うたたね

 平和公園の木陰には、花壇を上手く利用して設けられたベンチがあった。
 花壇の外枠に木製の板が敷かれ、人々の憩いの場が提供されていて、僕はそのベンチに佇んでいた。



 終戦記念日であるその日、目の前にそびえる原爆ドームを見つめながら、お盆で賑わう広島の街の風を感じてみる。
 外国人観光客の姿が目立つ平和公園には、さっきからずっと、元広島市民球場跡地で開かれていたライブイベントの放つ音楽が、青空の下広がり、陽気なリズムが鳴り響き続けている。
 僕はその日、そのイベントを街角に佇み楽しみ過ごした。
 夏の焼け付く太陽は、午後の空に輝き、原爆ドームの向こう側から眩しい光を降り注がせていたけれど、ベンチ前に立つ立派な木が、涼を取る為の影を作る。
 僕は、暫くの間その場で音楽を楽しむことにした。



 さっきからずっと聴こえている音楽。
 生で初めて耳にするゴスペラーズサウンド
 テレビかラジオ等から聴いたことのある歌が流れて来る。
 この日のライブイベントは、平和への思いを様々なミュージシャンが届ける趣旨があるようだった。


 僕の生まれ育った広島。
 この街は今、本当に平和だと呼べるのかな。


 僕は心の中でそっと、少年時代から繰り返し考え続けて来た平和の意味について、思いを馳せてみた。
 平和から何だか遠ざかっていくような現実。
 それが、僕にとっての青春だった気がする。
 過去の痛みを忘れていくことは、人間の性だったのだろう。
 だから、歌のようなものに教訓を刻み、僕らは遥か未来へと、その痛みを思い出しては伝えていく義務がある筈だ。
 そんな風に考えるタイプの子供だった僕は、好きな音楽にその思いを込めて生きることを選び、ロックと政治は僕の中でイクオールとなっていたのだろう。
 そして、それは時代を逆走しているかのような場違いさを、同時に僕に感じさせていたんだ。
 平和な国で、何故そんな面倒臭い歌ばかり作り歌っているのか。
 きっと、社会的にはそんな印象で僕の歌は受け止められるような部分が強かった気がする。
 僕は、それでも構わないと思った。
 だって、僕の心は、こんなに平和に見える社会の中で、ずっと小さな叫び声を挙げていて、何かを感じて脅えているんだ。
 それを無かったことになど出来ない。



 七十回目の終戦記念日
 戦後生まれが大方の人口比率となり、広島や長崎に原爆が投下された日時を知らない国民のパーセンテージも七割に達し、ファシズムが大手を振って歩くような毎日を、僕は見つめていた。
 この広島という街に生まれ育った僕が、少年時代に感じていたのは、戦争なんて苦しくて面白くもないことについて、もう人々は関心を向けたがらないような現実についてだった。
 それが、僕の感じていた八十年代という時代の広島の姿だった気がする。
 それが、とても危なっかしいと思った。
 戦争という悲劇から街は復興を遂げ、そして平和な暮らしの中で、やがて戦争について思い出さなくなり、そして忘れてゆく。
 平和を守ることは、きっと面倒が多い。
 ましてやコンビニ世代の僕ら現代人にとっては尚更に、不快に感じてしまうような、可笑しな感覚に陥り易くなるという罠があった気がする。
 災難は、忘れた頃にやって来る。
 人々から危機意識が薄れた頃、人間はまた過ちを繰り返してしまう生き物ということだろうか。
 本当は、そんなことについて感づいている人もいる筈だけど、真実を直視することや感じ考えることにより、不安感情が発令するというパラノイアを現代人の多くは抱えていたのだろう。
 何か恐くなるとか、不安になるから嫌だといった条件反射が起きて来る気がする。
 これは、紛れもなく仕組まれた病理で、本当は相当に不健全な心の反応に違いなかった。
 平和から人々を遠ざけ、そして競争原理の下で競わせ、優劣の物差しで日常全体を巧妙に縛り、支配された世界。
 僕は、七十回目の終戦記念日を迎えた平和公園のベンチに佇み、そんな現実について強く感じ、社会との違和感を抱えていた。
 とうとう八十年代の右肩上がりの日本社会は、こんな所にまで辿り着いたんだ。
 戦後に焼け野原の街を必死で復興させていった日本人の積んで来た徳みたいなものを、僕らの暮らしは踏みにじり、拝金主義にまんまと陥って、恐怖心や孤独を物や肩書きなんかで無理に埋め合わせようと躍起になっていたライフスタイル。
 そのライフスタイルからの脱却に平成が喘いでいる。
 そして、世界もまた同じことだった。








 平和公園の敷地内には、すぐ傍にある元広島市民球場の跡地から鳴り響く、平和への讃歌としてのポピュラーミュージックが溢れる。
 明らかに、これは平和だとも思った。
 平和が失われてゆく時、音楽から自由を奪われてゆく街で、ライブがまだ今日聴けているということの平和に、深く感謝したい気持ちが込み上げて来た。
 アカペラグループであるゴスべラーズのステージの持ち時間も、過ぎ去った頃だっただろうか。
 僕は平和公園のベンチを立ち、もっとライブ会場に近付こうと歩み始めた。


 三十分交代で各ミュージシャンにステージが明け渡され、その都度休憩が挟まれていた。
 僕が聴き始めたゴスべラーズからのライブ形式は、そんな風に進行していた。


 黄昏時へと流れ込んでゆく広島の夏。
 戦争体験を無言の内に、その姿で語り続けていた原爆ドーム
 生き証人としてのドームの放つ生々しい息遣いには、いつも圧倒的なリアリティーで迫る、戦争が生み出す人の心の狂気と悲しみとを感じる思いがした。
 ゴスべラーズに続きステージに登場したのは、スキマスイッチだった。
 ライブ会場の外の敷地内に佇む。
 ステージのバックに設けられていた巨大スクリーンには、ステージの様子が映し出されていた。
 時折、後ろの道を路面電車が走り抜けてゆく度に、ステージから届く歌が聴こえ辛くなった。
 黄昏時に向かい、お盆を迎えていた広島の街の素顔が、喧騒の中で人々の生活の匂いに染まり、僕の心に様々な感情の起伏を生んだ。


 とても慌ただしく移ろってゆく季節は、この街にとっての、人々の生活にとっての正義の意味すらも捻じ曲げ、様々な解釈により、真実がことごとく、見え辛くなってゆくようだと思った。


 一九四五年 八月六日 午前八時十五分


 僕が今日音楽を楽しんでいる、この街の空の遥か上空から、一発の原子爆弾が舞い降りて来た。
 その後の悲劇については、歴史的資料となり残った数々の資料が示す通りだった。
 僕は、その悲劇について実際のことは分からない。
 どんなに想像力を働かせてみた所で、戦争という体験をした当事者の背負った悲しみの深さなんて、理解出来る筈はなかっただろう。
 だけど、きっと大切なことは、ほんの少しでも理解しようと努め、悲しみに寄り添おうとする気持ちだと信じていたかった。
 マザー・テレサの言葉にあるように、愛の反対語は憎しみではなくて、無関心だったのだから。
 だけど、どうだろう。
 社会も政治も、自分の利益の追求にばかり必死で、他人の生きる権利さえも平気で奪い、人の命の重みや自然の大切さについても、とても無関心な世の中になっていると思う。
 原発依存という名の、戦後の社会システム。
 弱者切り捨てのライフスタイル。
 それは、まさに一九四五年に広島と長崎に投下された原子爆弾に似て、強者の論理による偏った正義に満ち満ちているように思えていた。
 あの原子爆弾の投下は、戦争を終結させる手立てとして仕方がなかったと答える多くの日本人がいる時代になった、我が国を、僕は憂いていた。
 その論理が、次の戦争が起こる抑止力としての核を持つことに対して、社会正義としての承認を授けてゆく。
 永遠に戦争がなくなることも核の廃絶も叶うことのない、負のスパイラルに陥ってゆく論理展開を僕は感じずにはいられなかった。
 人類が平和利用の名の下であったとしても、もう全て核を放棄して、戦争を放棄するという意識にならなければ、人類に未来はないと思う。
 その為に、自分には何が出来るのか。
 それを考え、そして何よりも実際に行動すること。
 それが一番大切だと思う。


 戦争反対も原発反対も、平和運動として形作り、愛の輪を人と人が横に広げてゆくこと。
 そこから始めることにしか、今の僕には恒久平和実現の手立ては見つけられなかった。
 だけど、いつもよく考えることがあった。
 それは、百一匹目の猿という有名な現象についてだった。
 確かに人間一人一人の力は、世界に対して本当に微力なものだろうと思う。
 だけど、この世界に希望が残されているとするならば、人と人とは互いに無意識下では繋がり合い、影響し合っていて、いい事も悪い事も連鎖してゆくということ。
 自分の心がほんの少しポジティブに傾くということは、人類全体の意識を少しずつポジティブに傾けることに自らが貢献を果たすということ。
 そう考えると、たかだか自分なんかがなどと無責任にもなれなくなって来るように思う。
 結局、全ては自分が始めることからしか出発しないという話になるし、社会的な責任を負うことが如何に、まず自分の為であるのかということが分かるように思う。
 責任を負わないという今のこの社会の在り方は、実際には自らに苦しみを課せているというのが、きっと人間の実際の姿だと僕は感じていた。
 嘘をついて他人の目を誤魔化せても、宇宙力学が働くこの世界で、因果を逃れられる存在など、初めから皆無ということだと思う。
 物質信仰の世界で、教育から削り取られた精神学の部分が、本当は一番大切な教育の本質であった筈なのに。
 そして、それが百一匹目の猿という現象にも通じる、宇宙力学を紐解いていった先にあると思える、神秘の力についての話だと思う。
 それらを総合的に調和させ、人間本来の生命の持つバイオリズムへと回帰させるスイッチになるのが、僕にとっての音楽であり、果たすぺき役割だと思って来た。
 感情を体験する装置として、歌曲は優れているように思えた。
 歌詞を概念として捉えがちであったとしても、旋律は空間や次元を発生させ、情緒に訴え掛ける面で優れていると思った。
 だから、平和を思うイベントとして、たくさんの人が同じ場所に集まり、音楽を聴くことは素晴らしいことに違いなかった。


 色んなことを考えながら、ライブ会場の外に流れて来る音楽に耳を傾けていると、スキマスイッチの馴染み深いヒット曲の演奏が始まる。
 ポップチューンはライブイベントを盛り上げてゆく。
 そして、広島の夏の長い一日が、黄昏時に疲れた表情を湛え、街が忙しないラッシュに差し掛かろうとしていた頃だっただろうか。
 スキマスイッチの華やかなライブは終わり、いよいよトリを務めるさだまさしの登場を待つのみとなった。
 すると、前回の休憩までとは空気が変わったようで、この休憩時間中、かなり目立った様子で、会場を後にする観客が席を立ち始めた。
 この光景を目の当たりにした僕は、上手く言葉で言い表すことは難しかったけれど、何か違和感を強く覚えていた。
 会場を立ち去る際の雰囲気が、とても冷めて感じられた。
 そんな風に目に映った。








 七十回目の終戦記念日
 広島に暮らす僕らの平和への意識が、不意にこんな形で露呈するなどとは、その光景を目撃する瞬間までは想像すらしていなかった。
 これは、僕の感じ方でしかかなったのかもしれない。
 だけど、平和を思う終戦記念日に広島で開かれた音楽イベントの結末としては、とても寒々しいものに思える現実だった。


 間のなくステージにさだまさしは登場し、彼自身会場を去る観客の姿に何かを感じていたのではないかなと想像していたけれど、MCの中で少し、ジョーク混じりという形で、そのことについて微妙に触れていた。
 長崎出身だった彼は、長年長崎から広島へ平和コンサートを続けて来たという過去があった。
 そして、後で知った話だけれど、その日も強行スケジュールの中広島入りをして、ライブに望んでいたようだった。
 ライブは初めヒット曲で幕を開け、やがて広島の空という曲が歌われた。
 彼の叔母さんが長崎で原爆を体験したことを歌った曲だった。
 広島の夏空の下で聴く広島の空に、様々な思いがよぎった。
 それでも、席を立つ観客は目立っていたと思う。
 こんな光景を見ていると、この音楽イベントは一面的解釈ではあるが、ある意味失敗だと僕は感じた。
 こんなことじゃあいけないように思った。
 音楽を聴く側の姿勢やマナーとして、失格だと思ったんだ。
 ミュージシャンはステージや作品から、リスナー側に対して何を手渡して来たのかを深く考えなくてはならない気がした。
 これは善悪の話として、ただ誰かを批難したい訳ではなくて、何か可笑しな方向に社会が転がっていませんかという、僕個人が持った心の中に生まれた問い掛けだった。
 特にさだまさしには少し詳しかったから、余計にそんな違和感を強く感じた部分もあったかもしれない。
 でも、可笑しいものは可笑しいと考えなくちゃ、流されては駄目だと強く思ったという気持ちについては本当のことだった。
 そして、さだまさしは最後に、大沢たかおが演じた映画の主題歌としても話題になっていた風に立つライオンを歌った。
 壮大なオーケストレーションと黄昏を迎えていた広島の街の営みとが溶け合い、美しい調和となってライブイベントのエンディングを飾っていた。



 あまりにも平和に慣れ過ぎた街で、人の意識は平和から遠ざかり、社会システムの言いなりになって、自分を無下にし過ぎて来たように思う。
 自分の守るべき本当の権利を何処かに放棄して、競争原理の中に埋もれ、社会の歯車として行儀良く反応しているだけのパラノイアを抱えている。
 生物としての本能をも狂わせ、システムに埋もれ続けることで益々無関心へと傾いてゆく人の心。


 音楽との向き合い方やライブイベントでのモラル的な部分にさえ、色濃く現代が反映されていたと感じた、広島での七十回目の終戦記念日の想い出をここに記す。