ふりかえれば夏

 梅雨の間に青空が望めた、六月の輝ける一日。
 僕は、歩き慣れた散歩道で希望の足音を刻む。



 振り返れば、遠く故郷が見える。
 これは心象風景への心理的距離感なんだけれど、随分この旅も遠く歩いて来たものだと、感慨に浸り込んでいる。


 頬に当たる風は優しい。
 こんなにも時代は苦しみや悲しみを抱えているけれど、浄化されていく全てに慈しみの眼差しを持ち愛すれば、問題はあってないようなものだと思うんだ。
 だけど、社会的な事柄に手をこまねいて大丈夫だなんて無責任に言ってるのとは、勿論違うよ。
 自分なりに一生懸命だから、後は天に任せて、生かされている今日の奇跡に感謝したいんだ。


 言葉で思いを伝えたり、文章にしたり。
 歌を作ってみたり、ライブで皆の顔を見ながら歌ったり。


 原発や九条。
 伝えたいことは一杯ある。
 今はこのまま、今日を黙って歌っていよう。


 僕にとって、歌はやっぱり特別なものだよ。
 擦れ違いの街に生まれ落ちて、誤解と偏見に満ちた生存競争に脅えながら、生きる術として手に入れた大切な宝物さ。
 思想的なことって言葉にしてしまうと、もう既に冷めかけのスープのようで、愛情という名の調味料が何だか足りないような気持ちになってしまう。
 その点、歌は最高だ。
 思想を理屈にして語る自らのヤボさをカットした、実によく出来たカロリーオフのダイエットフーズのようさ。
 詞になった個人的心象風景が、永遠の時を刻み、ロックンロールが輝いている。
 だから、歌は希望だ。
 心の隔たりを埋め、人と人とを結びつけ、だけど本当はただ、ナチュラルな自分にそれぞれが戻っただけなんだろうと、いつもそんな経験をするような時には、そう思う。



 田舎道の頭上には太陽が輝き、夏本番さながらのかんろくを見せつけている。
 そして風が止んだ一瞬、遠い少年時代の記憶に意識は何故か遡る。
 ジメジメしている蒸し暑さの中に、何となく記憶の信号に触れるような爽やかな夏の成分が漂っていてさ。
 昔のカラッとした、あの愛しい夏の面影よ。


 皆、元気かい?


 高度経済成長以前の、自然の調和がまだ保たれていた環境。
 東京五輪にも夢が見れた、あの頃。
 勿論、僕が生まれるよりもずっと前の話なんだけど、僕が少年時代を生きた八十年代という時代を包んだ空気の中に、何となく僕の知らない時代へと繋がるノスタルジーを感じ取っていたんだと思う。
 感覚として、空気には時代の情報を閉じ込めてある、一種の電気信号を発するような要素がある気がする。
 それは地球のDNAにプラグを繋いで、過去の情報をダウンロードするようなものかな。


 憲法九条の解釈に揺れる社会。
 善良な人々の無関心さにしらけた日常。
 暮らしが傾き、大きな代償を支払うまでは、きっと気付けぬものなのだろう。
 それならそれで仕方がない。
 落ちる所まで落ちてみるだけさ。
 責任は必ず僕らにあり、いつかは誰もがそいつを引き受けなくちゃならなくなる。
 それが、きっと本当の意味での成長だし、大人になるってことだと思う。



 僕の心は、気が付くと中二の夏を彷徨っていた。
 奈良の親戚宅に一週間くらい泊まり、日常を離れ、とても楽しかった想い出に、そっと手を伸ばしてみる。
 見知らぬ駅のホームで電車を乗り継ぐ僕ら。
 姉やいとこや奈良の親戚の顔が、どこかの庭の綺麗な紫陽花に重なって、心に想い出の花を咲かせている。
 あの旅は、たぶん生まれてから一番実家を長く離れた経験だった気がする。
 大好きだったミュージシャンの歌を心のポケットに入れて、僕はその温もりを頼りに、見知らぬ土地を旅していた。
 勿論、姉や親戚に囲まれていたんだけれど、凄く心細がっている、僕の知らない、もう一人の僕が不意に姿を現したんだ。
 僕は、その異変にずっと無自覚のままだった気もするし、本当は深く気付き、何かに心の中で直面し始めていたような気もする。
 日常という囲いがある日なくなった時、人はあまりにも無防備な自分へと、一瞬原点回帰することがあるのだろう。
 魂が、ずっと震えていてさ。
 そいつを自覚させる全てのものを人は遠ざけながら、日常という囲いで自分をある意味守っているんだと思う。
 それが、3.11以後の世界での価値観の変化の波音に脅える人々の心に起きてきた現象へと、象徴的に置き換えられていく。
 僕はそのことに気付いた時、思わずハッとした。
 善良な人々の無関心さの意味が、そこにはっきりと浮かび上がり、古い現実への執着が手放せない一つの答えとして、真実を告げているように思えたから。
 囲いなき日常の中でいがみ合うのは、不安や迷いや怒りといった感情を持て余し、ガス抜きという自浄作用に他ならなかったのだろう。
 囲いなき自由さを怖れ、自分の心の深い部分で感じている真実に目を覆い、逃げ惑う人々。
 本当は幸せになっていいって、自分が自分に許可を与えてやれば済むというだけの話なのかもしれない。
 価値観という名の古い囲いが消えてなくなってしまった、今日の現実の中で。


 僕は奈良の親戚宅に滞在中に、大切な人生の教訓を与えてもらっていたのかもしれない。
 日常という囲いを飛び出して、様々なことが新鮮でもあり、そして不安でもあった気がする。
 何だか大げさな話にしたい訳じゃないんだけど、3.11をきっかけに自浄作用を起こしているような今日を見つめている。
 慣れ親しんだ現実が消え、自らのソウルの振動数に意識がチューニングされ、心の中で本当の気持ちに出会い、真実に直面する。
 そういった出来事の象徴的体験として、中二の夏がふと僕の記憶に浮上してきた気がした。
 きっと、体験した一つ一つの細かな出来事が大切なのではなくて、重しの消えた心が、宇宙に登るように魂の振動数と一致し、日常のバイアスから抜けたことに意味があるんだ。
 遊びに行った万博会場のブースでは、ロックが大音量でけたたましく鳴り響いていたことを印象深く思い出す。
 僕は、その時とっても強い不安を覚えたんだ。
 あれは、今思えば日常というバイアスがロックの大音量によって破られ、野生の僕が目を覚ました一瞬だった気がする。
 その自由さが、僕はとても怖かったんだ。
 余りにも自分を既に失い過ぎていた、あの頃の僕が、記憶の中でポツンと立ち往生して、とても寂しく孤独な瞳で、今の僕を見てる。



 人は時代の節目に立たされ、まるであの日の僕みたいに立ち往生している。
 蒸し暑い梅雨の合間の晴れた一日に、そんな真実がそっと空から僕を覗いて、心の扉をノックしていたんだ。