万華鏡
僕の見つめる世界は、まるで万華鏡のように形を変えてゆくよ。
機嫌のいい人や悪い人。
プライベートな話題をオープンに話す人もいるし、いつも他人に身構えていて、本心がどこにあるのか掴めないような雰囲気の人もいる。
一体、話の根拠がどこにあるのか分からないような女性週刊誌の記事を斜め読みする程度にしか、きっと本当は、僕らには他人の背負っている人生の重みなんて分からないものなのかもしれない。
リッチなセレブの暮らしに憧れの眼差しを向ける人々。
例えば、こんな切り口で一つの現実に焦点を合わせてみる。
有名人並みの名声を得た人物。
果たしてその人は、本当に世間が羨んでいる程に幸せを感じているのだろうか。
高級車を乗り回し、だがいつも誰かから妬まれたり、企業経営者ならば、会社の命運を分けるような仕事に神経をすり潰しているかもしれない。
ましてや有名なだけに、いつもどこにいても、人からの干渉を受け、ある事ない事噂されては、他人からの心なき裁きを受けているかもしない。
だから結局は、その立場毎の辛さって、やっぱりあると思う。
ようは何が言いたいのかというと、人はやはり平等なのだという話だ。
皆、きっとそれぞれに幸福を今持ち合わせている筈の人生。
だけど、人は悲しいかな、今あるものには、そんなに価値を感じられない部分があるように思う。
健康な時には、それが当たり前になってしまいがちだし、生きていること自体、何だか当たり前になってしまっているよ。
でも、本当はそうじゃないのだろう。
それが奇跡なのだと思う。
じゃあ、今日という日が恵まれていて、鼻から空気を吸うことの出来る今の有り難味について、もう少し意識的になって幸せを感じてみようか。
一緒に人生を歩く家族や仲間がいる。
それだって、相当の幸せだ。
家があり、雨風を凌いでくれる。
勿論、それだってラッキーな話ということになるだろう。
そう考えていくと、僕らは大抵皆幸せ者だ。
かといって、自分の不幸を口にする人がいたとして、その人に対して、訳知り顔をして感謝が足りないのがいけないなどと言って、人を裁くのは好きじゃないかな。
人はみな、発展途上中の神だから、至らないのは皆同じ事。
毎日誰かに迷惑を掛けては、それでも自分なりに頑張って生きているのが人だろうか。
二〇一五年が明けて感じていたのは、他人へのバッシングの異常な高まりについてだった。
それは、いわば集団リンチ並の激しさで、日常的な不満やストレスが当たり易い者へと向かう、この社会の縮図に思えて、とても感慨深い気持ちになった。
もしも、バッシングしている対象が自分の友達だったとしたら、本当にそこまで叩いたのだろうかなんて想像していた。
特にネット社会では、リアルな対象ではない分、やっぱり過度に批判が高まっていくような傾向を覚えた。
何か公平ではないような、理不尽な感覚。
人が怒る時って、やっぱり本当のことがよく見えなくて、思い込みと、一時の感情の高まりなんかに任せてしまいがちだって気がする。
勿論、僕も含めての話で、物事の全体像への把握が足りていないことから苛立ち、ついつい他人に対して批判的な気持ちに陥ってしまうような気がする。
この世界は、まるで万華鏡みたいだ。
たった一つの模様を見て、人々はそれぞれに、その模様が描かれたストーリーを勝手に想像しているような所って、やっぱりあると思う。
それが本当かどうか、正確には誰にも分からないことなのかもしれない。
例えば、有名人並みに名声を得た、億ション住まいのセレブの抱えた苦悩がどんなものなのか、誰もその境遇を本当には理解出来ないのと同じように。
また誰かが万華鏡を振って、新しい模様を覗き込んでは、自分の持つイメージを、模様誕生までのストーリーに重ねるように、様々なジャッジメントを繰り返している。