ひらひら

 淡き春の詩が聞こえる。
 歩道の上の丘に咲く桜がひらひらと舞い落ちてくる。



 先生。
 数年ぶりに見る日本の桜は、どんな風にその心に響いたのでしょうか。


 僕は、昨日の午前十一時からの約一時間に渡る、倉富和子先生との久しぶりの再会のシーンに思いを馳せていた。
 アメリカから一時帰国していた先生の海外でのその生活も、限られた人生の時間の中で決して短いとは言えないものとなり、僕は頂いた先生との御縁の意味を噛みしめるように、既に東京へと向かわれた先生の昨日の面影を、心に辿った。


春の束の間の季節に、一斉に咲く桜の花の儚い生命の息吹きは、まるで人生の意味が何たるかを、僕らに垣間見せるかのように輝き、とても眩くて美しい。
 それはまるで、昨日先生との久しぶりの再会のドラマに巡り会えた感動にとても似てる。
 今回の先生の帰国に当たり、僕と同じように、人生で先生との御縁をもらった人達には、きっと思い思いの先生との再会の意味があったのだろう。
 そして、先生にとってもまた、桜の花が咲きほころぶかのような人生の意味が、帰国後の旅の中で顔を覗かせようとしていたのかもしれない。



 僕から何を先生に伝えるべきかと、再会前にはそんなことを考えていたのだけれど、蓋を開けてみれば、いつものように、ただ口下手に笑っていただけのような気がする。


 僕の故郷の街の駅で待ち合わせをして、改札前に佇む先生の姿を見つけ、再会を果たした。
 そのまま駅ビル内にあるレストランで、お茶をしながらのトークタイム。



 その会話の中での先生の言葉で、僕の心にとても印象深く残っていたのは、祖国を離れた時に抱いていたと話されていた過去の体験の中での傷ついた感情についてのコメントだった。
 そんな思いをされて、先生の現在のアメリカでの活動の流れへと繋がる必然性があったのだということを知り、とても感慨深い言葉となっていた。
 勿論、それは妙に悲観的に考えているのではなくて、凄く重要なキーワードだなって思ったから。
 それは、僕が昔故郷を捨てるように巣立ったドラマにも、どこか相通じる世界観だと思った。



 人は一体何の為に、人生で志しを果たさんとするのか。
 それは、きっと心に愛があるからだろう。


 そして、それが人生で勝ち得ることの出来る最大の価値のようでもあり、幸せの意味のような気がする。


 だが、その物語の中で人は心に傷を負い、時に志しと悲しみの記憶とのせめぎ合いを経験するのだろう。
 僕は、先生の一時帰国の物語のワンシーンの登場人物となり、そんな心の中の葛藤に生まれた情熱の炎を、一瞬目撃したのかもしれない。
 それは、当の先生すらも無自覚な心の領域で進行していた真実の物語なのかなって、そんな風に考えていた。



 時代は巡る。
 先生がアメリカへ渡ってからの日々に於いても、社会は、人の心はうつろい続けた。
 それは勿論当然のことだけど、ましてや3.11のようなことが起こった今、僕らは一体どんな風に心を共に重ね、この世界で手を取り合い生きていけるのだろうということを、3.11以前よりももっと強く意識するようになったと思う。
 この閉鎖的で保守的な日本社会にとって、きっと3.11は、僕らの意識に蓄積されていた分裂の幻想を見つめ直し、本当に望む新たなる価値観であったり、また世界観を再構築する為に、とても重要なプロセスだったのだろうと、僕個人はずっとそう思っている。
 原発は現代のライフスタイルの根幹をなし、そして原発核分裂という化学反応の文字が示す通り、分裂の象徴に違いないのだろう。
 だから、僕ら現代人の心が和を尊び、いつも自分が社会や自然から助けられていることに感謝出来たならば、社会のエネルギーシステムは核融合を土台としたものに取って変わるに違いないと僕は推測している。



 先生は3.11以後のこの日本社会に対して、自分に出来ることを考え、今回帰国の途に着かれた。
 僕は、先生のワーク訪問国の一つであるエストニアでの滞在記をオーロラという曲にしてプレゼントさせてもらっているけど、元々、エストニアへ訪問したきっかけも、チェルノブイリ原発事故による人体への影響に苦しむ人々の為に、自分に出来ることをしたいと考えてのことだったそうだ。



 世界が一つになるところを、心に思い浮かべよう。
 世界は一つになるだろう。
 だって、それが幸せなのだから仕方がない。


 人類は幸せに向かい進行するしかないのだ。
 何故って。
 それが人の性だから。



 桜の花は散り急ぐ。
 先生の面影を辿る、僕の心象風景に重なりながら。


 ああ、そうだ。
 その面影は銀髪の少女のよう。
 とかく嫌なことに意識を向けてばかりで、理想を形にする努力の方は怠りがちな現代に於いては、とてもはつらつとした素敵な年の重ね方だなと思う。


 風に舞う、その一ひら一ひらは、僕らの人生に一瞬現れた真実を、またどこかへ運び去っていく小舟のようだ。



 拝啓 倉富和子先生


 再会の日に僕の見た先生の面影を、僕自身の人生のストーリーに重ねて、今その名を呼んでいます。


 きっと、誰もが自然回帰すべき悲しみを心に抱え、この果てなき心の旅は続いていくのでしょう。
 散り急ぐ桜の詩を聞きながら、春風が未来に希望を運んでくれることを願いながら。