効かせ邪魔をしてしまい、会釈で謝りながら歩いた。
結構ある手荷物の重さに息を弾ませ、地上へと階段を登った。
向かっているのは、今日初めて行くライブハウス“CABLE”だ。
階段を登り切り、地上に出て辺りを見渡すけれど、どっちに行けばいいのか既に分からなくなっていた。
すると何やらニコヤカに微笑む女性が通り掛かり、その人はライブイベント関係者で、向こうから僕の方へ声を掛けてくれた。
ライブイベントに参加する僕のことが分かったようで、名前を呼ばれ本人か尋ねられた。
そんな風な経緯から、運良く彼女の誘導を受けることが出来て、目と鼻の先にひっそりと出入り口が隠れていたCABLEへと辿り着くこととなる。
さいさきのいい始まりだった。



エレベーターで三階へ。


 ライブハウス入り口は、華やかな花が飾られ、ライブイベントが祝福されていた。
 この日の主役であるソウルミュージシャン“JINNO”の為に。
 フローリストが独自のアイデアで形作った世界。
 そんなものも目に付くユニークな会場の雰囲気を感じる。
 入り口を入ると、ライブ関係者の方が声を掛けてくれた。
 挨拶をしながら控え室まで案内係の男性の後を歩いた。
 途中、今日のステージへと視線を向ける。
 キャパは小さいが、PAや照明の充実したいい会場だった。
 通された控え室に荷物を置き、もう一度会場へ戻ってから、ステージ前の椅子に着く。
 ステージではさっきからずっと、今日の主役であるJINNOがリハを繰り返している。
 念入りにサウンドチェックを重ねていく彼の姿に、音楽に懸ける思いの一端を垣間見た気がした。


 やがてJINNOのリハも終わり、僕の番だ。
 ボーカルとアコースティックギターの音を割合簡単にチェック。
 僕は数曲弾き語りをするだけだったから、生で歌っている時と大して何も変わりなく、シンプルなリハで済ませた。
 軽く歌い、会場の雰囲気を感じ、ステージを降りた。
 続いて、JINZINというバンドのリハが続く。


 控え室でJINNOと初対面の挨拶を交わしたのは、どのタイミングだっただろう。
 元キックボクサーの彼はいい体つきをしていて、目標を見定めながら試合時間を待つ格闘家といった雰囲気を感じた。
 口下手な僕は、社交辞令な言葉を言うこともなく、初対面の時は流れた。



 空調調整はされているが、蒸し暑いライブハウスにいると喉が渇いた。
 ひとまずは本番前に外の空気を吸いリフレッシュしておこうと思い、エレベーターで一階へ降りる。
 だけど、外は台風による雨が降り、とりあえず軒下で雨宿りしながら、風に当たった。


 雨空の遥か彼方には長崎。
 広島と同じ悲しみを背負った、いわば姉妹都市みたいなものだ。
 僕はそう思った。
 現政権は集団的自衛権に力を注ぐ。
 武力で平和など生めはしない。
 武器は武器を生み、憎しみは憎しみを生む。
 自衛は必要だが、集団的自衛権の容認は国民に義務を課す。
 社会的義務とは、権力を使った静かな命令のことだ。
 国の為に戦争に行って、お前死んで来いよ。
 そう恫喝されていることと同じことだ。
 志願して自衛官になることと、本質的に全く違ったヘドが出る話。
 ならば、集団的自衛権を必要と思った人から戦地へ向かって欲しい。
 それが人の通す筋というものだろう。


 雨は降り続く。
 八月九日という長崎に原子爆弾が投下された今日の運命に対して、一体天は何と言っているのかな。
 戦争は戦争を生む。
 これ以上の悲しみは、僕はもう十分だ。
 愛を生む為に、人は自らの胸の真ん中に真心を抱え、愛を体現する地上の天使にならなくちゃ。
 それは綺麗事などではなく、自分との果てしない闘いを意味しているんだ。
 ロックンロール!
 僕は、この胸に誓いを立て、長崎の遠い空に祈った。


 まだ広島だの長崎だの言ってるのかと、誰かの批判の声が時代を埋め尽くしていくような時。
 きっとそんな頃、戦争の足音は僕らの暮らしに静かに迫り、聞こえてくるものなのかもしれない。
 人は、大切なことを忘れていく生き物だから。
 いい事も悪い事も忘れ、大切なものを失ってから初めて、自らの過ちに気付く。
 何て悲しいのだろう。
 だけど、取り返しの着かないような悲劇は御免だ。
 だから、僕はたとえ小さな叫びだったとしても、人間としての尊厳や誇りの為に今日また歌うよ。
 誰を責める訳でもなくて、自分自身の抱えた不安や怖れや憎しみみたいなもの全てを、音楽のハーモニーと共に天へ昇華させ、神に祈ろう。
 それが、この人生の中での僕の神様との約束。


 台風による風雨に曝された僕の誓いの言葉が、街の路上に舞い落ちては弾け歌う雨粒の一粒一粒と重なり、長崎が泣いていた。










 ほどなくして、ライブイベントは会場時間を迎え、やがて開演した。
 まずはオープニングをJINZINが努める。
 ラストナンバーをとの知らせがステージから入った頃、会場の一番後ろの席で水を飲み、膝に抱えていたギターのストラップに首を通し、ステージへと歩いた。
 ステージに上がり、センターマイクでオーディエンスへと短く語り掛ける。
 僕のメッセージに温かな拍手で答えてくれて、オープニングナンバーを奏でた。
 ステージは本調子ではなかったことが、僕にとって残念な点だった。
 それでも何とか曲の体裁は整え、お客さんもそれに答え拍手を送ってくれていたように思う。
 ありがとう。


 僕のステージも終わり、今夜の主役であるJINNOが入れ替わり登場し、彼のパッションと歌に拍手は送られた。
 確か同世代だった彼の歌を客席で聴きながら、ソウルフルナイトを漂う一匹の熱帯魚のように時空を彷徨い、僕はソウルの鼓動を感じ続けていた。
 音楽は、人をフラットなパーソナリティーへと回帰させる魅力を秘めているものだと思うから、JINNOにも彼自身と歌を必要としてくれる人の為に頑張って欲しいなと思った。
 皆が自分を捨ててしまわず、夢を諦めなければ、世界はやがて必ず真の平和へと辿り着けるだろう。
 決して道は平坦なものではないのかもしれない。
 そんな時は、僕らの歌がどうか人の心の悲しみの傍にあれるように。
 ミュージシャンの願いなんて、きっと最後はみな同じようなものじゃないかな。
 一人一人の心が自由へと解放され、安らぎが訪れますように。
 会場にはアロマも焚かれ、癒し空間が演出されていた。
 本当に色んな人の思いが重なり、一つのイベントが作り上げられていくことを感じていた。



 今夜の沢山の出会いにありがとう。
 僕のソウルは、音楽を泳ぐ真夏の熱帯魚となったまま、束の間の自由を垣間見ているようだった。