純
土曜日の午後、きららカフェの扉をくぐる。
季節は少しずつ秋に色付き始め、過ごし易い街の風が気持ち良かった。
九月も気付けば中旬を過ぎ、夏はもう何処へやらといった毎日だった。
今年の冬は記録的な寒さだと、予報が伝えられていた。
僕は、週一くらいのペースで、このカフェのマスターとフレンチトーストライブを行うのが、とても楽しみな毎日を送っていた。
ただ、純粋に音楽に触れていられるような時間。
それが、僕の人生の中での生の時間だった。
三時頃からコーヒーでも飲んで、その内カフェのギターを手に取り歌い出す。
カントリーライフはこうでなくちゃって、僕は資本主義とは一線を引いた世界で、ロックを愛し続けていた。
マスターはカホンやドラムをいつもとても楽しそうに叩いた。
アコースティックユニットとして春に結成したフレンチトーストは、何度もライブを重ねている内に、もうすっかり息がぴったりになってきていた。
僕が出すリズムやトーンに対して、演奏の微妙なフィーリングまで拾い、応えてくれているマスターの姿があった。
夢中で演奏しているマスターを見る度、この人は本当に音楽が好きなんだなと思った。
純。
あるのはただそれだけで、音楽とのいい時間だけが生まれては、人生の中を過ぎ去っていった。
先月ピアノでフレンチトーストに加わってくれた彼女とは、メールでやり取りをしていて、この日のライブのことを伝えておいた。
だから、もしかしたら時間に余裕があればカフェにやって来てくれることもあるかもしれないなと思っていた。
カフェに着くなり、奥の部屋にその彼女が来ているって、マスターが教えてくれた。
僕の感は見事に的中だった。
ピアノの彼女としっかり話したのは、この日が初めてだった。
彼女の送って来た音楽との人生のドラマの一端に耳を傾けた。
彼女自身も商業音楽との葛藤を乗り越えての今があるようで、なかなか興味深い話だと思った。
だから、彼女のピアノの響きの中にガツガツとした感じがなくて、僕の音楽との相性も悪くないんだろうなって思い当たることが一杯あった。
たぶん、先月のセッションのノリが合っていたから、次も何か音楽を通して一緒に生み出せるものがあるかもしれないと考えていた。
だから、また会えたことが嬉しかった。
話の途中で、中国では結構有名なのなんていったエピソードも聞かせてくれた。
作った曲が海外では一人歩きをしているようだった。
自宅で開いているピアノ教室に通って来ている子供が、たまたま彼女の名前が作曲者としてクレジットされているものを見つけ、先生と同じ名前だと言って来たので、本人であることを告げた。
だけど、中国で有名でもなみたいなことを言われるのだそうで、そんな話を冗談にして笑っていた。
長い間、体のトラブルからピアノを思うように弾くことが出来ずにいたという話には、同じミュージシャンとして胸が痛んだ。
彼女の話に耳を傾けながら、人生に訪れた悲しみが楽器なんかの音色を美しく透明に輝かせていくのだろうなということに思い当たるような気分だった。
カフェで暫く話した後、来週また会う約束をしてから、彼女は次の予定があり帰って行った。
間もなく、フレンチトーストのささやかなステージは始まった。
この日、ドラマ―としてカフェの御近所に住む少年が加わってくれていた。
さすがにいきなりのセッションということで、僕も不慣れなこともあり、曲によってはビートが上手く噛み合わず、少年やマスターもやり辛かっただろうなと後で思った。
歌の方は軽く流す感じにして、少年ドラマ―との初々しいセッションの時を楽しませてもらった。
それでも、少年と初めてやったセッションにしては上出来だったと、録画しておいた映像を観て、そう思った。
少年のお父さんもドラマ―で、その血を受け継いで、いい音楽人生を歩んで欲しいなと思った。
そして、何よりも言葉がなくても音楽が人と人の心の何処かを繋げてくれていることが嬉しかった。
本当に心が近付くような瞬間なんて、僕らの抱えた毎日の暮らしの中では、なかなかないものなのかもしれないと思った。
上手くビートが噛み合わなかったことの中にも、人生の大切な教訓がある。
僕はそう考えていた。
自分のビートと他人のビートのズレを埋めていく過程にも、愛の学びがあり、自立や思いやりの精神を体得する道すらあるのだから。
少年との初のセッションを数曲やって、次はマスターとまたいつものスタイルでのフレンチトーストライブのコーナーに戻った。
そんな感じで歌っていると、今度はまた別の女性が店に向かっているとの知らせが入る。
その彼女ともカフェに御縁を貰い、出会っていた。
じゃあ、彼女がやって来たら再度ミニライブをしようという流れになり、暫く休憩を取った。
そして、予定通りに彼女がカフェに姿を現した。
挨拶をしてから暫く話して、ライブを聴いてもらった。
彼女に歌を聴いてもらうのは初めてのことだった。
フリマを企画しているから、そこでライブをやってと話を持って来てくれたので、有難く引き受けさせてもらうことにした。
彼女は自身のブログでも集団的自衛権の問題に触れていて、僕はそういった主張をしてくれている生き方が好きだった。
多くの人は、社会的立場を守り、意見を言う事なく、傍観するばかりだった。
今何もアクションを起こさないということは、戦地へ子供をやることに賛成したことと結果的には同じだった。
体制側は、大衆の持つ恐怖心を煽って、戦争を企てている。
徴兵制と自衛隊との大きな違いについて、はっきり認識しなければ駄目だと僕は思っていた。
権力を使って、戦地へ行けと命令するような権限など、誰が持つべきでもない。
如何なる理由があろうとも、あくまでも自衛に徹し、人間の尊厳を踏みにじる馬鹿な真似だけは絶対に許してはいけない。
それが僕の変わらぬ主張だった。
僕に自衛権に対する権限があったならば、やっぱり賛成派の人から戦地へどうぞと言いたかった。
他国からの侵略は勿論恐ろしい話だけれど、恐怖心に捉われ、武装へと強固に凝り固まって行くことが平和への道なのだろうか。
大きな武力を持てば、相手もまたそうするだろう。
それが、二十世紀までの繰り返されてきた人類の辿った争いの悲劇ではなかったのか。
だから、恐怖心をベースに身構えて行く生き方には、僕は強い疑問を持っていた。
隣国に対し、愛のメッセージこそ届けるべきものだろう。
それをしないで相手が悪いからでは、この世界はいつまで経っても成熟しない。
隣国が幼いと思うのであれば、余計に大人として何をし、行動するのかを示すべきなのではないか。
それが、愛と自由の世界への入り口だと僕は信じていた。
彼女が誘ってくれたフリマでのライブは、さらば資本主義というタイトルを掲げ、そういった思いを込めて歌ってみようと、その日の夜、そう思った。
カフェには憩いと、新しい時代を形作る人と人との横に広がる繋がりが日々生まれているようだった。
資本主義的な発展に限界を僕は強く感じていて、音楽の在り方もそれは同じで、商業ベースにロックは既に納まり切れるものではないと思った。
いや。
初めからロックは資本主義とは反りが合うものではなかったと考えていたというべきだったのだろう。
何も深く物事について考えさせないで、ただノリの良い資本主義のリズムを打ち続けることが、いつの間にかロックの宿命であるかのようにすり替えられていった世界の片隅で、僕はこれからどこへ向かって歩いてゆくべきなのだろう。
そんなことをよく考えてみるけれど、結論はいつも、ただ純粋に音楽を生み出し歌っていくだけだという答えが一つ残るだけだった。
フリマにしても、結局は人の手間暇の掛かった手作りに需要が傾いていて、大量生産、大量消費の時代ではなく、これからは本物しか生き残れない時代なのだろうと僕は思っていた。
ミュージシャンの場合だと、レコード会社に所属して大掛かりなプロモーションを流し、虚飾の世界でイメージを売ることは難しい時代の到来を感じてならなかった。
そして、本当のことを伝えようとする歌だけが、時のヤスリにかけられても存在し続けることが出来るだろうと思った。
僕は、一時代の一瞬を瞬くように消費されていく音楽を作ることに強い抵抗を覚えた。
勿論、時代の一瞬であっても人々から必要とされる音楽を生み出すことですら、とても難しいことではあったのだけれど。
だけど、ここ数年、僕の中で感じられる時代の流れや、僕自身のミュージシャンとしての進むべき方向性が、より明確に掴み取れるようになってきていることは確かなことだった。
この社会で成功することの本当の意味って、一体何だろう。
人の暮らしが辿り着くべき本当の幸せって何なのかな。
福島での原発事故があってからは特に、サクセスすることの意味すらメッキリ色褪せてゆくようで、人生の中でのリアリティーを保つ事が不可能になってきたように強く感じられてならなかった。
僕は、芸能界では生きていけない人間だとそう思ってきた。
僕の音楽が音楽でいられない世界だと感じていたからだ。
勿論、悪い事ばかりではなかったと思うのだけれど、僕が闘って来たのは、資本主義や時代という獲物に対してだった。
そして、過去の成功体験をなぞることに限界が生じた、荒れ果てたこの世界で、僕はまだふところに音楽を抱え、情熱が絶えることはなかった。
様々な人との出会いがある。
僕は、カフェという街の日常の風景や当たり前のような暮らしに、本物の音楽だけを探し、今日をロックンロールしている。
この世という名の欲望の泥沼で、汚れなき一輪の蓮の花を咲かせてみたい。
ロックよ。
どうか、まっ白で純な人の気持ちをいつまでも守り続ける魂の糧となり、遠い未来で待つ誰かの為に、この胸の叫びを届けて欲しい。