はじめのワンフレーズ

 十代の頃、母性に絶望した僕は、ギターとボストンバッグを抱え故郷を巣立った。


 傷ついた心をかばうものはなく、信じていたのはロックンールと情熱だった。
 東の街に着くと、僕は世界の中であまりにもちっぽけだった。
 悲しい気持ちを拭い去ることも出来ず、絶えず人間関係の複雑さに悩み続けた。



 季節は巡り、夢見た成功も何故か虚しく思えて、夢は色褪せ、僕が本当に欲しかった幸せの意味について、孤独の中で自問自答を重ねた日々がある。
 成功すれば僕はきっと幸せになれるなんて、まるでリバプール時代のジョン・レノンのように、故郷の街を捨てた頃、僕はまだ本当に若く、ロックンロールは世界に向けた銃口の狂気だったのだと今は思う。
 愛されたい、愛されたい、愛されたい。
 僕のことを分かって欲しい。
どうか何も言わないで、ただ優しくあるがままにこの凍てつき傷ついた心を抱きしめて、温めて欲しい。


 僕は、七転八倒する青春の中で、愛に飢えた魂を震わせ、誰一人信じられず、憎しみと苛立ちとで張り裂けてしまいそうなこの胸に宿る情熱を、天に訴えるように、音楽の中で激しく爆発し、苦悩を殺し続けた。


 僕は、冷たい牢獄の住人のように、心が孤独に乾き切ってしまっていた。
 この世界に慰めなんて何もない。
 本気でそう思った。


 だけど、何故だろう。
 世の中はいつだって当たり前の顔をして回り続けているし、僕のように苦悩する人間の姿なんて、僕にはどこにも見当たらず、どうすれば正気でいられるのかも、僕にはもう全く分からなくなってしまっていた。



 愛。
 愛って一体何だろう。


 成功したって、人は孤独からはどうしたって逃げられまい。
 つまり、社会に認められる人間になれたとしても、僕はこの悲しみから永遠に解放されるなどということは決してないに等しいということか。


 僕は、ひたすらに本当の僕を探していたのだと思う。
 何故って。


 愛は心を照らす光だ。
 人は愛の力によってのみ、自分の心の中心に留まり続けることの出来る存在じゃないかな。


 その愛とは、例えば母性だ。
 僕がこの人生の中で永遠に手にすることの出来なかった、運命の話だよ。
 だけど僕はもう、この悲しみを誰かに分かってもらおうなんて思ってはいない。
 きっと。




 僕はその時、ちっぽけなステージに立ち、汗を流し、無限の記憶を彷徨うように歌い続けていた。


 一瞬、記憶のステージが駒送りになり、そして静止した。


 「僕は誰だ」
 まるで名前を持たない愛のような音楽だけが、永遠の時を刻むことを許されたかのような世界。
 傷つくことばかりが多いような世界で、人は孤独になっていく。
 だが、それは真実か。


 自分のことを誰か分かってよ。
 はじめはそんな風に歌い始めた、青春の風景。
 部屋に帰れば、また一人ぼっち。
 夢に挫折し、故郷へ戻り、冷たい街の風から心の傷をかばうようにして過ごした。


 存在の条件。
 そして愛。


 何の為に僕は歌い、どんな未来を夢見ているのだろう。


 思考力の低下。
 負の感情の鬱積。


 何かから逃げ惑う小鳥のように、僕は震えていた。
 そして、白紙の中に自分自身を探し続けていた。



 心の中に発生したノイズへの苛立ちに染まるように、人の暮らしに生まれる困難が存在していた。
 窮屈な心。
 人は互いを傷つけ合っていたが、本当はそうではない。


 それは、僕らの心が求める真実への旅。
 自分への誤った自己イメージに対して、宇宙が常に正しい方向へと向かい流れる、生命のリズム。
 葛藤は外の世界に存在するものではないのだろう。


 人は、互いに分かり合いたいと切望するが、それも本当の意味では正しいとは言えないもののようだ。
 無論、それが人の性であるが、真の理解は、個体としての祈りの中でまず実現されるべき性質のものであるのだろう。
 僕は、それをロックンロールと呼んだ。


 人間関係の問題の多くは、歪んでしまった自己イメージの投影という形で現実に現れるもののような気がする。
 例えるならば、本当の自分の輝きを取り戻す為に、泥に塗れた宝石の原石という名の心に、敢えて傷を入れ、磨き上げている姿こそが人間関係なのだろう。



 駒送りの静止した記憶の中で苦しそうに歌う僕が、はじめのワンフレーズを永遠に彷徨っている。


 ロックンロールはもう、狂気の銃口ではなくなったんだ。
 そして、そんな境地に辿り着けたのも、他でもない音楽のお陰さ。
 だから僕は、希望と愛をこの世界に歌うよ。