舞台裏の物語



   舞台裏の物語


 日曜日の午後に歌うピアノは、温かな秋の陽だまりへと零れ落ちていた。



 僕は、音楽教室主催のホームコンサートでのミニライブを控え、リハーサル風景をぼんやり見つめる。
 ダイニングルームとリビングとがモダンアートのような壁で仕切られた部屋。
 ささやかな大人向けのコンサートは、アンプラグドライブで、生の音を直接感じられる空間として届けられようとしていた。


 普段いる筈だったであろう二匹の飼い猫の姿はなく、開演時間が教室に集まった演奏家達を、出迎えようと迫っていた頃。
 ピアノに歌に、ハーモニカもあり、それぞれの音楽がそれぞれの人生の生き証人のように鳴り響けば、もうそこに言葉なんて必要ないと思える程に、僕は音楽が愛しくて、大切なものに思えていた。


 丁度、一週間前の日曜日にはフリマライブを経験していた。
 ストリートライブを数多くやって来ていた僕にとっても、フリマという空間は、また違った日常という名の音楽で彩られていて、演奏前に、既に会場は音の飽和状態を迎え、ミュージシャンとしてはかなり厄介な状況でのステージに違いなかった。
 だけど、実際に音を出してみる瞬間までは、イメージだけがこれから始まろうとしているライブを支える頼りであり、リアルなことなんて本当には分かってはいなかった。


 実際にステージが始まる。
 調子の方は、まあまあ悪くない筈だった。
 だけど、全く普段とは違っていて、音が何だかどこにも届いていってくれないような感覚に包まれ、自分の状況が把握出来ないままのステージを、雲を掴むように進めるしかなかった。
 分かり易いたとえになるかどうかは分からないのだけれど、反響する壁のない広い空間に人口が密集し、会話の花が咲いている場所で演奏するというのは、海の波打ち際で音を全て吸われていく環境にとてもよく似ていた。
 通行人は、横に来て初めて演奏にハッと気付くような時もあったかもしれない。
 聴く場所によって音の届く範囲に大きな格差があったのだと思う。
 そんな特殊なライブを経験し、普段あまり深く追求し考えてくることのなかった音響について、随分意識が広げられるような心理的変化を感じていた。
 ストリートよりも過酷な状況だと知ったのは、実際にその場で音を出してからで、僕らはいつもイメージとリアルとのギャップを縮める作業を、経験を通し学び続けていた。
 そんな風に進行したフリマライブの記憶も、もう翌週となった日曜日の午後のまどろみの彼方へと消えかけていた。







 フリマライブのあった日曜日の翌々日には、フレンチトーストのピアニストである彼女がオーナーを務める音楽教室でのライブのリハーサルの為に、次の準備が始まっていた。
 フレンチトーストとしてのライブで、ピアノの彼女の誘いを受け、夜の八時頃から打ち合わせながら、それぞれの楽器の音を合わせていった。


 教室に着くとすぐに、二匹の飼い猫が出迎えてくれていた。
 この夏である八月に、きららカフェでピアノの彼女に初めて会った時、一緒にバスケットに入れられやって来ていた子猫のゴマちゃんも、あの頃より大きく成長した姿を見せてくれていた。
 僕がギターを弾いて歌っていると、僕の傍に来てアイコンタクトをしてくれ、何だか好いてくれているようだった。
 そして、リハーサルが続いている間、寝転んだり、座ってジッと音楽を鑑賞しているような姿がとても印象的だった。


 普段弾き慣れている自宅である教室のピアノを鳴らす彼女の音も、透明に輝いていて素敵だった。
 ピアノの鍵盤にタッチする時の演奏家の意識が、楽器の音を決定していて、ピアノのトーンに温かさや感動が宿っていて、どんな風に倍音が広がって行くかで、既に楽曲のクオリティーの大半は決定されているのも同然だと僕は思った。
 テクニックは、そんな才能の上に後付けで咲く花みたいなものだったのだろう。


 きららカフェのマスターは、いつもならばもう寝ている時間とのことだったけれど、フレンチトーストの晴れ舞台の為にとリハーサルに参戦してくれていた。
 春からずっと、僕との演奏を重ねて来ていたマスターのカホンは、歌心まで汲み取るように響き、僕としては何も問題はなく、一緒に演奏させてもらえることが幸せだなと思っていた。


 そして、フレンチトーストとして、こうして三人で奏でている時のムードがなかなかいいなと思えた。
 その訳は、きっと柵なき世界に楽器の音が到達していたからなのかもしれない。
 プロとかアマとかいうこととも関係がなくて、まず楽器の発するトーンが純粋に思えたから、それがフレンチトーストの売りになっているように感じていた。


 この夜のリハーサルも順調に進んでゆき、後は本番で僕がしっかり歌えば大丈夫といった所まで、各楽曲は形になり、仕上がっていた。



 十月最後の日曜日。
 フレンチトーストとしての公式戦の初舞台はもうすぐ。


 僕は思った。
 時代がこんな風になると、一つの音楽を共に奏で上げるということそのものが、如何に平和なことなのかということを。
 平和が崩れる時。
 音楽から、まず自由は奪われてゆく。
 自由意思への弾圧が静かに始まってゆくよ。
 この国は、今そういった瀬戸際に立たされていたけれど、その現実を見据え行動しようとする者は、本当に一握りの存在だった。
 僕は、小さな握り拳にあすの希望を掴もうとしていた。


 音楽教室にはアップライドピアノと、昨日やって来たばかりの真新しいエレクトーン。
 今までも不調だった前のエレクトーンが、遂に金曜日に壊れてしまったのだと、ピアノの彼女が、その場で話して聞かせてくれていた。
 だけど、フリマライブのあった翌々日、あの火曜日の夜のリハーサルが、前のエレクトーンとの最初で最後の演奏になるなんて思いもしてはいなかった。
 そんな一つの楽器との出会いと別れという運命にも、不思議な縁を感じるような気持ちになった。
 前のエレクトーンの突然のリタイヤにより、コンサートの間中、幾つもの楽曲の伴奏を引き受けることになっていたピアノの彼女は、本番直前の番狂わせに遭い、相当に大変な思いをしているようだった。
 それでも何とか新しいエレクトーンを準備し、コンサートはもう開演時間を待つばかりとなりつつあった。
 フレンチトーストのリハーサルで僕も歌い、声の調子を確かめてみた。
 声が枯れてるように感じたけれど、もう手の打ちようもない。
 ちょっとこの頃、歌い過ぎてしまっていた。
 気持ちで乗り切ることだけを思い、僕は全てを流れに任せた。



 蒸し暑いくらいの秋の陽だまり。
 教室の一番後ろのチェアーに腰掛け、舞台裏の物語を追い続けながら。