五輪の風

 東京五輪招致決定に沸く九月。
 華やいだ、久方ぶりに燃えゆる世相の花。


 僕は今、この時代に何を見つめ生きているのだろうか。



 僕は、凄く危惧していた。
 だけど、時代の濁流に抗える人間なんていないってことも分かっているつもりだった。
 そして、その一方で、社会的勝敗というものは、本当は僕の魂の目的にとってみれば大したことじゃないのかもしれないとも、いつもそんな風に考え続けてきたように思う。


 福島第一原発の汚染水は、完全にコントロールされていると公言した、我が国の首相。
 五輪招致に向けてのプレゼンに、世界中の人々が食い入っていたに違いないのだろう。
 その言葉を一体どれほどの人が真に受け、信じていたのか、僕に知る術はないけれど、そういった嘘も、ある意味もうどうでもよくなるくらい、世界の緊迫した情勢は、この国の未来に自分達の希望へと繋がる何かを託していた部分が、きっとあったのだろう。
 五輪招致合戦勝利に沸く、ニュースに映し出された日本人や、その姿を見守っていた世界の人々の息遣いみたいなものを、リアルタイムで感じていて、そんな風な思いに至る僕がいた。


 こういった歴史的出来事って、政治的な力は勿論のことだけれど、天の意思が働かなければ実現し得ない話だって気がする。
 だから、日本が世界に於いて、新しき時代のリーダーとして、この先の未来に何か重要な役割を担う立場になろうとしていることの象徴であることだけは、確かなことのように思えるんだ。
 政治的な嘘が世界中に転がり、そして矛盾したこの世界で、善悪の枠を乗り越えるほどの超越した、世界市民としての意識で、これから先の未来に僕らは歩き出していくべきだと、今僕は決意を新たにしよう。
 福島は忘れられ、見捨てられてるって心底そう思う自分がいる。
 世の中の理不尽さというものに辟易して、それでもロックンロールに僅かな希望を握り、奇跡的な未来のシナリオを、もう一人の僕は本気で信じ、完璧なる信頼を持った僕も同時に存在しているようだ。
 そのどちらもが僕にとっての真実の姿だろうと思う。
 だけど、より正確に言えば、僕は楽観主義的にではなくて、やっぱり未来を信じている派だと思うんだ。
 そんな自分として毎日を過ごすことの方が普通であり、日常的だというべきなのかなと思う。


 2020年、東京五輪
 やるからには絶対成功させたいと、やっぱりそう思うよ。
 確かに、様々な葛藤を抱えた我が日本社会であり、また世界もそうだけど、二面性を孕んだ矛盾の中で、より真実に近付き、よりよい世界を構築していくことこそ、この世界での人間に課せられた修行なのだから。
 僕は自分でもなかなかしたたかな人間だと思うのだけれど、世の中のマイナスって、凄く魂の栄養になり、成長を促してくれるスピリチュアルフードになるものだって思っているんだ。
 勿論、したたかさを良い意味で使っていきたいと思っていることは言うまでもない話かなと思うが、付け加えておこうと思う。


 振り返れば、僕の人生はいつも試練に満ちたものだったって気がする。
 だけど、その試練がなければ、僕はロックを極める為のメンタリティーを維持することは、もしかすると不可能だったかもしれないなと考えることがあるよ。
 そんなことを考えていたら、人間にとって本当は何が幸せで、何が不幸なのかってことに答えなどないのだということが分かるような気持ちになる。
 人生に今何があるかということが常に問題なのではなくて、そこに存在する出来事をいかに上手く利用して、自分の望む現実を引き寄せ、築き上げていくかってことが、一番大切なことだって、今はそう思うよ。


 だから、東京五輪の話にしても、それは同じことだろうなと思う。
 この材料を使って、何を生み出すのかってことが全てのような気がする。


 五輪招致が決まるまでは、原発事故後の後始末も出来ないこの国で、オリンピックなんて気が狂っているって思っていたけれど、もはやそればかりを言っていても現実は何も始まりはしないだろう。
 それに、2020年までには本当に様々な問題がこの国に押し寄せることは簡単に推測出来る話だし、そのことでいい結果を出していくことが大切なことに違いないと思う。


 そして、総理は集団的自衛権行使のことに躍起だ。
 いつだって赤紙が来る。
 そんな危うい時代と常に背中合わせの今日がある。
 そんな時代になれば、僕の人生でいえば、音楽を奪われ、兵士という名の殺人鬼になることを、当然国に強要されるという話。
 これは、広島で生まれ育った僕にとって、自らのアイデンティティーを強烈に踏みにじられ、傷つけられる卑劣な話以外の何物でもない。
 そんな危うい日々の中で、ライブハウスのステージで歌い、この日本社会の現実というものを目の当たりにする思いだった。



 歌って、自分に全く興味のない人の心を、ライブでほんの少しだけでも動かせたならば、それは大成功の始まりなのだと僕は信じている。
 昔、若くて荒削りな歌を歌っていた頃は、100%も120%も客から無視状態のステージなんてざらで、寧ろ常にそういった環境の中で歌ってきたよ。
 この社会の露骨さを僕は一生忘れないだろう。
 それなりに気を遣っているのは仲間内の演奏だけで、それ以外の人間には愛想の一つもないような、本当に冷たい世界だったって思う。
 だけど、今はただそのことだけをとやかく言うつもりはないよ。
 それくらい僕達現代人の心が疲弊し、乾き切ってしまっているって話がしたいんだ。
 恨み事なんかじゃないよ。


 でも、とても悲しくなる話かな。



 心の疲弊。
 それはファシズムの存在を差すものだと思う。


 結論から言ってしまえば、それがこの国が僕らに与えようとしている赤紙なんだってことを、僕は社会に向けて叫びたいんだなって、自分でそう思うよ。


 最近の僕のステージでいえば、歌を聴いているにも関わらず、自分の意思を示し拍手をしない若者の姿がとても目に付き、それが僕にはとても引っ掛かって仕方なかったんだ。
 周囲や仲間の反応や空気を見ているんだろうなって思った。


 ファシズム


 自分の意見を言わない。
 意思を周囲や社会には示さない。
 今までの社会ではリスクの高い行為であったかもしれないけれど、軍国化の流れが生まれているような時代に於いては、逆に本当の意味で、心を疲弊させ、意思を示さないってことは、僕らの未来に自らでリスクを背負い込むことに繋がるように思う。
 そういった今の日本社会の現実と、ライブハウスの現実とが見事にオーバーラップして、僕は時代の濁流に抗いながら、ステージでは、今まで心の叫びを伝えようとしてきたように思う。
 たまたま出会った人は、一度きりの出会いになってしまうことが多く、一夜のステージで伝えられることなんて、たかが知れているものだろう。
 音楽を武器に、意識圧を継続的にかけ続けた結果、世界を段々浄化していくことの出来る可能性は、とても高いと僕は思う。
 ただ、それに似つかわしい高い音楽性と優れた思想が、まず作品に備わっていての話なのだけれど。
 テレビの時代は去り、ヒット曲の出せない時代に、音楽家にとって一体どれだけのそういった希望が残されているだろうか。
 だが、たとえ今は道がどんなに険しく見えていたとしても、僕はその道を信じたい。
 音楽が再び世界を一つにする日がやって来ることを。









 たくさんのアーティストが力を合わせた音楽イベントで、お目当てのアイドルグループの出番だけを見ると、一斉に席を立つ若者達の集団がいたという、最近の話を聞いた。
 街中どこにいても、現代人は端末に張り付き、何事もコンテンツ毎に振り分けられ、便利なんだけど、生活がどんどん切り詰められていってしまって、結局バランスを色んな意味に於いて欠いてしまっているのだろうと僕は思う。
 無駄がない分、ゆとりも失くして、そこに本来あった筈の心の豊かさへと通じるような大切な何かが、日常から姿を消してしまったかのようだ。
 やっぱり、無駄に思えるようなものが案外自分に別の世界を見せてくれたりだとか、偏った物事の見方やひとりよがりな生き方を正してくれる役割になりうるものだって気がするよ。
 家族もバラバラだから、お爺さんやお婆さん達の生きる知恵を、現代では若い人達が得辛いといった現実もまた、コンテンツ別に隔てられた世界の話の象徴なのだろう。
 各世代がコンテンツとして、それぞれバラバラな世界に散らばり、社会が上手く潤滑に機能していないのだと思う。
 これは自分のステージの時に経験するエピソードの一つなのだけれど、歌っている最中に若者達が一斉に、それぞれの持つ端末の画面にへばり付き、社会的公共の場であってさえも、自分の世界に行ってしまっているという現象がある。
 好きなように時間を過ごせば、勿論何も問題はない。
 だけど、目の前にいる人への配慮という観点からすると、ちょっと可笑しな世界だなって、僕の場合はそんな風に感じているよ。
 きっと、家庭や社会や時代に他人への配慮がなくなってしまっているから、その意味を知らないってことなのだろうなと考えたりする。
 自由に楽しくやればいいけれど、自分勝手がまかり通る社会に生きているってことは、まず本人が一番不幸なことだと僕は思う。
 結局、話を突き詰めて考えていくと、他人を尊重しないばかりか、自分の本当の姿も見えていなくて、自分自身を愛するということが出来ない精神状態に曝されているってことだと思うんだ。
 それは、育ってきた環境の中で、愛されなかったという一つの不幸が存在していることを伝えているかのようだ。
 社会的何かの犠牲になった人の心が、今時代の闇に無数に転がっている。


 そして、モラル的問題の話を持ち出すと、重い、ダサイという反応が辺りに乱反射して、人々は他人からの批判に絶えず心を委縮させ、神経を尖らせているよ。
 それは、自分のナイーブさを社会環境の中で否定されてきたことに端を発する、悲しみの物語なのだろう。
 重い、ダサイという資本主義的なクールさを持つことを人はいつしか覚え、自らも鉄の鎧を身に纏う。
 そして、次の世代に生まれた人間を弾圧する立場へと、命のバトンのリレーは儚くも続いているというのが、欧米社会の経済モデルにどっぷりと浸かり込み染まった、僕らの抱える日常の正体なのだろう。
 ロックンロールは迫害され、そして忌み嫌われるような時代さ。
 今、僕に何が出来るだろうか。


 そういったマナー的な話を大の大人にしなければならないのが、まさに今の日本なのだなと痛感する思いだ。



 分断された心の世界。
 便利さの代償に、僕ら現代人が背負った悲しみの十字架なのだろう。


 家庭も社会も、そしてライブハウスもまともに機能していない。
 きっと、多くの場合がそうなのだろうなって、福一の事故後の時代を見ていて、そんな風に思うよ。
 音楽をアルバム単位で聴き込み、愛した多くの人がいた時代が懐かしいよ。
 アーティストさえも、パーソナルに全体を評価されるのではなくて、一曲一曲を分け隔てた価値の中で、コンテンツとしての消費活動は今も続く。
 それは例えば、コンビニに行って金を払えば、礼儀なんてなくたって食料がすぐに手に入ってしまう世の中が生み出した、冷淡な日常というものなのだろう。
 苦労知らずは感謝知らずであり、やはり不幸なことなのだなと、つくづくそう思う。
 そして、心は疲弊したまま、引きこもっているのが今の多くの日本人の姿なのかもしれない。
 弱き者には横柄な態度で開き直り、これでもかといわんばかりに毒づき、陰湿な個人攻撃が日常に止むことはない。
 それが、例えば原発マネーの構造だ。
 つまり、原発マネーというゲームは、家庭や学校や社会全体そのものの卑しき姿の投影だと捉えるべきなのだろう。
 そして、それはライブハウスでも同じこと。



 今まさに、東京五輪の風が吹き始めた頃。
 波乱の風も希望の風も体に受けて、時代はどこへ舞い上がろうとしているのだろう。