蕾 


 バイパス開通日。


 さっきまで小雨のパラついていた空模様も一変。
 陽射しの戻ったカントリーロードは、僕の心を解放感で満たしてゆくようだった。



 ホトトギスが歌うまで。
 それは、氷河の時代への希望の叫びとして僕の用いた言い回しの言葉だった。
 そんな希望を胸に、僕は車に積んだギターケースと人生の旅を続けていた。
 ミュージシャンだったら、自分の抱えた負の財産を宝の山にするべく、音楽で世界に愛の光を生み出さなくちゃ。
 僕はそんな風に考え、心の闇の底でロックに出会う。
 僕にとってのロックって、純度の高さだと言い換えても良かったのかもしれない。
 純度を磨き込んでいくこと。
 ロックという山を登る上での闘い。
 無垢な魂を汚さぬ為に、人生の壁を乗り越えていく。
 そして、結果的にハートビートがロックへと昇華されていく時、僕の中で人生は永遠の一曲へと辿り着けばいい。
 世間ではその頃、古い社会システムに反発するニューウェーブが目立ち始めていたんだ。


 二〇一五年。
 三月ラストの日曜日。


 バイパスの料金所に連なった車からは、まるで行楽地へと繰り出す人々の思いが充満するような透明な渦が感じられるようだった。
 ここでいきなりの渋滞に巻き込まれ、時間は大丈夫かと車の時計を気にする。
 故郷、広島の三次で開かれる予定の縄文祭りへと向かった、こんな物語から、過ぎゆく春の日の一ページを捲ってみたい。



 心配した渋滞は、一瞬の幻だった。
 料金所を抜けると、さっきまでいた筈の車の群れは、蜘蛛の子を散らしたように田舎のバイパスを疾走してゆき、視界は開け放たれた窓のような爽快感に満ちていた。
 さらば資本主義と時代に歌った僕だったけれど、かといって、何か新しい社会モデルを現実的に言葉で表現出来たという訳ではなかった。
 ただ、直感的に歩くバランス感覚にだけは、普通の人よりも敏感だった気がする。
 僕は、難しい本を読みあさって知識を蓄えることで、言葉をアートに対し用意していくタイプでは明らかになかった。
 何にも専門的知識もないのに、例えば生み出した曲が、勝手に僕はさらば資本主義なんだって産声を挙げ、自らの名前を名乗って来るようにいつも思えていた。
 それは、僕の心の中に居る神様との交信手段であり、自我の偏見に満ちた判断などを完全に圧倒するスケール感で、僕に説得力を持ち、真実について訴え掛けて来るようだった。


 僕は、この氷河と心の中で呼ぶことを名付けた時代に、ホトトギスが歌うまでという希望へと繋がる道を、先付けで作ることから今日を生きる覚悟だった。
 人生の中での希望は、自分で掴むことをまず宣言しなくちゃ始まりはしない。
 運命なんて、今日という一点にだけフォーカスを当て見ていても、運がいいのか悪いのか、誰にも分かりっこないものだったのだろう。
 ホトトギスが歌うまで。
 氷河の世界にも、やがて生命の息吹きが復活を遂げる春の足音が、きっと近付いて来る。
 その日を迎える運命を選ぶ為に立ち上がり、僕は歌おう。
 僕は、そう決めたんだ。


 山間の街を見下ろせば、丁度一年前の想い出が、心の中にそっと甦って来た。
 バイパスは空に手が届くほどの標高を駆け抜けてゆく。
 一年前。
 同じようにこのバイパスを通ったのは、縄文祭りを主催していたストレッチクラスに参加した為だった。
 東京からやって来る講師の女性は、海外生活も長く経験する国際派で、インターナショナルな価値観の普及に貢献するようにストレッチクラスを続けていた。
 そして、その日、彼女のストレッチクラスの協会が今や普及しているエストニアから、たくさんのインストラクター達が来日し、縄文祭りは国際交流のイベントとなっていた。
 去年は、ストレッチクラス当日もそうだけれど、後日、ワークを終え広島空港から東京へ戻る彼女に会おうと、この道を通った。







 二〇一一年にあった東日本大震災の影響下にあった筈の東京に、アメリカから帰国し暮らす彼女と、一度深く語らってみる時間を持ちたいと思い、連絡を取り、空港から離陸する前にカフェで会った。
 東京では、誰も放射能のことを口にしない日常が、当たり前に続いていることについて、色んな場面で情報として僕の元にも届いていた。
 そんな現実について、彼女と一度話してみたいと思った。
 原発事故といえば、エストニアだってチェルノブイリの事故の影響を受けた国だったし、そういった意味でも、縄文祭りでエストニアの人々に会えることに対しての意義を感じていた。
 そして、ソビエトからの侵略という悲しい歴史体験もしていて、エストニアは今もそんな悲劇の歴史の繰り返しをするような国の岐路に立たされていた。
 日本にしても、自衛隊を軍になんて話になって来ていたし、社会システムの不安定さから侵略が始まったり、戦争なんてことにもなり兼ねないような危険に満ちていた。
 そして、誰も原発放射能を言わない。
 それが、心の疲弊という名のファシズムの正体だと僕は思った。
 政治や国家が悪いのではなくて、僕ら国民が基本的に主権を政府に甘えて丸投げの現実が、国防軍なんて最低なシナリオの始まりなのだろうって。
 皆、自分の心に大なり小なりの嘘をつき、自分を誤魔化して社会にすり寄り生きてる。
 そんな不誠実さが、僕は嫌だと思ったんだ。


 僕は社会を信用出来ないと心の中で叫び、そして自らも心の疲弊という問題を抱え、同調圧力との闘いが毎日に課せられていた。
 不誠実が嫌なら、自分が責任を背負い今日を精一杯生きることからでしか、僕自身も、そしてこの国や世界だって何も解決せず、始まりはしない。
 それが辿り着いた結論だった。
 本当にこの世界に真の自由や平和を望むというのならば、自分がそんな風に今日を踏み出すことからしか希望はなし。
 人がどんな選択をしていたとしても、いつも問題は自分でしかないと強く思った。
 言い訳なんかはいらない。
 自由であり、自分や人を愛する為に責任を果たす道を歩むがいい。
 真の希望は、傍観者のままじゃあ、掴める筈もなかった。
 主権なき民主主義の憂鬱に泣いた日々が教えてくれた、人生の中での教訓がここにある。


 主権なき現実とは、自分の無責任さの結実と覚悟すべき時だったのだろう。
 己を知る鏡として現実世界を捉え、悟るべきタイミングに違いなかった。
 現実が、自分が一体どんな人間なのかを、時に厳しくも反射して見せてくれている。
 そう考えると、この世界は全てが愛なのだと分かるような気がする。
 本当の自分へと押し返してくれているのだから。


 僕らの色んな思いに縁取られた春が、世界を淡い彩りで包み込み、桜満開の春の日の枝先で歌うホトトギスの鳴き声が、僕には時代の先から遠く聞こえて来る気がしていた。
 まだ、日によっては寒風に桜の蕾も風邪をひいてしまいそうな三月下旬。
 僕は、未来の運命の行く末に思いを馳せた。



 数時間後。
 僕は、三次の田舎町にある集会所で歌っていた。


 宴会の席で芸を披露するのに最適な感じのステージ。
 床に靴下で立ち、アコースティックギターを結構な広間へと奏で歌う。
 PAや照明に頼ることもなく、生歌一本勝負の世界。


 いいものはいい。
 駄目なものは駄目。


 そんな世界の到来を、僕は心底願っていた。



 コネや柵なんかでいつも回り続けて来た資本主義にさよならを告げて締めくくり掛けたステージは、有難い拍手と、もう一曲演奏して欲しいとのリクエストに背中を押され、幕が再び開けた。
 ささやかな弾き語りライブの本編のラストソングに選んだ、さらば資本主義に続き、僕は新曲として作った真新しい氷河という曲のイントロを奏でた。


 生きたように歌い、歌う為に生きると誓い、アコースティックギターをかき鳴らし歌い出せば、枝先で歌うホトトギスの鳴き声が、バースへと向かうメロディーと共にハモるように響いた気がした。