空想の神
例えば、人の親になったからといって、本当の意味で親になることが出来る人間は、全体の何パーセントくらいだったのだろう。
教科書通りに生きて、自分らしさを見失わずにいられる人の数って、どれくらいいたのだろう。
一体何をもって、人としての正しさや間違いが示され、僕らは毎日褒められたり、裁かれたりしているのだろう。
この街の暮らしも、日々刻々と変化してゆく。
この頃じゃあ、日本で稼いで、物価の安い台湾辺りで暫く暮らすなんてライフスタイルを取る人達だっている。
崩壊した終身雇用制度。
仕事が本当に自分にとってやり甲斐のあるものだと感じ暮らしている人の数って、どれほどいるのか。
何かの為に自分の心を犠牲にした分、社会に充満していた不満とストレスが存在しているようで、そんな問題を克服していく為に、今この世の中にはどんなことが必要なのだろうか。
朝の満員電車にすし詰めの人々は、決まって不機嫌で、愛想もなければ、譲り合いの心さえも失くしているような現代。
最近じゃあ、毎日のように子供を虐待する親の姿が報じられるニュースが飛び交い、公園ではしゃぐ子供の声がうるさいと迷惑条例での取り締まりをしろとの、公園付近に暮らす住民からの苦情さえあると耳にしていた。
この異常にストレスフルな社会は、極限の緊張を抱え、まるで皆しらけたムードを何とか繕っては、また演じたくもない現実の中に呑み込まれ、足掻いているようだった。
毒母なんて言葉が流行り、子供を将来への安心を得る為の投資物にしてしまっていた母親の話もあった。
きっと、そんな話の元の根を探って行けば、自分の気持ちを偽り、社会に従順に従うことで犠牲になった人々の人生があったのだと感じていた。
ごらんよ。
管理教育の中でまともにやって来たように見える、エリートと呼ばれる多くの人々の今日の暴走を。
何かを犠牲にして奪い合いのゲームに勝利して来たけれど、もう世の中が変わっていて上手くいきもしない。
だから、自分に酷く腹を立てて、いつも怒っているんだ。
それが、世の中の多くの人々の抱えていた不機嫌さの正体なんだよ。
そして、いつも他人を責めては、物事が上手く進められない言い訳ばかりを探しているんだ。
親が自分の子供を虐待するなんて例は、その最たるものだよ。
人はか弱いものだと言ってしまっては、どうしようもない話になってしまう。
朝から不機嫌なのが普通だなんて、そんな社会は本当は不健全過ぎて、恐ろしい話だと思う。
完全なんてことは絶対にこの世界には存在していないけれど、ある程度自分に納得した人生を送っているのであれば、自然と微笑みは零れ、他人への思いやりだって、自分の胸の内に温かく込み上げて来るものなんじゃないかな。
かといって、僕だってその辺は出来た人間じゃないから、人に偉そうなことは言えないのだけれど。
だけど、あまりにも悲惨なニュースの多い今のこの暮らしを見ていると、思わずそんな言葉を吐きたくもなってくる。
自分を守り、社会的にいい人でいる為に、こういった話には口をつぐむことも出来るけれど、それじゃあ何だか僕自身が偽善者みたいで、許せない気持ちになってくる。
僕は、本当は人はみな神なんだと思っている。
何か宗教の話だと勘違いされたくないけれど、心の内には誰しも、神の存在があるのだと思う。
そして、人はどんなに他人を上手く騙すことが出来ようとも、自らの心だけは決して誰も騙せず、嘘は全てお見通しなことは事実だろう。
昔は、お天道様に恥じない生き方をなんて言われていたけれど、太陽って、まるで神の象徴であるかのようだ。
いつも燦々と輝き、万物にみな平等に光を届けてくれている。
それは無条件であり、丸ごと愛の塊みたいだ。
この社会に、そういった信仰心がなくなってしまったことが悲しかった。
自分がもしも神様だったらって、想像してごらんよ。
悪意に満ちた人生を、誰が何によってとがめる訳でもなく、人はみな神様だとしたら、自分で自分の卑しき心を許せないという心境に至るような気がする。
信仰心を忘れないでいることって、つまり、いつも心に太陽をとか、自分のマインドの中にある神様の部分と繋がって、人は幸せに生きるべきだという教えみたいなものの大切さを知っているということのような気がする。
そして、それが本来人が生きる道なんだと思う。
物質信仰の犯した過ちというものが、現代には割れたガラス片のように散乱していた。
路上にルールは消え、それらの悲しみという名の狂気が、日常的に人々を互いに争わせ、傷つけ合わせてしまっていた。
愛は、きっと育んでゆくものだろう。
誰かと趣味が同じだから仲良しになれるという保証などないように、互いに見つめているものが違っていたとしても、許容したり尊重することが出来たならば、何も問題は生まれず、きっと真の平和というものさえ実現出来る気がする。
尊び合う心って、自己がまずちゃんと確立されている者同士が出会って、そこで初めて成立するような性質のものなのかなと思う。
それが、本当の友情だったり、相手への深き尊敬の念にまで至る可能性の粒子のような気がしていた。
気が合うからで簡単に始まった関係は、実は本当はとても脆かったなんて経験は幾らでもある。
例えば、互いに好きなアイドルタレントがいたとして、すぐに息統合したとしても、深く交わっていく内に、見ている視点が全く違っていたことに気付く。
若き日の恋愛なんかにも通じるような話で、多様性を認め合えた方が、人は精神的に豊かであり、安定した幸せを見つけられる可能性が高いものなのかもしれない。
時代は、社会から個人へと押しつけられた不条理への対処を、毎日僕らに迫っていた。
社会的弱者へと向かう、人の心の中の動猛な狂気。
他人の欠点や至らなさには、素早く批判の言葉の矢を放つ。
素晴らしいもの、優れたものに素直な称賛を向ける人は減っているように見えて、人は自尊心を他人とのレースの中で培い、卑屈になってしまっているように見えた。
だけど、人がもしもみな神様だとしたら、鎧の下で歪めた素顔の全てをお見通しなのは、まさに自分自身でしかない。
それが、天に唾を吐けば己に掛かるという言葉の持つ、この世界での普遍的真理のことだったのだろう。
勿論、タイムラグのある世界の話だと思う。
すぐには何もなくて、悪人ほど生き易いようなルーズなこの街だから、死ぬまで勝ち組でいることだって可能だったのだろう。
毎日は露骨で、人の心を包み隠してきたベールも消えて、本性が剥き出しになっていた。
タイタニック号でいうと、沈没すると分かり掛けていて、人々は半狂乱になってきている場面と重なるだろうか。
土壇場こそ、人間の本当の姿が見えるものなのだろう。
空想の中の神様が、僕をじっと見ている。
お前は何を信じ、何に従い生きているのかと尋ねるような眼差しで。
権力を握り、金の力に物を言わせ、社会的弱者を踏みつけにして生きることだって可能な世界。
だからこそ、人間の本性が浮き彫りとなり、試されているような気がする。
僕は、たとえこの世界で敗れたとしても、空想の神がその表情に微笑みを浮かべてくれるような人生を、自らの意思で強く勝ち取りたい。
それだけが、本当の価値だと思っているし、自分のその気持ちを裏切らないような生き方をしたい。
誰に認めてもらうという訳でもなく、ただまっすぐに。
世界を否定する気持ちと、世界をあるがままに受け止め、愛そうとする気持ち。
きっと、そのどちらもが本当で、僕は世界への疑心と愛の狭間を、いつもまるで行ったり来たりしているみたいだ。
この世界は、いつも無差別という名の不条理に満ち満ちて染まっていた。
たとえ絶望し、嘆きながら天を見上げ待っていても、神様からの救いの手は伸びては来ない。
神にその存在の証明を求めたり、何かを試すようなことを人はするべきではないように僕は思っていた。
神を自分の外側の世界にもしも発見出来るのであれば、きっと人はこの世界に生まれ生きる意味は、さほどなかったのではないかと思う。
証明出来ない存在だからこそ、自分の生きる姿勢で神に応えるまで、人間は信仰心を忘れず、切磋琢磨して、自らが神に近付くより仕方がない。
本当の魂の救済は、そんな生き様の中に生まれるもののような気がした。
徐々に次元は分裂してゆくかのようだ。
無差別から差別化されてゆくような次元の移行。
現実は幾層ものリアリティーを同時に纏い、それぞれの信念により隔てられているかのようだ。
次元毎の世界で、意識の隔たりが大きくなっていくほど、まるで互いに交わる術を失くしてゆくかのようだ。
僕は時々、歌えば歌うほどに一人ぼっちになってゆくような感覚に襲われることがあった。
そして、それでも僕を立ち止まらせないでいたのは、明らかに信仰心だった。
不動の心の核に息づくであろうもの。
それが僕にとっての、永遠を奏でる音楽だった気がする。
空想の中に現れる神。
僕には、それが聴こえるんだ。