FUJI
平成二十七年は、戦中の世だ。
あの福島の原発事故から四年の春も過ぎ、この暮らしはどこへ続いていくのだろう。
それにしても不思議なのは、この妙にまったりとした何となく大丈夫な雰囲気が毎日を包み込んでいて、誰もがまるで、もうあの原発事故のことなんて過去の終わったことのように流してしまっているような現実が存在しているということだった。
故郷の街に、今夜、あの歌手がやって来る。
この話を、こんな冒頭で飾ってみようと思う。
その歌手に、僕は勝手な因縁を感じていたんだ。
その事について、最初に簡単だけれど説明を入れておきたいと思う。
今年で四十一歳を迎えた僕は、彼と同級生だった。
いや。
実年齢でいうと彼の方がずっと年上で、団塊の世代の少し下になると思う。
同級生というのは、彼がシンガーとして歌い出してからの話で、僕がこの世に生を受けて以来、彼は第一線の表舞台に立ち、シンガーとして活躍して来たということになる。
その長いキャリアの中では、本当に紆余曲折として来て、他人がとても簡単には語れないような色々な事を経験して来たことを、僕は一リスナーとして知っていた。
有名な話では、中国の長江を題材に映画を撮り、大借金をしたことは、もう今では国民的に認知されているであろう出来事になっていた。
そんな話さえも、テレビやステージでトークネタとしてエンターテイメントとして披露され、人生の中での逆境でさえ、様々な財産を心の中に蓄えさせてくれる栄養に出来るということを、彼は僕に暗黙の内にそう伝えてくれていた気がする。
自らの事務所を構えていた彼は、ステージトークアルバムまでリリースしていて、遊び感覚の散りばめられた作品は、とてもユニークなものが多いと思った。
脱資本主義。
僕にとっては、そう呼べるようなスタンスでの活動を続けて来たと思える部分のある彼でもあった。
親父さんの先見の明もあったのだと思う。
歌で好きな事が歌えるようにと、当時では珍しい形で、経済活動とアート活動とを上手く切り分け、資本主義社会の中で、彼の大切にして欲しかったであろう心のピュアな部分が枯れ果てていかぬような計らいが感じられた。
だから、シンガーソングライターとして、彼は今も第一線の表舞台に立ち、時のヤスリに掛けられても尚、滅びることなく生き残って来た部分は、きっと大きかったのではないだろうか。
そして、彼は長崎の出身だった。
僕の故郷は広島で、第二次世界大戦の時に原子爆弾が投下された街に、互いに生まれ育つという因縁の中にあった。
そして、もう一つ。
ロック系の音楽をやってるということ。
僕にとって、彼はそんなシンクロ世界を体感させてくれる存在だった。
今夜、僕の街に彼がやって来る。
その彼とは、さだまさしという名の歌手だった。
真夜中の駅前付近のパーキングに車を停めてから、すぐ目の前にあるNHKの建物を目指し歩いた。
闇を照らす街明かりの中に、彼のファンの一団を発見した。
NHKの玄関前では、間もなく始まるテレビの生番組開始を待ち侘びたファンの人達が賑わう。
大抵月一で、全国のNHK放送局を回りながら、緩い雰囲気のトーク番組が続けられていた。
番組のオープニングシーンは、いつも大体決まって、各放送局の玄関前から始まった。
そして、その場にはファンの人達が、彼に一目会おうと集まって来る。
僕は、そんなファンの一団に紛れ、六月末の夜風を感じながら、番組の本番収録までの時を過ごした。
関係者からの説明やチーフプロデューサーの挨拶。
業界の体質がリアルにプンプンと匂って来るような至近距離での、一部始終の鑑賞。
それは、とても簡単には説明出来ないような濃厚な情報に溢れ、現場の空気を鼻から吸う度に、神経を刺激され、大人の事情や社会的な掟にその場が妙に支配されていく感覚を覚えた。
それが、僕があの時感じていたリアリティーだった気がする。
この社会の中で、歌手として生きていくということの現実の壁を、少しノックしたような気持ちになった。
3.11があって、こんなリアリティーに不意に遭遇したことの意味が、僕の中であれから日を追う毎に大きく膨らんでいくようだった。
番組のオープニングコールの練習もあり、深夜の街に不釣り合いな程の元気なファンの人達の声が響き渡っていた。
もうすぐ、僕が生きている間中歌い続けて来た彼が、この場にやって来る。
そんなことを思っていただろうか。
そして、それはすぐに現実となった。
番組の本番開始直前に、ロビーをスタスタと歩くように見えたさだまさしは現れ、玄関前に集結していた僕らの目の前に登場した。
用意された立ち位置に佇む彼の姿は、コンサートでこれまでに観て来た彼とは、どこか少し違って見えた。
ほんの少し高い段差に立つ彼は、まさに等身大で、僕と何も変わらない生身の人間として、今を生き、呼吸を続けているという臨場感が、大きく僕の心を捉えて離さなかった。
どんな人も、当たり前に人間で、様々な感情の起伏をオーラの中に発し、鼓動のリズムを辺りに響かせ存在している。
彼の姿に、そんな雰囲気がありありと滲んでいたことが、僕にとって、とてもいい意味で刺激的な体験だった気がする。
彼は、数時間前まで東京でのテレビ番組で歌い、その足で今度は地方に移動して、テレビ番組のパーソナリティーを務める。
きっと、誰が見ても過密スケジュールであろう合間に、本番前の一瞬、人間さだまさしの横顔を僕は目撃したような気持ちになり、それが嬉しかった。
あの一瞬は、とても貴重なものに思えたんだ。
ステージ中でも、テレビの本番中でもない一瞬。
彼の普段を知らないファンにとって、本当の息遣いを生で体感出来る機会なんて、まずないことだ。
人間として、心が立ち止まったり、迷ったり。
それらが交錯する息遣いのリズムを、何だか感じ取れたような瞬間を、僕は一生忘れないだろう。
あの時思った。
僕の故郷の街が、空襲に合い、焼夷弾の降り注ぐ街を逃げ惑う街の人々の姿のことや、彼が長崎や日本を背負おうとして、ずっと歩んで来た人生の道のりについて。
何故だろう。
近代的な街へと様変わりしていた筈なのに。
なのに、彼のファンの一団に紛れ、おしくら饅頭状態になっている時のことだ。
彼が登場していたのかどうか、それすら、もう定かではないけれど、ぼんやりとした不思議な時空間を、何だか僕は一人彷徨っているかのようだった。
前後左右から人だかりに埋もれ、押されながら、ふと後ろのコンクリート製か何かの柱に視線を投げ掛けた。
頭上だった気がする。
そこには照明がポツンと取り付けられていた。
そして、その明かりに包まれていることを自覚した瞬間だった。
理由はよく分からない。
近代的な筈のNHKの建物が、あの時、急にレトロ調の昭和ロマンの香り一杯の雰囲気を辺りに漂わせ始めた。
勿論、それは僕一人の感じていたことに違いなかったのだろう。
街の一生分の人生絵巻と、そして彼の人生。
あの時、僕はそれらのアカシックレコードを読み取っているような気持ちにさえなった。
その場に僕が、必然的に居合わせなくてはならなかった何かが、きっとあった気がする。
そして、彼が言っていた言葉を思い出す。
故郷の街は、誕生して九十九年になることを話してくれていた。
一見、無関係に広がる世界。
だが、全てに偶然はない。
僕は、そう思う。
僕の魂が、時空をタイムトリップして、3.11以後の世界という名のワンフレームにまた宿り、僕は運命を漂っていた。
番組のオープニングシーンにだけ参加して、あの後、駐車場に停めた車のシートに座った時、漠然とした感動をこの胸に抱えたまま、僕の魂が不意に泣きじゃくり、僕は暫く涙を零した。
戦中の世の中で、僕は音楽を奏でてる。
まるで、手放しではしゃぐような不穏な政治状況の続く国に生きて。
広島も長崎も、沖縄も福島も泣いている。
まるで、現実と解離していくように、人々は悲しみに目を向けようとはしない。
僕は、彼の刻んで来たリズムが時代に埋もれぬよう、僕自身のリズムで応え、僕自身の今日を伝える為に、またあすから歌い続けてゆくのだろうと思った。
霊峰富士の頂きを見つめて。
霊峰富士の頂きの彼方へ。