ラビリンス

 工事現場の見張り役の中年男性に、上司らしき男が、荒々しい口調で一言尋ねた。


 「工事は何時までだ!」
 見張り役の男は、その上司風の男の横柄な物言いの言葉が耳には届いていない様子で、小走りに工事車両に近付き、通行しようとする一台のバンと通行人である僕の存在を知らせている。



 現場撤収時刻を上司らしき男が尋ねたのは、通行するバンの運転手である主婦が、夕方またこの道を通る時の為にと、前もって道路事情をリサーチし、声を掛けたからだ。


 工事現場の物々しさは、今に始まったことじゃないだろう。
 この社会の縮図というか、弱い者に当たる弱き人の心というものを思い知らされるような気持ちだ。
 僕が子供の頃からずっと、工事現場の風景って、いつもこんな感じだったなって思い出している、もう一人の僕がいる。



 古くなりかけてはいたけれど、まだまだ使えそうだったアスファルトは剥がされ、黄土色の生々しい大地が、不意に日常にその素顔を覗かせている田舎の風景。


 毎年、年が明けると一斉に始まる道路工事には、僕達国民一人一人の血税がたっぷりと注がれ、生活がカスカスに乾いていく一方で、一体誰のふところを温めているのかと、矛盾に僕はため息を洩らしている。
 工事は、二月まで続くとのことらしい。
 昨日同じように、この工事現場を通り掛かった際に、あの見張り役の男がそう僕に語り掛け、予定を前もって知らせてくれていた。
 見張り役の男は、一見随分人のいい表情をしているように思われたけれど、何か心を踏みつけられた人間特有の匂いみたいなものを同時に僕に感じさせるようでもあった。
 ある種の卑屈さと、そして強かさを同時に兼ね備えながらも、この歪んだ社会構造の中で、必死にあすへの希望を探し生きている。
 そんな風に人生のシナリオを勝手に僕は思い描き、まるで山田洋二の人間臭い映画のような世界に彷徨う、映画館の観客にでもなったかのような気分になった。


 凍てつく一月の風。
 この国は、どこへ今彷徨うのか。


 疑似体験的に、見張り役の中年男性の人生に、ふと紛れ込み、そして普段僕の感じることなき視点で、この社会を、まるで水槽に築かれた蟻の巣を観察するように、体感し始めている。










 日常は、誰が悪い訳でもなく不条理に満ちている。
 文明は、二十四時間休むことなく、生産性に乏しき営みを続ける。
 勿論、金だけはきっちりとターゲットに見据え、労働階級に厳しく、とても冷淡だ。


 当たり前の市民生活って一体何だろう。
 肩書きを持った人間が信用され、人間性なき社会。


 お天道様を騙してでも、勝ち得たい富と成功。
 幸せの意味が、糸から手が離れた、風に舞う風船のように、当てどなくて虚しい。


 人は、一体何に依存し生きるのか。
 何によって、存在を認識し、愛を感じているというのか。


 工事現場に転がった、社会的権力構造の一端の物語は続く。



 支配者層を支えるのは、働き蟻の役割を振り分けられている僕らに違いないだろう。
 消費社会の奴隷と化した、この狂った日常。


 週末には、家族連れがデパートに集まり、甘い砂糖のような品物を、飢えた心で頬張る。
 レジャーもいいけれど、トレンド操作に踊る自らの姿は見え辛く、人生の意味など与えられてはいない。
 そして、また行儀良く列へ戻り、国に仕え働くことを期待されている。
 資本主義を支え、物事を自分で考えたりしないように、学校でみっちりと洗脳されたままで。


 工事の目的について深く考えている労働者は、一体何パーセントくらいいるのだろうか。
 そして、それは世の中がこうだから、本当に仕方のないことなのだろうか。
 僕には、そう思えなくてさ。


 社会に依存し、僕らは生きざるを得ない部分が、勿論大なり小なりあるし、それが悪い訳でもないだろうけれど、罪への加担すら疑う心のアンテナだけは、失くさないでいたいと思う。


 札束に頬を叩かれ、マネーパラダイス。
 九十九パーセントよ、目覚めよ。


 競争こそが、支配者層にいる人間達のご馳走だ。
 人がその洗脳から解かれ自由になる時、この権力はもはや力を持たぬガラクタになる。


 権力を支えるのは、無知な民に押し付けられた労働だ。
 安い賃金で、骨までしゃぶられ、使い捨てられていく。


 労働階級なき支配者層の繁栄などはない。
 権力とは、民に担がれた神輿のようなもの。


 担ぎ手が降りれば、世界は回らない。



 毒に塗れた食材の並ぶ、街のマーケットの棚。
 買い支えているのは、紛れもなく僕達だ。
 システム存続を許可するは、僕ら一人一人の消費スタイルに他ならない。


 辺りに地響きを轟かせ、騒音をまき散らす工事現場に、一国の置かれた事情や庶民の意識が被さる。
 近くの家の庭に繋がれた飼い犬は、自分の縄張りに侵入し、騒音を立てる工事現場の作業員や工事車両に吠えている。
 破られた日常に、社会の素顔が不意に覗く。
 カースト制度みたいな権力の姿が。


 個は尊重などされていない。
 人権など、あってないようなもの。
 あの庭で吠え立てる飼い犬のように、無視され、いつも何かが奪われている。



 肌を突き刺す、一月の凍てついた風。


 曝け出された日常は、まるで水槽の中の蟻の巣のように、その姿を現している。
 僕らの人生に訪れる迷い道の訳を、今解き明かす時だ。


 僕は、歩道から剥き出しの大地へと足を進める。
 アスファルトなき道に、歴史ロマンの香りさえ漂う。
 飼い慣らされた暮らしには、それぞれの経緯が見え辛い。
 社会的に盲目の奴隷と化し、文明を築き上げてきた労働階級の力仕事の上に、ふん反り返っている連中の暮らしの不安定さは加速する。
 本当のことを知られ、裸の王様である自分の姿を見破られることを、酷く怖れ、あたふたしている。


 この国は、労働者の力によって動く。
 僕らの意思一つ。
 今、どんな未来を選び、辿り着くのかは。



 風の中に見た、ラビリンス。


 ありがとう。
 そして、さらば、さらばと泣いた、資本主義の黄昏。