主権

 食卓に並んだディナーは、畑で採れたてのものばかりだ。



 スーパーマーケットとは、どんどん縁遠くなっていく僕の日常。
 その訳は、やっぱり生産者の顔が見えない商業ペースの流通への不信感が、まず僕の中での今一番大きな問題になっていた。
 大企業はやがて消費者への誠意を失っていくというのは、いつの時代も同じようなことがあって、人の悲しい性とでも言えばいいものだったのだろうか。
 出世するまではいい人だったのに、それから横暴になっていくという話は、いつの世も同じこと。
 そんな話ならたくさん聞いてきたけれど、現代も御多忙に洩れず、発展してきたものが衰退の運命を辿っている。
 創始者の礎作りに懸ける意気込みや情熱は本物だったに違いない。
 そして、後継者へとバトンが渡されていく内に、企業理念なんてどこへやらとなり、大量生産、大量消費という資本主義の生存競争の渦に巻き込まれ、人は大切な何かを見失ってきた。
 その結果、僕の目の前に広がる食卓の風景は、いつの間にかこんな風に様変わりしてきたって訳だ。


 大量の農薬に塗れた、命にとってとてもリスキーな食品が街のスーパーマーケットの棚に毎日陳列されている。
 果物なんて、とっても美味しそうにピカピカ光って見栄えはいいけれど、ワックス塗れで、消費者の為のサービスという視点ではなく、いかに消費してもらうかという企業利益を目的とした思想が、そこには確固として存在していたのだろう。
 そして、集団的自衛権という名前を装った戦争やろうぜパラノイアを患っている政府の今の姿もまた、そんなノリにとても似ていると僕は思うんだ。
 憲法九条は、どういった経緯であれ、第二次世界大戦での多くの犠牲者の背負った悲しい運命や悲劇の中で生まれた一つの教訓といっていいものなのではないだろうか。
 それがたとえアメリカから押し付けられた、建て前上の憲法であったとしても、実に平和的で素晴らしいものだと思う。
 いや。
 寧ろ、建て前上であったからこそ、人類にとっての本当の理想というものを素直に憲法として言葉にしてしまったということなのかもしれない。
 第二次大戦後というどさくさに塗れて、思わず洩らした本音や理想は、実に崇高な誓いの言葉として、まるで人の心に神が宿ったかのような輝きで、現代に受け継がれてきたということだろうか。
 どういった政治的目的があったにしても、とにかくこの憲法は美しい響きを湛え、素晴らしいと僕は思う。
 僕が、ロックで目指しているユートピアはもう既にここに謳われてきていたじゃないか。
 改めて、そんな感慨に浸っている。



 僕はこの夏、さらば資本主義というアコースティックミニライブを続けていくつもりだった。
 ロックンロールが死に絶えたと言われる現代で、何だか場違いな色を放ちながらも、自分は自分でしかいられず、僕は不器用にそのスタイルを曲げることなく、今日を歌い続けている。
 民衆の声はLOVE LOVE LOVEって曲がある。
 これは、アルバム「さらば資本主義」の冒頭を飾る曲として作ったものだった。
 紫陽花革命のことを歌っているんだけど、個人的なデモをやってるようなロックナンバーだ。
 3.11以前の社会で、僕ら日本人は平和な島国に生まれ育ち、デモなんて本当に縁遠く、異国の出来事としてニュースで漠然と映像を観る程度にしか馴染みのないことだったように思う。
 そんな僕らが、実際にデモだの反戦だの叫ばざるを得なくなり、当事者になってみて初めて気付くことばかりの日常だったように思う。


 晴天の霹靂のような、3.11。
 平和だった日常がその時一瞬で崩れ、戦後の繁栄の意味を誰もが問い直さざるを得ない現実に直面してきた。
 皆、そんな風に感じているだなんて思ってはいないけれど、少なくとも僕にとっては、そうだったって思っている。
 デモで世界は変わるかと言われたら、直接的にはNOかもしれないと思うけれど、デモはやっぱり意思表示として必要だと思うし、何よりも自分の意識や魂をより覚醒させ、感覚を磨くのにとても役立つように思っている。
 そして、毎日の中で次に何をし、どこへ自分は向かうべきなのかという答えを運んできてくれる気がする。


 政権はいつの時代も、民衆に担がれた神輿みたいなものだって僕は思う。
 皆がもう嫌だから止めたと言って手を離せば、地に落ち、その力を失うというのが本当だろうと思う。
 その手を離させないように食い止めるのに使うのが、人の心の中に眠っている恐怖心だ。
 新興宗教と手法は同じだろうと思う。
 不安に駆られた人々は、先導され、マリオネットみたいに悲しくも操られていくというのが、今迄の社会構造だった。
 そして、インターネットが普及した現代では、その社会構造に亀裂が入り、真実を情報として受け取った民衆が自発的に生きることを覚え、恐怖政治で縛り続けることが出来なくなった。
 それは丁度、子供の頃早く寝ないと鬼がやって来るって脅し文句で子供の行動を操作した大人の手法の嘘を子供に見抜かれ、役に立たなくなったようなことに似ている。
 民衆が成熟してきたという事実を、インターネット社会の出現は物語っていたのだろうと思う。
 意識がまず在り、そしてそれが現実世界を生み出しているって僕は感じる。
 だから、政府の暴走すらも民衆の生き方や価値観の変化で軌道修正は可能という結論が導き出されることになる。
 普段思い理解していることは行動に現れる筈だから、結局僕らの信念からの行動が世界を動かしているということになるのだろう。
 これは、文字としての絵空事などではなくて、アクションとしての現実に直結した世界の話だということになる。


 消費者目線を忘れた食の流通。
 民意を蚊帳の外に置いた現政権の暴走。


 それらにNOを突きつけ、自分の生きる権利を守り立ち上がる勇気が欲しい。
 それが、僕にとってはロックンロールだったりする。
 無関心というのが一番良くないって思うんだ。
 自分の権利をどこかに預けて自立しないままっていうのは、やっぱり不健全な話ということに結果的になってくるように思う。
 恐怖政治の洗脳にかけられ、自立する自由への怖れや不安から心が疲弊している姿が、無関心社会である現代の本質的姿だろうと思う。


 昔、ビートルズが来日して初の武道館ライブをした時、自由を求め熱狂する若者と、不道徳なものとして位置付け嫌った大人がいたように、社会構造がそんな人々の道徳心や価値観すら生み出させ、計算された反応によってこの世界は回ってきたんじゃないかなと想像するのは、この情報化社会に於いては割合容易いことのように思う。



 デパートの品質に物を言う消費行動に責任を持とう。
 簡単、便利に飼い慣らされ過ぎた日常に、命を守るセーフティーネットを築くのは、そんな僕らの消費者意識の向上に違いない。
 だけど、そんな手間暇の掛かることこそ、本当は人が生きるという姿だったんじゃないかなって思うんだ。
 子育て一つ取ってみたって、母親が託児所に幼い子供を残して仕事をしなければ生活が出来ないような社会なんて、本当の意味で貧しいように思うし、先進国の姿としてとても似つかわしくないように思う。
 劣悪な労働環境とか、日々の生活のこととか。
 それらに物を言う消費者行動について考え、行動を起こしていくべき時に違いないだろう。
 行動を司っているのは意識だ。
 意識が変われば行動が変わり、行動が変われば、どでかい資本主義社会にも影響を与えることが出来て、民衆の理想は実現することになる。
 だから、僕らが自分の生きる権利について深く知り、行動し続けることからしか、この世界に平和を築く術はないということなのだろう。