四月のLAST LIVE

 四月最後の一日となった火曜日。
 僕はいつものように、ライブハウスHIDEAWAYへと歌いに行った。



 店の扉を開けると、見知らぬアマチュアミュージシャンがステージで歌っていた。
 店内にはバンドマンがたくさん集まり、アマチュアミュージシャンの放つ独特の匂いがライブハウス内にたちこめているように感じた。
 どこまで行っても、何か人の心に辿り着けないような、まるで砂漠の巡礼者のような暮らし。
 そんなイメージを連想した。


 煙草の煙とグラスの音。
 時折耳に飛び込む、どことなく退廃的な誰かの笑い声。


 皆、幸せを探し求めている。



 アマチュアミュージシャン達の、いつも心に無数の傷を負うようなステージを、僕はずっと目撃し続けてきたような気がする。
 勿論、僕自身のステージも含めて。


 ステージでは様々な心の叫びや日常に抱えたフラストレーションが、サウンドに乗って、ライブハウス内を駆け巡るようだ。
 ミュージシャンは心の浄化に努めなければ、決して第三者の心に響く本物の音は奏でられない気がする。
 意識の中に蓄積した思考と感情を一度ろ過して、その上で楽器のトーンのタッチを模索の中で体得することが、とても大切なのだろう。
 思考と感情がバランスを欠き、ネガティブなものがサウンドの全面を覆い尽くしてしまうと、せっかくのミュージシャンの持つピュアな良さが音に姿を現さないのだろう。
 きっと、それを体得しているか、していないかということが、一流と二流のボーダーラインに存在し、演奏性を決定的に分け隔てるもののような気がするよ。
 それは、楽器を奏でたり、歌ったりする上での、テクニック以上に大切な、生きたいい音を発生させる為の、ミュージシャンスピリットへと繋がる精神性だと思う。


 そして、僕らが演奏の中でやってしまいがちなのが、愛を与えて欲しいという欲求に基づいた、精神的ろ過作業を欠いた行為のような気がする。
 僕の経験でもあるのだけれど、それは自分以外の人間には、たぶん必要性の少ないものなのだろう。


 ゴールデンウィークで賑わうライブハウスに佇んでいると、ずっと長い間演奏に対して感じ、考えてきたことの全てが、僕の心の中で駆け回り始めていた。



 その夜の僕の出番は早かった。
 バンドマンがたくさんいたから、アコースティックの僕はお先にということのようだった。
 僕は四月になって作り上げたばかりの曲など数曲を歌った。
 拍手をもらいながら、僕はやっぱり社会とのズレを強く感じていた。
 新しい歌は、原発事故以後のこの日本社会の中で、強く歌っていくべき内容だと思うことをメッセージに込めていた。
 事故に対して、より直接的なことを歌いたいと思った。
 社会的には、とても排除の色濃いメッセージだ。
 タブー視された、ダークサイドを描く歌こそが、僕は本当に社会にとって、今最も必要なものだと考えている。
 ただ、人のエゴは容易くそれを認めはしないだろうと思う。
 それは、世界的重大事故である福島第一原発に対する、この社会の無関心さそのものを示すものだろう。
 僕は今、あえてその難しいテーマに手を伸ばそうとしている。
 そして、それは現代に生まれ、表現の世界に生きる人間の義務だと信じている。


 原発事故をモチーフにした新曲を披露したのは、この夜で二度目だったのだけど、僕のこの闘いの先は相当に長いのだろうと、心のどこかで直感し、ある意味改めて、時代に向き合う心構えとして腹を括った。


 当たり前のことを言うようだけど、演奏に対して拍手を貰えることと、作品の魂やメッセージが理解されることとは、まるで次元の違う話だ。
 例えば、何千何万のファンにアーティストが囲まれていたとしても、アーティスト自身にとっての作品の持つ本質的価値とファンが見ている作品の世界とは、違っていることの方が多いもののような気がする。


 そして、もう一つ、僕にとって大切なことは、社会的評価と幸福感とは一切関係ないということ。
 僕が僕であるための歌でなければ、僕にとっての音楽の本質的意味はあまりないということを、いつも見失わないでいたい。
 青春時代に読んだビートルズの本の中で、ジョン・レノンが言ってた。
 成功しても、本当に自分は空虚で孤独だったといった内容の話で、僕はジョンのその言葉を聞いて、自分はそういったやり方はもう試す必要がないと悟った。
 資本主義社会の中で、芸術家がいかに生き残って、より充実した人生を送るべきかという大きな方向性を、僕はこのジョン・レノンの残した言葉からインスピレーションとして授かった気がする。


 そして、原発問題。
 誰も語り尽くせぬ社会の深淵な闇が、漠然と時代に広がり続けている。


 この話と、ジョン・レノンの残した成功や富に対するメッセージとは無関係ではなく、現代人が進むべき、愛と平和の世界に至る道標でもあるように僕は思う。
 ジョンが息子であるショーンの育児の為、音楽活動を止めて、世界の第一線から姿を消した、あの日の彼の意識を理解することは、きっと今、世界中の人々にとって、またガチガチの資本主義社会に生きる、僕ら日本人にとっても、とても重要なメッセージになりうるだろう。



 一曲目を歌い終えると、ちょっと固めの拍手が鳴り出した。
 原発問題について直接的に歌ったこの歌は、もっと嫌悪されるかなという僕の想像とは違い、メッセージを受け取ってくれているように感じた。
 人が聴こうが聴かまいが、究極的には、僕は自分にとってやるべきことを歌にして、行動するだけだろうと思う。
 例えば、ゴッホのひまわりは昔、ディナーの席の壁にふさわしい絵ではなかったのではないかなと思う。
 彼の抱えた孤独や苦悩、狂気に対して、大衆側がそれを受け止めキャッチするだけのキャパシティーに育っていなかったように推測する。
 現代では、普通に鑑賞しながら人は食事を摂ることが出来るだろうけれど。
 それは、作品の意識と時代の意識とが並んだことを意味し、本当はそれ以上の意味はないのだろう。
 作品への理解という事柄は、芸術家にとって、本質的にはそういった意味が残るように思う。


 ライブでは数曲をギターの弾き語りで歌った。
 その中に、今年の僕のテーマになりそうな一曲がある。
 その曲は資本主義をモチーフにした作品だ。


 資本主義社会に育てられ、そして今思うのは、この社会の無関心さについてだった。
 日本的文化の良さがことごとく排除され、過酷な生存競争の中で、人はあまりにも合理的で、つまり物質信仰がまるで宗教の如くだ。
 この社会が狂っているのは、本質的には政治が悪いからではなく、僕らが無関心だからだと思う。
 勿論、無関心になるよう社会的先導があったことは間違いないだろう。
 だが、社会システムに組み込まれ、心の大切なものを捨てることを多くの僕ら現代人は、無意識的であったにしても容認しているに違いない。
 そう考えると、政治とは僕らの意識が生み出した産物であることが分かる。
 民衆の無関心さの象徴が、怠慢な政治の姿であり、全ては一対だろう。


 逆説的に言えば、政治を変えたいならば、僕らがより能動的に希望をそれぞれ胸に持ち、生き始めることだろうと僕は思う。
 そうすれば、いつかは政治も必ず変わるだろう。


 資本主義社会の過酷な生存競争の中で、人々が何事にも無関心でいるのは、誰も傷ついたり不幸になりたくないからだと思う。
 そして、無関心さは外の世界に向いているようで、本当は自分の気持ちに不誠実であり、自分自身を傷つけているんだ。
 だから、その象徴として社会が冷たく、僕ら自身の心の在りようを投影して見せてくれているのだと思う。
 だから、ただ政治や社会を責めて、自分は傷つくことを恐れ、無関心でいることは、この狂った社会の存続を志願しているに等しい行為に繋がっていくよ。


 僕らは徹底的に無価値、無能力を刷り込まれ大人になっていく。
 その呪縛を解くには、僕はやっぱりロックンロールしかないって思うよ。



 この世界をひっくり返そう。
 僕と君の手で。