HUNTER




   HUNTER


 春一番が吹いた日。
 僕は、季節の移り変わりの知らせを、遅ればせながらふと耳にした。



 街の営みは、今日も当たり前に続いてゆくよ。
 三月ともなれば、日中、日によっては完璧な春の彩りに生命が沸き立つ。
 ライブ中心の生活をしていた僕も、そろそろ最近の気持ちを曲にしようと思い立ち、ICレコーダーに鼻歌としてストックしていた曲を、チェックし易いようパソコンにデータを差し替え、順番にファイルをクリックして聴いてゆく。
 今、凄く形に残しておきたいアルバムのコンセプトが幾つかあった。
 だけど、限られた人生の中で時間が足りないという物理的問題にぶつかる。
 そして、そうしている間にも時代は姿を既に変えてゆく。


 僕は、アルバムという形態をまだ大切にしていたかった。
 聴く人がいなくても、まず自分の為に必要だったのだと思う。
 アルバムといっても、宅録アコースティックギター一本で歌うデモ音源でしかなかったのだけど。
 昔作ったアルバムは、街のスタジオを借りて、ハイクオリティーな音で作ることが出来た。
 バンドも入り、弾き語りとはまるで違うロックの化け物へと曲が生まれ変わっていくというような体験で、僕にとって初めての大切なレコーディングの想い出だった。
 古くは、まだ高校に通っていた頃作った曲もあり、十代から二十代初めの自分に出会うことの出来る作品だった。
 メロディーを呟く時の感情の抑揚にも、当時の意識が宿り、エネルギーとして感じ、リアルに思い出すことが出来た。


 真冬は、家でこたつに入ると、部屋の寒さに曲を作る意欲にも陰りが出ていた。
 動物は冬眠するし、人もまた同じだなと思った。
 春先にもなれば、今度は放っておいても勝手に何かしたくなって来る。
 雪解けの山に暮らすクマみたいに、これは自然なことかな、なんて心で呟きながら、新作アルバムの制作に取り掛かった。
 特に残しておきたいコンセプトが二つあり、更にその中の一つにターゲットを絞り込んだ。
 また今年もカフェで突然歌ったりしながら、アルバムを仕上げていくのだろう。



 そんな風に過ごしていた二月のある日。
 カフェで一月にあったライブに来てくれていた女性から連絡が入る。
 ライブのあった日に、僕のフレンチトーストとしての演奏を聴いてくれた彼女が、僕の方に声を掛けて来てくれた。
 暫く話した後、今後も繋がっていきましょうということで、お互いに携帯の番号を交換していたので、わざわざ連絡を取って来てくれた。
 僕のCDを聴き、本も読んでくれて、ライブも楽しんでくれたとのことだった。
 早速、またカフェで会いましょうという話になる。


 土曜日。
 約束の時間は、午後二時頃。
 二時前に彼女から野暮用が入ったと電話連絡が入る。
 僕らは、その用事が終わってから会った。
 僕の方もカントリーライフのラフなノリなので、カフェでまったりしていた。
 家から、一応いつでも歌えるようにと、ギブソンJ-45も持参していた。


 やがて、カフェテラスに姿を現した彼女が、店の扉を開け、一月のライブ以来の再会となった。
 まだ、一度会っただけの彼女は、初め本人かさえ分からなかった。
 ちょっとした服装の変化等から、人の印象は随分違って来ることを思いながら、マスター御夫妻との挨拶のやり取りを聞く内に、本人だと分かった。


 奥のテーブル席で、会話したり歌ったりという楽しい時間を過ごす。
 一曲目に、僕が大切にしているモンシロチョウという曲をプレゼントして歌うと、涙まで流して聴いてくれていて、僕の方が逆に何か温かい勇気みたいなものを貰っていることに気付いた。
 大抵の場合はくさされながらの我が音楽生活に、まるで空の雲間から温かな陽射しが零れたような一日となっていた。


 その日のカフェは、若き絵描き青年の作品展最終日と重なる。
 工事中という場面を描く人で、ユニークだった。
 彼もやがてカフェに姿を現し、初対面となる。
 たまたま、店のママさんを含め、カフェに集った女性陣三名の誕生日が続いているが分かったので、皆にHAPPY BIRTHDAYという曲を歌ってプレゼントすることにした。
 さっきまで仕事をしていたマスターも、丁度客足が途絶えたので、ドラムで演奏を盛り上げてくれた。
 絵描き青年もカホンを一緒に叩き、参加してくれた。
 聞く所によると音楽もするとのことで、一曲カフェのギターでオリジナルを歌ってくれた。
 奥田民生のファンという彼の歌には、なるほどというメロディーのフィーリングが目立っていた。
 僕に会ってくれていた彼女は、嬉しそうに動画を撮ったり、写真を撮り、僕は動物園の動物かどこかの駅前辺りの銅像にでもなったような気分だった。
 何だかハッピーな楽しいひと時となり、僕は感謝していた。






 歌やメッセージを必要としてくれる人の存在が、僕にとってどれほど有難いものなのかということを噛みしめながら、春の訪れを感じ過ごした。
 また今年は、僕を必要としてくれる人に出会う為にライブをやって行きたいと思った。
 今は、新作アルバム用の曲を半分作った所。
 丁度、十曲目だ。
 仕上がってゆく新しい曲の演奏も含めて、今後のライブが自分でも楽しみだった。



 社会や時代に目を向ければ、どうにもならないような現実があった。
 色んな問題が表面化していたけれど、きっとそれは解放させる為のプロセスに違いなかったのだろう。
 まず認識すること。
 自覚しなくちゃ変えようもない。
 認めなくちゃ始まりもしない。


 何も無かった事にして、経済成長の道を辿って来た国。
 それが上手くいかなくなって、皆苛々して、モラルに納まることも出来なくなった街。
 3.11が起きる以前には、個人的な感情に蓋をして、社会規範に従っていれば、ある程度手に入れることが出来た物質的価値が、今は生み出せなくなっていた。
 個人の我慢や忍耐が、そういった意味で報われなくなり、辛抱し甲斐もなく、残っているのは果てしない生存競争に明け暮れる毎日。
 国からは血税を絞れるだけ絞り取られて、政治は搾取ばかりを繰り返していた。
 そして、戦争を正当化する為の大義名分が日常に掲げられるようになり、戦後七十年という節目に当たる今年は、社会的カオスの真っ只中にあった。


 社会的な規範に無理に生活の安定を求めなかった人々は、それでも心の豊かさの大切さや、その意味を見失わず生活出来ていたのではないかなと思う。
 基本的に外側の世界ではなく、内側の世界での成功から始まるような人生観を持った人々は、社会的カオスの広がった今でも、心の静けさや平安を保ち、謙虚さや親切さや心の温かさを持ち続けていられたのだと思う。
 揺るぎなき人生での価値を、社会から与えてもらうのではなく、自らが人間としての葛藤の中から見つけ出し、獲得して来たであろう人々。
 社会的価値が幾ら変化しても、在り方が変わることはなく、自分にとっての真実に従い生きていたのだと思う。


 バッシング大国とネーミングされるほどまで、心の荒れ果ててしまった今日。



 パソコンを立ち上げ、ネットで国会中継を観ていた。
 議員の一人が、総理へと質問の言葉を投げ掛ける。
 その質問を受けての総理からの言葉が聞こえて来た。
 すると、僕の頭が悪く、理解力に乏しいからなのか、その言葉の意味が殆どと言っていいほどに上手く呑み込めず、モヤモヤとした気持ちを抱えた。
 いや。
 きっと、大多数の国民が僕と同じように、議員から繰り返し尋ねられていた質問への総理からの返答の言葉に、これは立て板に水だと思っていたのだと、僕は思う。
 総理の使う言葉を司っていたであろう思考や思想。
 それらが分かり辛くて、本当は何が言いたいのか、真意が言葉の裏に転がっているように僕には響いていた。
 まるで東大話法と呼ばれているはぐらかしのようで、だけど団塊世代にとてもよく見られる喋り方の見本のようでもあった。
 3.11後に東電が繰り返して来た記者会見の席での、様々な説明の言葉や対応の様子にも通じる、腑に落ちない言動のそれらと、とてもよく似ていた。
 そして、立場ある多くの人々は、社会に自分の意思を伝えることはなく、この国は明らかに疲弊していた。
 疲弊とは、心が恐怖に対し守りに入ること。
 大きな括りで言うとするならば、右翼化を意味していたように思う。
 他者を排除して、心を頑なに閉ざし、恐怖に身構えては批判的な心に凝り固まっていく。
 メディアはそれに追従する形に見え、メディアからジャーナリズムの欠片すら消え失せてしまっていると感じていた。
 まさに右翼的世界。
 異論を唱える者を抹殺する言論弾圧の時代だ。
 その匂いや社会的に狂った同調圧力に負けて、人は意見を述べず、周囲の空気にのみ次第に反応するようになる。
 それが一番危険なことだった。
 そして、それが戦後七十年という節目の年を迎えていたこの国の実像だった。
 戦争から学んだ教訓を忘れ、また大衆を恐怖を使い煽って、時代に熱狂を生む。
 そして戦争で儲けるのだ。
 だから、僕ら国民が賢くなって、不穏な世の中の空気にもっと敏感にならなくちゃ駄目だった。


 都内の小学校での、ある光景が時代を映す。
 児童が、平和な社会を希望する文を書いた。
 すると、現政権への異論を排除するように、教育の現場から指導という体裁を纏った命令が入る。
 これは、もはや民主主義とは到底掛け離れてしまった、独裁的世界に違いなかった。



 幼稚園児にまで退行していくような稚拙さが、毎日には溢れ返っていた。
 そして、それこそが紛れもなく、ジャパニーズリテラシーの現在を象徴していた。


 心は幼い日のまま。
 感情面の取り扱いを学ぶよりも、社会の掟に殉じて来てしまった。
 そのリアルを、今日僕らは自覚させられていたのだろう。
 これこそが、僕らのリアル。
 僕は、そう思う。
 ありのままの嘘のない本当のこと。
 何も変になったのではなくて、隠せなくなっただけだと思う。
 親子でさえ深く憎しみ合ったり、最悪は実際に傷つけ合ったり。
 不満と恨み事のスパイラル。
 そして、それは同時に、表面化し解放させるチャンスでもあった。



 自由や平和や、そして人生の中での価値さえも、与えられることにあまりにも慣れ過ぎていた僕らの暮らし。
 そして、社会が上手く機能しなくなった途端に、欠乏感へと傾き、不満が心に募った。
 だけど、それは本当にそうだったのだろうか。
 僕は、そうは思わない。
 きっと、豊かさとは与えることから始まるものだと思った。
 誰も、人生が何たるかなど答えを与えてはくれない。
 だが、自ら価値を生み出すことが人間には可能だ。
 自分の得たいと思う愛や夢や価値は、人生の中で創造されるのを待ち望んでいる。
 それは、人が幸せに値するということを物語る、この世界の摂理なのだろう。
 だから、まずは自分から与えることについて考えてみる。
 家庭や学校や職場で。
 与えてもらうことに意識を合わせると、欠乏感が襲って来るような現実。
 だけど、視点を真逆に切り替えて、自分から与えることの出来る自由に人が気付くことが出来たならば、世界はあっと言う間にひっくり返ってしまうだろう。
 それが僕の主張だった。


 目頭を尖らせて競い合ったり、他人を批判しては異論を排除したり。
 そんなことをしてストレスを抱え、不幸になっていくよりも、お互いに支え合って幸せに愛し合うことの出来る平和な世界が、きっとある。
 自分から与えるという自由意思の選択は、そういった豊かさへと繋がる平和運動だろう。
 反戦運動は対立を深める。
 それは、行動の根底を不安や怖れに支配されているからだ。
 足りないものへと人の意識が集中していて、自らが望まない現実に意識エネルギーを注ぐ結果となり、それ自体を悲しくも創造していく結果に辿り着く。
 平和運動を司っているのは、愛だ。
 愛に意識を向け、毎日を行動を持って乗り越えていけば、その先の未来には必ず平和が微笑み待ってくれている。
 だから、深く失望し傷つき悲しんでいる現実に、微笑みを向けよう。
 それは、僕自身の抱えた言い知れぬ悲しみなんだ。
 忌み嫌うものを排除すればするほど、その対象や性質は増幅する。
 それが宇宙の基本原理だと思う。
 だから、今ある調和に意識を向け続ける努力をすること。
 すると、その性質は増幅する。
 社会が与えてくれないものに意識を向けるのではなく、自分が望むものを、まず自分から与え始めること。
 それは、限りない自由や愛へと向かった意識。
 そいつが、僕にとってのロックンロールだ。



 白紙の大学ノート。
 十一曲目のメロディーにコードを着せる。
 コードの響きには言葉があった。
 僕は、もう作詞をしない。
 詞は曲が持っていることを、体験的に理解したから。
 何か新しい物事のインスピレーションを受け取るって、きっと、そんなことなのだろう。
 文明の転換期。
 氷河の時代に、多くの人々にとって、ともすれば希望を失ってしまいがちな毎日が続いていたに違いない。
 だけど、僕ら人間の小さな意識の中で幾ら足掻いてみても、もはや既成概念に捉われ人となっているのだから、答えなんて簡単に見つけられもしなかったのだろう。
 だけど、夜は必ず明ける。
 新しい意識にも、いつかは辿り着けるんだ。
 僕は、そう信じて、この街の片隅で平和を祈りながら歌ってる。
 限界の向こう側へ。
 意識が変わり、次元が変われば、今ある物事に感じ、見つめていることの意味も形を変えていくよ。
 この混沌とした氷河の時代に、もう少し僕も頑張ってみるよ。



 僕は、時代という名の獲物を如何にしとめるかを考えながら、新しい歌を作るハンターと化していた。