同調

 システムの破綻した世界で、今更何をどんな風に取り繕おうとも、もう上手く行かないのは明らかなことだった。
 必要なことは、社会モデル自体のチェンジだったのだろうし、意識のシフトだと思った。



 金曜日から土曜日へと日付けは変更され、僕は真夜中に一人、ノートパソコンでYouTubeを観ていた。
 バブル期最後の華やかだった時代のエンターテイメント番組の映像で、僕の青春の日々を支えてくれていた音楽を聴いていた。
 ミリオンセラーを叩き出す、国民的バンドとなっていた彼らの姿が映し出され、経済大国の繁栄と共に、音楽も陽気なリズムで踊っているように見えた。
 巨大な資本主義に支えられて、ポップミュージックは華やかに燃え上がる。
 だけど、資本主義のバックにある思想や権力に物言うことなきポップスは、二〇一五年である現代に於いて、普遍的価値を訴え掛けるまでには至らないような感覚を、僕の心に投げ掛けていた。


 僕らは、一体何を見据え生きて来たのだろうか。
 総理は、この道しかないと積極的平和主義という名のスローガンを抱え、明らかに軍国化を図ろうとしていた。
 その様は、まるで第二次世界大戦の時に戦争へと駆り立てていった時と同じで、古い経済モデルにしがみつく人間の心の動きを体現しているように、僕には思えた。
 福島第一の事故後、僕らに必要だったのは、古くなった経済モデルを捨て、新しい意識に目覚め生き始めることだったに違いない。
 過ちを認め、資本主義という名の古いレースに決別を告げて、価値観自体を見直していくこと。
 そんな道へと進んでいく中で、新たな繁栄と調和のバランスを探り、幸せを見つけようと自分を磨いていくこと。
 そっちの道を選ばないということになると、時代は退行するかのように列強へと駆り立てられてしまうのだろう。
 それは、時代の足踏みだと思うし、意識の委縮運動のようだ。


 豊かにはなれたけれど、幸せになれたかと尋ねられたとしたならば、NOだと僕らは、もうとっくに気付いてしまっていた。
 人から、より多くを奪い、優劣の世界で努力してみても、成功そのものに価値を見い出したり、心の安らぎを得るに至らなかった不毛な闘いの影が、現代にその名残りとしての社会問題を山積させているように思えた。
 だけど、日本国民はそんなに馬鹿で愚かではないと僕は思う。
 きっと、心の壁を乗り越え、違った幸福の形を見つけ出すだろう。
 個の確立や闘いの意識というものが、社会的な場で力を失い、失墜してゆく。
 それがまさに、軍国化へと逃げる権力層の姿に重なって見えた。
 若者達は、車離れ等、本当に一世代前の人々からすると何故なのだろうと思うような、消費からの逃避を続けていた。
 幸せという価値観そのものが、消費とは別次元にあることを知っていたのだと僕は思う。
 だから、そういった意味で若い世代は進化していると言えたのだろう。



 そして、今一番恐ろしい問題は、やはり福一の現状だった。
 マスコミが伝えようとしなかったけれど、日本社会の現実は幻想であり、すり替えられた本当の現実が静かに進行していると僕は感じ続けていた。
 愛は盲目というけれど、人は信じたいもの以外を拒み続けるものだと改めて思い知らされた気がする。
 社会全体が経済を守ることへと凝り固まってゆき、それ以外の意見に牙を剥き、叩くという悲しい日常が続いた。
 何故、人は怒るのか。
 答えは、とてもハッキリしていた。
 恐いからだ。
 本当に自信がある時には、人は他人の意見に一喜一憂などしないに決まっていた。
 不安なあすをイメージして、その現実が実現する可能性を信じている。
 恐怖ベースの生き方は、資本主義的な発想だと僕は思った。
 そして、今後の未来を望むならば、僕らはその上の価値観を発見して、愛と歓びから人生を始める必要性を感じていた。


 多死社会の出現は、免れ様のない問題へと膨れ上がるまで、現実社会は恐怖に目を背け、経済中心の日常を継続して来たと思う。
 結局、小難で済ませられたことを大難にまで導いて来たという話だと、僕は思う。
 今までの社会モデルを守り生きるということ。
 その道に未来はない。
 その道は、戦争と大和民族の滅亡というシナリオへと続く道だ。
 だから、早め早めに危険に対して早回りして、面倒なことが多いとしても、社会モデルの雛型から作り直す知恵と行動が必要だ。
 もっというならば、きっと面倒を面倒と思わず、生きる糧や歓びとして、問題に向き合う賢さや勇気が必要な時なのだと思う。
 困った問題と感じることも出来れば、チャレンジとして引き受けることも出来る人生。
 時に、悩んだり迷ったり、転んだりは当然のこととして、現実をマクロの意識で俯瞰し捉える精神性を常に備えていたい。



 毎日、本当に色んなことがあるけれど、どっちみち、個の確立の時代ではなく、フリーエネルギーの時代の流れに、既に現実は進行していた。
 奪い合いのマネーゲームが上手く立ちゆかないからこそ、ゴテゴテの毎日だったのだから。
 たとえ、戦争をしたと仮定しても、誰ももう勝ち組として生き残ることが許されなくなった時代だと理解し、ステップアップしていかなくちゃならない。
 それに、狭い列島に原発を五十基ほど抱えて、戦争なんて、すぐやられて敗戦することは、現実的に考えてみれば、誰にでも簡単に分かることだ。
 核爆弾をふところに抱えて戦争をして、この国に勝ち目などある筈がない。
 そして、大和民族は核により滅んでゆく。
 原発を続けていったとしても、老朽化してやがては、またメルトダウンして、民族の危機に遭遇することは必至だった。



 誰もが、プロパガンダの洗脳の中で、不安や恐怖に反応して、同調圧力に曝され暮らしていた。
 資本主義が、正義の代弁者となった国で。