愛愁の風
十二月の雨曇りの空を見上げる。
何だか今にも崩れ落ちてきそうで、泣いているみたいだ。
北風に吹かれ、葉を落とし、何だか寂しそうに佇む街路樹は、人生の晩年の人の姿に似て、僕のまだ知らない、覚えてきたもの全てを内に秘めている様で、そのおもむきが時に痛々しくさえあると感じられる。
今日も世界はとても賑やかだ。
誰だって自分の人生を生きることに必死さ。
僕は佇む午後に少し震える様な寂しさを覚える。
何の約束もない人生が、何だかまるで僕に知らない振りで、通りの向こう側へと通り過ぎていくみたいに、しらけた時が流れる。
きっと、人生にはそれぞれの節目に負う悲しみがあるのだろう。
人々は、互いの肩を叩き合ったり、慰め合ったり、また時に憎み合ったりして、自分に与えられた配役を演じる中で、実に多くの感情を経験し、痛みとの向き合い方の中にパーソナリティーを確立していく様だ。
下手なテレビドラマだってそうだ。ドラマの感動はいつだって、痛みとの対話を各配役がいかに演じるかで、その質は決定されていくものじゃないかな。
僕は最近こんなことをふと思う。
誰にだって、人には言えないその人だけの人生に覚えた悲しみのドラマがあるのだということを。
例えば、憎いと思う人間にだって、それは同じだろう。
それが僕の魂が繰り返している一つの愛のテーマの様な気がするんだ。
平和な世界を思う時、それはきっと、各配役がね、自分の人生に背負った悲しみの痛みとどんな風に対話を続けていくかによって、そこに辿り着くことが出来るかどうか、また、どんな平和を実現出来るのかという質が決定していく様に思う。
日常には何も当たり前のことなんて本当はないし、全く同じことだってないんだ。
ただ僕らは、少しこの世界の平和な暮らしに思い上がってしまっていたのかもしれないって思う。
誰かの幸福が、夜空の名もない星への誰かの祈りに導かれ支えられていることに気付くまでの葛藤が、つまりこの世界に表出した日常の出来事の様な気がしたんだ。
誰にだって、人には話せない心の寂しさがあるのだろう
僕の魂が発するこのキーワードへの洞察の中で、秋の愛愁の風に導かれて、僕の思考に光のメッセージが届いた様な感覚がするよ。
壊れかけた見世物小屋に入り浸る人々の様に、僕らは人生を頬張る。
ナルチシズムに偏った思考への関与は、この世界では本当には認められることはない。いや、そうあるべきだと僕がそう考えているんだ。
物事への中立性を保った歩み寄りの中にこそ、人間という生き物の人生の中での自己実現が確立されるだろうから。
それが、この世界に起こる出来事との個人の関係性の中に、僕が見つけた一つの真実なのだと思う。
誰にだって、人には言えない悲しみがあるね
だから、こんな風な思考のアプローチを、僕は世界に問い掛けざるを得ない、愛の自然回帰の法則に生かされているのだろう。
僕は祈り続ける。
人々の暮らしが、どうか真実に届きますようにと。
僕は叫ぶ。
ロックのリズムに跪き。
僕の心は君のものなんだ。
だから、この今にも張り裂けそうな心の叫びを排除しないでおくれ。
秋の愛愁の風に響いた心のリズムが踊っているよ。