失くした片翼

 一国の総理が、自らの考えを伝える手段として新聞を読むようにとの発言を残す。
 野次や罵声の飛び交う議会の攻防戦も決められた台本通りに思えてさえ来る。
 虚飾の日常から本音が溢れ出したことを思えば、時代は進化しつつあったのかもしれない。



 毎日はまるでびっくり箱のようだ。


 えっ!
 今何て言われました?
 わざわざ一誌を手に取り購読せよと…
 言葉を失った。
 政治という政治家と国民との共同課題について、新聞を読めというのはとても命令調で乱暴な話だと感じた。
 異様な論理が総理自身の中に育まれていて、その歪んだ正義を振りかざしている。
 実効支配的なレトリックを感じてしまう。
 やった者勝ちという論理だ。
 そんな状況に待ったの声を挙げないのならば、国民もどうかしてしまっているって気がしていた。
 メディアリテラシーが地に落ちたのも僕らが無関心でいたからではないか?
 全て僕自身のものだ。
 嫌なら面倒を自分で解決しなくちゃ。
 ロックンロール!


 それは違うんじゃないですか?
 僕はこう思うけどどうですか?
 そうやって社会的問題を議論する多様性を育んでゆく為の勇気と知恵が欲しい。
 誰もがそういったことに熱くなることを白けた目で見る社会的流れが存在していた。
 僕の生きた少年時代である八十年代からずっと。
 どうせやっても無駄だし格好悪いと諦めて来た。
 僕はそう思う。
 確かに少年少女の思い描くようなガラス細工品程に脆いレジスタンスが果たせる程、世の中に蔓延る不条理は容易く突破することの出来る壁じゃない。
 血を流す感受性の囁きを排除して来た社会。
 まともな神経から先に黙らされ潰されてゆく。
 精神的虐待が人の目には留まらない。
 そして益々無関心になってゆくよ…


 正しいことが報われる訳じゃ決してない。
 だけど僕はまだ、この社会によって心を変えられてゆくことにだけは敗北したくなかった。
 人間が人間として生きてゆく上での何か大切なことを、もう一度取り戻してゆかなければ。
 それこそが人生の財産だと思っていたから。
 自分の甘さというものを痛感している。
 何だかんだ言ってみたって、結局アメリカの嵩の下で温々と守られて来た資本主義の国の子だよ。
 世界各国が内戦や侵略等に曝されながら、人間の尊厳をギリギリの所で守る為に、時に自らの手を汚さざるを得ないような現実なんて知らずに生きて来た。
 それは政治家として働く世代の多くの人々だって同じ筈だった。
 防衛力の強化をとか言っても、全てが絵空事のように思えて来る。
 本気で戦争をやったら、THE ENDだって皆本当は分かってる。
 戦争なんて、原発と一緒で実質的には時代遅れなんじゃないかって思う。
 勿論、そんなに言う程簡単なことではないのかもしれないけれど、遠い未来では必ず時代遅れになってる筈だ。
 必ずより平和になってゆくしか最終的にはないって思う。
 科学が進歩し過ぎて、細菌兵器とか使ったら世界が終わってゆくレベルなのだから。
 ということは、知性の方が追い付いていない訳だけど、戦争なんて本当に面白くないから、そんな物騒な世界より愛し合う世界を望むよ。
 その為に哲学に磨きを掛けてゆきたい。
 本当に僕らは、実際勝ち取ったものなんて大してなくて、与えられて来た伝統や価値観、そして既存の社会のルールの中で自己矛盾を多く抱え込んだままだ。
 僕は愛の迷路を彷徨い、拾い集めて来たものを言葉に置き換えながらギターを掻き慣らしては歌い続けて生きて来た。
 成功を夢見たり、その成功の代償について考えたり。
 成功って何?
 行き着く所はいつもそんな問題についてだったと思う。


 僕は自分の夢に対して成功のビジョンを鮮明に描くことが出来なかった。
 やりたいことは音楽だとは分かっていたのだけれど。
 過去の偉人の辿った成功体験のレプレカのような人生を望んでいる訳じゃない。
 目指すものはもっと別の世界。
 だが人は現実の前に打ちひしがれてゆく。
 もう愛の為なのか夢の為なのか、金の為の人生なのかも分からなくなって。


 出世と名誉。
 ロックセレブレティー自体を疑え!
 僕は日本武道館にシャウトする立ち位置から、世の中の価値に疑問の言葉を投げ掛け続けた。
 福島の現実を歌えないものはロックとは認めない。
 時に頑なに何かにこだわり、だけど確かに時代は狂っていた。
 まやかしのロック。
 資本主義の生贄に丁度いいのがロックだったのかもしれない。
 ロックさえ黙らせておけば、世界を牛耳るのに好都合だった筈だ。
 反骨の魂など目障りなだけだろう。
 そして、大衆はその感覚をインプットされているよ。
 若者よ、気を付けろ!
 優しい感受性は悪魔に捧げるべき御馳走なんだ。
 柔らかくて、自分にはもうない感受性を葬りながらニヤニヤしている大人は絶望と悲しみの大王だ。
 そいつにはどうか取り込まれてしまわないで。
 しぶとく生き残るんだ。
 逞しく生きて、迷惑を掛けていても愛される笑顔を忘れないで。
 そして自分の正しいと思える道へ進んで欲しい。
 僕自身に言っている言葉でもあるのだが。


 今ある成功体験の全ては福島の犠牲の上に存在しているんだぜ。
 それに思い至ることなきヒットチャートならば、そんなレースは利権塗れのオリンピック同様に余りにも卑劣で卑猥で反人道的だ。
 全てがラプソディーだと思う。
 悪い意味で。


 安全神話が吹っ飛んじまって、穴開きだらけの資本主義にNoを叫んでいる。
 不条理に満ちた矛盾する悲しみの世界は、遂に来る所まで来た感ありといった様相を呈していた。
 若草色に燃える五月の日々を回想してみる。



 総理一人が浮いた存在として特別妙な言動を取っていたとは決して思わない。
 僕の身近な人々の中にも、総理的な思考の論理展開をする人がいた。
 団塊世代がどうのとか、世代を一括りにして批判するのは間違っている。
 だが、僕らの親世代には結構多いような気がしていた。
 生まれ育って来る中での時代性が関係していることは事実に違いなかった。
 原発事故のことにしても、「でも私達には関係ないわ」なんて心ない言葉を平気で吐く光景を目の当たりにしたこともあった。
 はぁー?
 あんた達が騙されていたとはいえウハウハの経済成長の下、原発産業に従属して来た事実があって、よくものうのうと若い世代や子供達のことを侮辱するような言い回しの言葉を吐けたもんだね。
 心底腹が立った。
 東大話法っていうんだ。
 こういった他者に対する侮辱的発言を繰り返す人々の詭弁について。
 だが、厄介なのは自分が詭弁を使って物事を何か誤魔化しているという認識というものが本気でゼロであるという点にあった。
 僕は身近な存在との関わりの中で体験的にそのことについて様々に考える機会を得ていた。
 本気の本気で差別的言動に正当性を感じている。
 勿論、人は誰しも自分に都合良く甘えている生き物なのかもしれないと思う。
 だが余りにも極端な軍国色がまだこの国には息づいていた。
 それを見て見ぬ振りをして野放しにしてしまう感性が怖かった。
 ならば、一体どうこの社会的で時代的な壁を僕自身が乗り越えてゆくべきか。
 ずっとずっと一人悩み考え抜いて来た。
 社会風潮は深く物事について考えるなとセンシティブな感性をからかいなじる。
 だがそれは嘘だ。
 世の中の生産性や効率上のバランスを取る為だけに、心の中に植え付けられて来た歪んだ価値観のオンパレードの街並みよ。
 この国をごらんよ。
 311から六年以上の時が過ぎ去っても尚、社会システムの根本から問い質す流れは生まれていない。
 復興という名の社会の修復活動ばかりが目立ち、ライフスタイルの転換という一番重要な筈の問題から人は目を反らし続けている。
 そして不躾な差別意識が日常を取り巻いている。
 何故、誰も疑問の声を挙げようとしないのだろう。
 とても偽善的だ。
 こんなのは本当の平和じゃない。
 上手くやった者勝ちの世界が延々と回っている。
 ファシストの因子を帯びた資本主義的価値の継続にシャウトする。
 疑問すら覚えず、街は何処かへと流れ続けてゆくよ。



 軍国が玉砕して焼け野原の街を復興してゆく中で、如何に他者を蹴落として生存競争を生き残るかについてしか頭になかったともいうべき発展の末路。
 愛とか夢とか言ってみたって、この既成概念の檻の中での自己利益や自己実現の追求ばかりが目立つかのようで、自分の思い描くビジョンすら時に虚しく思える。
 自分は自分が救われたくて祈ってるだけの偽物なんだって。
 革命なんて命すら懸けなくちゃ果たせる筈もない。
 だげど僕は、自分の身を案じては逃げ惑う森の小動物みたいに、危険察知能力だけは生命維持の為に結構高いのかもしれないけれど、それ以上に人の為になれるような崇高な夢にも理想にもいまだ辿り付けもしない。
 半端者ではぐれ者の僕は、一体何処へ行けば辿り付けたというのだろう。
 逃げ場は何処にもなかった。
 愛…



 ここに来て改めて教育のやって来たことを思う。
 様々な分野で制度自体の意味が問い質されてゆく。
 人道的視点が巧妙に排除された心の地図を広げてみる。


 数学等の暗記型の学問は記憶脳を発達させるのかもしれないが、知性や感性、人間性や思いやりを育てる働きはない。
 ジュングルジムによじ登ることの方が、余程哲学的で本当の意味に於いて人生に役立つ。
 筋肉の収縮運動の中に生物としての本能と直結する感が養われ、生きることを自然の中で学び、強さと弱さ、喜びと悲しみについて知る為の深い洞察力が経験的に身に付く。
 それは大切な感性となり、最終的には人間的優しさへと繋がってゆくもののような気がする。
 トップアスリートの姿に感動を覚えるのは記録にではない。
 記録達成は勿論素晴らしいことだけれど、数値的なこと以外にきっと心を打つ要素がある筈だった。
 競技を通じて研ぎ澄まされた感性と精神美。
 躍動する生命の歓びの鼓動。
 そういったものが迫って来るから人々は魅了され感動するように思う。
 政治をはじめ企業の在り方等、今社会にはそういった要素が余りに希薄で、熱き情動が伝わって来ない。
 人は無感動に生きている。
 感動は知的な精神の歩みの中に誕生する人生最大の財産に違いない。
 心に残るものは.天国に持って運べる唯一の宝物なんだ。
 それ以外のものは、神様からの称賛には値しない。
 世界一の大富豪にたとえなったとしても。
 貧乏でも心優しき者の方が格上に違いなかった。
 だけど浮き世はやはり大富豪になって天下を取ろうというような物理的価値ばかりに傾き、優しさなどというものは青臭くてくだらないものとして扱われる傾向が強かった。
 社会では評価されないものだから。
 どんなに素晴らしい人も立場ある者の肩書きの前ではカスとなる。
 そういった物質至上主義の流れの中での総理の一言から時代を考察してみたい。


 詳しくは新聞で。
 肉声を使って政治的指針を表明伝達することに意味のある国会だと思う。
 紙の上に刷り込んだ論理にはとても国を任せる気にはなれない。
 話が何か迂回し誤魔化されている気分だ。


 総理の本音が信号のように言動から伝わって来るようだ。
 思わず飛び出す人の心の本音。
 これは低周波数が心の中から溢れ零れるような現象だと思った。



 内部告発による社会変革。
 そういった流れというものを、時代を健全化する手段の一つとして以前から想像していた。
 だけど今やアメリカのトランプ大統領に象徴されているように思うけれど、国家機密情報ですら余り関係の良くない国の政府関係者へと自らリークしてしまうようなことがコメディー映画級に起こってしまうこの世界が訪れていた。
 日本の政界も悪事の域が落ちる所まで落ちてしまい、やはりもはやある種のコメディーになったような状況に至っているみたいだったし、極限地を越えたエゴイズムが暴れ回っているようだった。
 これらの現象については、地球の波動上昇という事柄に関係しているものと思われる。
 心が高圧洗浄機に掛けられたような状態に今あるのだろう。
 世の中、右も左も人の心の本音が思わず飛び出す毎日が続く。
 心の奥底にしまい続け溜め込んで来た未浄化な周波数が表面に浮かび上がって来る。
 怖れ、不安、怒り、悲しみ。
 憎しみ、嫉妬等ありとあらゆるネガティブカテゴリーに押し込まれて来た感情が大噴出中のこの頃だ。


 まあ、酷い世の中とも取れるけれど、本音というか、その人の持つ闇の国がこんにちは状態になっていていいこととも取れる。
 決して他人事ではなかった。
 未解決な感情の解放。
 自分に合わない価値観を手放すこと。
 学校や社会では教わる機会の少ないそれらのプロセス。
 僕個人も対処し切れていないシャドーが色濃く表面化していて、三次元的な意識の枠の中での捉われを認識させられていた。
 光が強まれば影は益々色濃くなってゆく。
 科学的に言えば次元上昇ということになるように思った。
 ネガティブな意識から未来へと踏み出す行為自体が、既に成り立たない世界の到来。
 低周波数が心の中に留まることが、物理法則上不可能な状態になったことを感じていた。
 つまり地球が以前の波動域には既に存在していないということを無言の内に語っているようなものだったのだろう。



 一九四七年 五月三日
 日本国憲法施行。
 その年から丁度七十年目に当たる今年。
 改憲へとひた走る現政権と共謀罪の危うさについて心のアンテナを立てる人々との論争があり、そして無関心な様子のサイレントマジョリティーとが存在していた。
 サイレントマジョリティーの意識の目覚めがとても重要なのだが、政治的意見をタレントや著名人達は発しようとはしないし、影響力のある存在なきこの国はどうなってゆくのだろうと危惧し続けて来た。
 今更、社会的立場のある存在からのトップダウン的社会変容などはたぶんあり得ない世界。
 上から目線ではもうとても社会格差の著しい時代を救済出来ないムードに満ちていた気がしていた。
 結局、痛みを知る心ある人物や、志のちゃんとある存在が新しい社会のリーダーとなり、利権絡みなどの癒着が発生しない環境で正しく生活の営みを見直すことから日々を再出発しなければならない筈だった。
 勿論、皆が皆ではないけれど、政治に最も向かない人が政治家となり、教育的でない言動の多い人が教育者となり、そんな風に適材適所ではない人事の目立つ社会の姿を見つめていた。
 原発なんて、その最たる例だと思った。
 神経質なくらい安全性を重視しての稼働。
 そんなことは最低ラインにあるべき問題だった筈だが、実際には計算上のいい加減な基準による審査を通過させ、いまだに再稼働へという流れを推し進めようと現政権は安全神話消滅をなかったことにしていた。
 欲の鬼だ。
 社会は利益追求の為ならば何でもありで、例えば311が発生して台湾から二百億円以上の義援金を送ってもらった国とは思えない現状を思うと恥ずかしくもあるし、義援金を送ってくれた好意に対して裏切っているようでもあり胸が痛かった。
 諸外国の人々の多くが親日感情を抱いてくれているのは、明らかに心ある活動家などの功績であったり、一般の人も勿論含めて、日本人の敗戦後の復興の中での勤勉さや恵まれない国々への支援の精神が理解されて来たからという部分はやはり大きかったに違いない。
 現代ではアニメや漫画等の文化交流を通じて、世界の若者達が日本に対する好感を抱いてくれていたけれど、そういった日本人として誇れる筈の財産に自ら泥を塗るような打算的リアルな日本社会の姿を目の当たりにしていると、諸外国から受けた精神的勲章も様々な疑問へと擦り変わってゆくようなことが多々あった。
 311のあった二〇一一年には、紛争のあるソマリア等よりも多くの義援金を日本は受け取っていた。
 義援金の額としては過去最多という記録が残る。
 日本政府は世界に感謝のメッセージを伝える。
 だが台湾には何もメッセージをしなかった。
 政治的な理由からのようだった。
 結局、一般の中からグラフィックデザイナーである女性がツイッターで支援への感謝の気持ちを台湾の人々に伝えようと呼び掛けたことが始まりで、メッセージが届けられることとなる。
 謝謝台湾計画と名付けられ、人の善意に対して人がまた善意から応えようとする行為はこんな風に広がってゆくものなんだといういい例だったように思う。


 日本は今、本当に先進国と呼ぶに相応しい国なのだろうか。
 原発利権に癒着問題。
 安全性の検証もほぼ全く実証出来ぬまま、この後に及んで再稼働ありきの見切り発車をまた続けようと躍起になっている現政権や電力会社。
 そして、サイレントマジョリティーが存在していた。
 ここまで来ると、無関心は社会悪といったレベルだと言われても仕方のない時代になっていた気がする。
 SNSでよく、痛烈な皮肉の言葉と共にそういった世の中の風潮を批判する人の姿を目撃していたけれど、そう言いたくもなる世の中だなって思ったりして過ごしていた。
 何もしないよりは、うるさく吠え立てている人の方が愛があるように思える。
 僕は脱原発への思い等を歌って来たけれど、世の中では愛や恋の歌ばかりが求められて来たように思う。
 社会的弱者への徹底的な冷たさというものを、僕は今の日本社会に強く感じてならないような気持ちだった。
 サイレントマジョリティーという存在と、また見切り発車で原発再稼働へと暴走を続けているファシズム色の滲む現政権とは表裏一体だと感じて来た。
 政治的問題に対して無関心な多くの国民と独裁。
 愛がないという部分に於いてイクオールだと思った。



 戦後の日本社会の成り立ちを明確に浮き彫りとさせる話があった。
 強制的不妊手術。
 この話は、一九四八年に法律が出来て、廃止となった一九九六年まで社会の裏でずっと続いて来た恐ろしい人権無視という問題についての話だった。
 本人に同意もなく、障害や遺伝的問題を理由に二度と子供の産めない体にさせられてゆくという、被害者側からの悲痛な心の叫びに満ちた物語がある。
 親の同意が取れれば良かったとのことで、本人には盲腸の手術だとか嘘を付き騙す等していたとされていた。
 本人が拒否しても、体を縛ったり、麻酔を打ったりというおぞましい世界が繰り広げられて来た。
 何だか強制収容所といった物々しい雰囲気が話を聞いただけで伝わって来て、背筋にゾクゾクと悪寒が走る。
 アメリカやカナダやドイツ、スウェーデンといった国では、二〇〇〇年になる前に国が誤りを認め謝罪があり、保障が行われていたようだけど、日本ではようやく被害者達の心の叫びが社会の表に挙がり始めたという状況にあり、人権についての意識の遅れが目立っていた。


 戦後の動乱期。
 国家再建の流れの中で障害を持つ者がいない方がいいだろうという考えの下に政策が実施されて来たという時代背景があるようだった。
 被害者数は一万五千人以上とされ、法律家も十分に関わって来れなかったようだ。
 手術の際、放射線が使われたようで、術後ホルモンバランスが崩れ頭痛等の更年期障害に悩まされる状況に置かれていたとの検証が残されている。
 子宮摘出。
 卵巣も一緒に。
 そういったことが医療措置として行われて来た実態を知り、何とも言えない苦々しい気持ちになった。
 女性だけではなく男性にもあったとされていた。


 高度経済成長という大きな時代的な流れの中で、こういった弱者切り捨ての人道問題が生まれて行ったことの意味を今こそ問い直してゆくべき時代が訪れたように思う。
 国民の総合的能力の向上を謳った政策。
 生産性を高める為だけの人権無視。
 そして、これらの問題は国民の間にあった差別意識と共に存在して来たのだということ。
 個人のアイデンティティーへの侵害を思うとやり切れないものがあった。
 その屈辱感とは如何程のものだっただろうか。
 この話は、311以後の社会に浮上して来た時代の素顔そのものだと思った。
 苦しい時代になると、社会的弱者へと一気に社会の不満が押し寄せる。
 皆、多かれ少なかれ誰かのせいにして苦しさを逃れようと足掻き始める。
 どちらにしてもガチの本音が飛び足す世界になったということだと思う。
 時代はロックンロールだ。
 ロックンロールじゃなきゃ救えない領域が、きっと人の心の闇にはある気がする。
 ロックンロールはタフラブだ。
 菩薩じゃなく不動明王のようなものだと思う。
 人間の心の悪しき欲望を焼き尽くす愛の炎だ。
 高圧洗浄機WORLDでは、ほらまた人の心がまるでポップコーンのように弾け飛んでいるよ。
 踏み外したらあっと言う間さ。
 詳しくは新聞で。
 そんな風な発言をした総理を先頭にぶっ飛んでいる日本社会は、本当はゾクゾクする程の熱いロックンロールのビートに飢えている気がしていた。



 時代は今、原始的価値へと回帰を始めた。
 上っ面ばかりの国会答弁に聞こえてしまうことが実に多いけれど、だがそれすらもその人物の本音がかなり色濃く滲むこの頃だった。
 建て前としての言葉は勿論ある訳だけど、思わず口を突いて出てしまったヘイトスピーチだったりする訳で、ある意味正直といえば正直な失言だったのだろう。
 等身大の自我が様々な形で姿を現す。
 取り繕うものはもう何もない。
 建て前で物事が進められなくなり、問題発言の連発であったにしてもその人の素が露呈していたのだと思う。


 僕らは互いの正義を闘わせる度にまた矛盾を生み、讃え合うことの出来る光りの射すあすを探し続けている。
 一体何処まで許し合い、互いの違いではなく共感し合える部分を見つけ何かを分かち合うことが出来るだろうか。
 より統合された自己へと進化してゆく過程の中での葛藤が今日を彩っている。
 地球の磁場に合わなくなった低周波数が、圧力差により心の中から浮き出して来ている。
 地上に行き場を失くしたネガティブの氾濫。
 堕天使達が快楽の果てに抱き合い、一対の両翼となり楽園へと彷徨っている。
 愛し合わなければ、もう何処へも飛んではゆけないことを人は思い知ってゆくのだろう。
 不必要な物もなければ、いなくていい人もいない。
 平和をそんな風にもう一度築き上げてゆきたい。
 ないがしろにして来た心を取り戻してゆくんだ。
 たとえ時代の風に煽られていたとしても、両翼でその意味を受け留めながら。