白き妖精

 立冬を過ぎた街の風は、少しずつ無菌状態の氷へと季節のうつろいに様相を変えていこうとしていた。



 十一月。
 陽は短くなり、夜は冷え込みを増し、何度も繰り返している筈の季候の変化にも、いつもどこか初めて出会ったような新鮮さを覚えるから不思議だなと思う。
 きららカフェは、土曜日の夕方を迎えていた。
 十月のライブが終わったばかりといった感じだったけれど、僕はもう年末のライブに向けての打ち合わせを始めていた。


 カフェに顔を出しては、弾き語りをさせてもらっていたのだけれど、最近はずっと、カフェに備え付けのギターを借りていた。
僕は久しぶりに自分のギターを持って来ていて、このギターは以前にネットのオークションで中古ギターとして手に入れていたものだった。
 僕が初めて買ったギブソン
 J-45だ。


 このギターは買ってはみたけれど、なかなか馴染むのに苦労して、ずっと弾くことがなかった。
この一年くらい、やっと家で曲にコードを付ける作業をする際、手にするようになり、カフェで弾いてみると、思ったよりいい音がするなという印象を受けた。
一年くらい弾いて来たので、たぶん胴鳴りが良くなっていたのかもしれない。
普段一番よく弾く、僕のアコースティックギターのメインを務めてくれていたオべーション1868は、生だとかなり音が薄いので、カフェではギブソンなんかの鳴りの方が気持ちいいだろうなと思った。


 ライブの打ち合わせは続く。
 年末にあるカフェでのクリスマスライブにと、ピックアップしておいた数曲をフレンチトーストのメンバーに弾き語りで聴いてもらっていた。
 先月末にあった、フレンチトーストのピアニストの彼女の経営する音楽教室でのホームコンサートの為に行ったリハーサルの時のこと。
 カフェで十二月にクリスマスライブがあり、そのイベントに僕もフレンチトーストとして参加し歌う予定が、知らない間に入っていたのには、可笑しくて笑ってしまったエピソードとして記憶に新しい出来事となっていた。
 普段、とても人に気を遣うマスターが、僕に言うより前にフライングして、さっさとライブ予定を組んでいたことを、そのリハーサル日に雑談中不意に聞かされたという話だった。
 マスターは楽しいことをする時は、まるで少年になってしまっていて、目標に一目散に突進するタイプの猪年生まれだった。
 生まれた干支毎の気質って、何となくやっぱりあるように思えて、こういったエピソードに出会えることも、人生の中での不思議な出来事の一つと呼べたのかもしれない。
 マスターは昔、シェフの道に憧れていた頃、ホテルオークラの厨房の中まで頼んで入って行ったという情熱家の一面を垣間見ることの出来る話も聞かせてくれていた。
 それから、まだそんな話はあって、ジャズサックスの大御所として名高いジョン・コルトレーンのステージを観終わって、一瞬幕が降りる間際、若き日のマスターは客席からステージに登り、ミュージシャンの後を着いて行ったという珍話の持ち主でもあった。
 フレンチトーストとしてカフェで一緒に演奏をするようになって、雑談中にそんな話を聞かせてもらうことがあった。
 僕は、そのジャズライブでの話を目をキラキラと輝かせて話すマスターを見ていて、まるでハリウッド映画の上映が始まって行くような感動を覚えていた。


 若き日の客席にいたマスターを、レオナルド・デカプリオが演じ、美しくも儚いような甘い青春物語が幕を開け始まる。
 どんな国でもきっと、いつの時代も社会の既成概念を捨て、冒険へと旅に出るのは、若者の特権のようなものだったのだろう。
 ジェームス・ディーンの理由なき反抗やエルヴィス・プレスリーの監獄ロック等、自由への逃避を描き大ヒットしたであろう作品なんかに漂う、どことなくアウトローな空気が僕はとても好きだった。
 その社会的一線を本能による力で越えようとするような行動を取れる人が、本当は一番頭のいい奴なんだって感じていた。
 殆どの人間は、自分で感じたり考えたりすることなく、物事にただ反応して生きているように僕には思えてならなかった。
 それは、感じ考え行動することとは対極にある、機械的な社会規範の中でのマニュアルに沿った行為だったのだろう。
 きっと、僕がきららカフェにこんなにもどっぷり漬かり込み、マスターと共に演奏して歌うようになった要因には、この話に通じる何かが僕の中にもあったからのような気がした。


 僕は、ロックで常識をひっくり返したいと思い音楽を表現媒体に選び生きてきたと思っていた。
 僕自身、社会的にはとても分かり辛いだろうなと自分でも思うようなタイプだったから、音楽をコミュニケーションの間に挟まないと、もう誰とも意思疎通がまるで図れないような感覚があった。
 マスターがジャズミュージシャンに憧れるが故に、思わず無心でステージを駆け上り、楽屋へと後を着いて行ったというストーリーに要約されるような因子を帯びた、果てしなく魂の自由を求めた僕だけの心の旅が存在していたんだ。
 センシティブな理想や愛や夢についての物語だ。
 社会でまともと言われる大人になる為には、抱えていてはかなり厄介な哲学なんかの話でもある。
 マスターの取った行為は、ステージの主催者サイドとしては、防犯の問題として頭をもたげさせられるような、社会的には問題行為だった筈だけれど、そこに人間らしさとか、ロマンの香りが漂っているように僕には思えてならなかった。
 そこに人が心に宿し続けるべき情熱の炎やピュアな想いがあるという事実について、僕達現代人はもう一度気付き直し、生き方や価値観というものを問い直す必要を僕は常に感じ、生きてきた。
 最近は本当に物事がパッケージ化され過ぎていて、善悪の基準が短絡的で怖いなと感じることが、身の周りを普段見ていても一杯あった。
 想像力が著しく欠如していて、ロマンがない時代だなと思っていた。
 ロマンって、物事に反応し、社会的に順応することばかりに生きている人間には、決して手の届かないものだと思った。
 ロマンを追うことは行動だと感じていたから。
 そして、僕は行動する側の人間でありたいと願っていた。
 マスターの話して聞かせてくれた青春時代のジャズライブでの話は、僕にそんな人生への洞察を深めるのに、温かい手を差し伸べてくれているようで、この胸の内に大切にしまい、またいつか時を経て時折思い出すような宝物になろうとしていたのだろう。


 結局マスターは、楽屋まで着いて行き、途中廊下でサックスを吹き鳴らし歩くジョン・コルトレーンの姿を見たということや楽屋でミュージシャン達にサインを貰ったという話に辿り着く。
 当時十代だったマスターが、海外ミュージシャン達を相手に、外国語を話せなかったから言葉も通じぬままに、ボソッとサインと呟き、ねだったらしかった。
 そして、その日マスターの友達が二名いたという話だったように思うけれど、マスターが姿を現すまで待ってくれていたとのことだった。
 その時のことを想像すると、何となくニヤけてしまいそうになった。
 だって、海外アーティストが異国でのステージを終え、楽屋までの通路を歩いていると、不意に瞳をキラキラと輝かせていたであろう少年時代の子犬のような純真なマスターが、知らぬ間に憧れの対象にされている自分の後を着いて来ているなんて、本当にロマンのある話だなって思えるから。
 古き良き時代の物語は、こうして終わって行った。



 話が随分脱線してしまい、横道に逸れたけれど、話を元に戻そう。


 僕の作曲は、楽器を使わず、メロディーをまず鼻歌で作るのだけれど、曲を作ってから随分月日が経過したまま、なかなか詞が書けなかった曲も、クリスマスライブのセットリストに入れたい候補曲の中にあった。
 殆ど弾いて来なかったギターと、歌われることのなかった昔の曲が蘇り、復活したリハーサルは、冬の訪れに歓迎されるようにクリスマスライブに招かれ、幸せの音色を辺りに響かせていた。



 世界は、嘘のない姿へと真実の光が射し、社会や国の実態が毎日のように露わとなるニュースが溢れ返っていた。
 本当に愛がなかったのだなと思い当たるような出来事もあり、人の人格を司っていた闇の部分までも、もはや誤魔化して隠しようのない所まで来ていた。
 SNSでは、友達のリア充日記に腹を立てる、劣等感を煽られるといったことが毎日繰り返されていた。
 友達の幸せを呪うことが、本当の友達のすることなのかなと僕は首を傾げる。
 何から何まで、世界の常識は逆さ吊りの拷問の最中のように苦痛の色を深め、真実がどこにあるのかを告白し、観念するまで悲鳴を挙げているかのようだった。
 地球の放つ自然界のリズムやバイブと、人類の生んだ文明の不自然さとがギャップを埋め合わせていくかのような回帰現象。
 虚像は崩れ、ありのままの姿だけが最後に残り、地位や名声や財産なんかが、自然の摂理によって真価を問われ、どこか魂の背負って来たものを一度清算しているみたいに思えた。


 僕は、そんな暮らしの中で、ただ音楽になることだけを思い生きていた。
 幾ら言葉を尽くそうとも届くことなき想い。
 僕が果たすべき約束は、そういった想いの一つ一つを歌うことだと思っていたから、ささやかながらだけれど、今年はライブをたくさんやって来ていた。
 そして、もう二〇一四年を締めくくるクリスマスライブまでのカウントダウンが切られていた。



 一体どれだけ、僕は毎日を音楽で告白することが出来るだろうか。
 瞼を閉じれば、真の自由と平和への祈りのような、白き妖精達の舞い降りる聖なる夜の歌が聴こえていた。