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 国からの命令として、戦地へ。
 他国との争い以前の話だと思った。



 マイナンバー制を導入に際してのコマーシャルに、タレントのスマイルが花を添えている。
 国会での首相の答弁は、同じことの繰り返しばかりで、つまり、はぐらかし以外の何物でもなかった。
 質問に対して、誠実に全く答えていない。
 そして、これがこの国の素顔だ。


 僕は、端的に言っておきたい。
 国家権力が、国民に対して兵士になれということ自体が、異常なのだと。
 人が人の命を奪ったり、また逆に殺されたり。
 そんなこと、一体どんな大義名分の下にだって許されていい筈がないことだと思った。
 憲法学者の大方の人も、今回の法の改正には違憲を唱えていた。
 隣国の脅威。
 それは、よく分かる。
 豊かで平和な資本主義の国に生まれ育った、甘ちゃんと言われたって仕方のなかったであろう僕にだって、それくらいのことは、幾らか欠如していたとしても、想像が全く出来ないことではなかっただろうと思う。
 だが、自衛隊を軍へというレトリックには、全く正当性が感じられなかった。


 第二次大戦に敗れ、アメリカに押しつけられるように九条を掲げたという話。
 それにしても、九条は美しく、平和理念として、とても優れていると思った。
 若きその命を、まるで桜の花が散り急ぐみたいに、太平洋の彼方へと消えていった少年兵達のことを、僕は想う。
 せめて、九条だけは守りたかったと。
 それが、国家に忠誠を誓わされ、儚くも散っていった彼らへの、せめてもの弔いであり、そして、この世界に人間として今日を生かされている僕の償いでもあった。


 国会中継を観ていて、これは何が何でも強行突破なんだろうなと改めて思う。
 違憲だろうが、国民が反対しようが、どうでもいい。
 それが、戦争への道を突き進むことなのだろう。


 今更、東京オリンピックだとか、どうにもならない夢を追いかけているような虚しい気分だった。
 福一からは、どうやら中性子線が出ているようで、大和民族の存続すら怪しいと考えるのは、科学的なことで、現実的だと思う。
 僕らが精神的にすがれるものは、スピリチュアルとか色々あるけれど、壁を通り抜けたり、空中の壁を蹴ったり、手から食べ物くらい出せなきゃ、放射能を無害化させることは難しそうだった。


 それにしても、酷い国に成り下がったものだ。
 首相は、恥知らずな答弁を繰り返し、民主主義制度を無視する。
 企業は、金儲けの為ならば、食べて応援だし、放射能汚染の疑いという問題に触れると、東北の物が売れなくなる懸念から風評被害を口にする人々もいる。
 勿論、それぞれの立場での苦しさや事情は、きっと計り知れないくらいあったのだろう。
 だから、言いたいことが色々あるのは分かる。
 でも、これらは全て、相手の立場を思いやっての話じゃなくて、自分の立場を守る為だった。
 実に、化学物質の核分裂反応に似た話じゃないか。
 つまりは、原発利権社会。
 社会体制って、心の化学反応が物質化し、可視化されたものなのだろう。
 そして、相手の立場を思いやる心が、未来の輝ける循環型社会を築く為の心の化学反応に違いなかった。



 国家という名の幻想よ。
 全ては、諦めと欺瞞の上に成り立っている。
 友情という名の幻想よ。
 人は、資本主義の奴隷であり、人生への根深き諦めの態度が、ファシズムを強固に際立たせ、殺気が世界を支配してゆくよ。


 人は、この時代の中で傍観を決め込んでいる。
 嫌われ役なんて、誰も請け負いたくはないのだろう。
 だが、その生き様が命取りになっているよ。


 この国に今、未来なんてあるのか。
 薄っぺらな友情に、真の救いがあるというのか。
 あの時、支配されたんだ。
 この国のファシズムは虚勢され、民主主義の仮面の下で、日常は当たり前に流れ去っていった。
 敗北の中で学んだものは、一体何だったというのだろう。


 資本主義に従い、這い上がった国が、まるで分裂反応の象徴のような原発に依存したまま、再び息絶えてしまいそうさ。
 システムはやられ、国はまるで、操縦不能の旅客機みたいさ。
 そして、僕らはみな、運命共同体だ。
 コックピットよ。
 空中分裂してゆく機体の破片は、既成概念だ。
 システムは終わり、この社会は既に、ファシズムであろうとも、本質的には人の心をもはや操ることなんて不可能なことだ。
 僕達は、もう融合するしか生きる道はない。
 それが、唯一の結論だろう。
 誠実さ。
 真心。
 そして、愛。



 あの時、アメリカの五十一番目の州になった国。
 僕らは、国家という名の幻想の果てを彷徨っているようだった。