一月の行方

 初めて地球が丸いと聞いた人々の驚きは、一体どれ程のものだったのだろう?


 そして、二〇一六年初頭の日本社会が抱えていた安全神話という社会的洗脳からの脱却というテーマは、まさに地球は実は丸かったと聞かされた時の違和感と同じようなものだったのではないだろうか。



 二〇一六年が明けた。


 僕は、祈りの中で幾つかの夢を見ていた。
 その夢への願いは届くだろうか。
 だが、踏み出すしか道は残されてはいなかった。
 何となくというか、感覚的にそう思えた。



 日本崩壊という風に言葉にすると、かなりダークな印象を放つ。
 だが、3.11という国難が用意した運命は、まさにそれに直結していたと思う。
 文明の歩みの中で、明治維新とか敗戦の年とか、それと同じことが進行していた。
 社会モデルの崩壊とカオス。
 息苦しさとチャレンジ。
 魂の闘いの日々は続く。


 きっと、より多くの期待を天から託されている人は、多くの困難を抱えていたのかもしれない。
 例えば、貧困層の生活の為に貢献する役割を担った魂が、悠々自適な暮らしに浮かれ続けていては、社会的弱者の痛みや悲鳴なんて、その辛さが分かる筈もない。
 一言で言えば、試練ということ。
 霊格みたいなものが上がる程、ある意味キツくなっていく部分ってあるように思う。


 今は、日本存続の危機という部分にまで直面していたけれど、多くの人々にとっては、リアルな体感が走る現実を知るまでは、偏った思想を持つ一部の人間の妄想のように捉えがちな問題だった気がする。



 僕の日常の様子は、昨年の下半期辺りから加速度を付け、以前よりも物理次元がアメーバみたいに柔軟で素早く表情を変化させていくようになっていた。
 これは、科学的に言えば、エネルギーの振動数の上昇を意味していて、感情の波も、それに伴い増幅し、以前よりも、ずっと数値にすると桁が跳ね上がって来ていたのだろう。
 だから、苛々した人はより苛々したり、そんな風に感情の揺れ幅が大きくなり、心身のバランスを取ることがとても大切なことのように思えた。
 そして、人の心は透明に透けて見えるようになり、政治家の本音が日常的に国民にも、より見聞きし易くなっていたと思う。
 地球上のエネルギーが質を変え、以前より高次元で粒子が振動する世界。
 僕は、それを体感を通して感じているように思えた。


 現実だと認識していたものは、実は、睡眠の中で見る夢と同質のものであり、人間の固定観念が、ただ夢と現実とを分け隔てていただけなのだということを強く思った。
 エネルギーの粒子が、より活発に動く世界では、僕らが夢と呼んで来た世界が現実となり、今僕らが信じている常識は、反対に非常識となる。
 だから、初めに地球は丸いと言ったり、ニュートンが重力を発見したりした時、彼らの意識は、地上を取り巻く集合意識よりも少し早く、高次の意識へと繋がり、宇宙の常識に手を伸ばしたというだけの話なのだと思う。
 意識が次元をまたぐ時、常識はひっくり返り、新たな次元で見た世界が突如現実に変わるのだろう。
 その意識変化の象徴が、例えばコロンブスの新大陸発見というような形で世界に出現するような気がする。
 今、この国が直面しているのは、まさにそんなことだ。



 僕ら人間の持つ、ある特定の価値観への依存と執着。
 地上はどう見ても平面状にどこまでも広がっていて、空は頭上に存在している筈だ。
 そう考えるのは、とてもまっとうだと思う。
 だが、そのまっとうに思える感覚すら、僕ら人間には、宇宙の法則の真理に合っているのかどうかは、時に分からないものなのかもしれない。
 地球が球体ならば、自転した際、下に位置した大地にいる人は、空に落下してしまうという当然の現象が起こる筈のように思うけれど、そこに引力などというものが作用している。
 それにしても、頭の上とか足の下とか、上下左右という概念の存在する訳って、一体何なのだろうとも思う。
 神様だったら、上だの下だのという枠もないだろうし、これは僕ら人間の意識の投影なのだろうなと思う。
 宇宙空間は、無限に広がる心を表現しているようだし、全ては僕の心の中での出来事なのだろう。
 地球が丸いだとか、重力や引力みたいな話は、科学から知識として教わった、この世の中を生きていく上での、一つの価値観でしかない。
 科学が教えてくれてなかったとしたら、如何程のパーセンテージの人がその事実に気付けるというのだろう。
 きっと、誰にも簡単には解けないことなのではないだろうか。


 原発や核のことにしても、それは同じことが言えた。
 原発が安全だなんて、地上が平面状に広がっていると、初めに一つの価値観を頭の中に吹き込まれたから、そう信じたという話に過ぎない。
 3.11以後には、今度は原発の危険を訴える人々の声が当然のように挙がって来た。
 すり替えられた真実。
 社会的価値とか常識とは、こんなにも薄っぺらなものだろうかと、僕は子供の頃から、よくそう考える子供だったと思う。


 自分で考えて生きていくと、この社会は実に不条理だらけだった。
 小学校では、特定の価値観を有無を言わせず呑み込ませられるし、そのことが正義のような横柄さで進行していて、僕にはいちいち引っ掛かることだらけだった。
 社会に適応する能力ばかりが評価されてしまうし、常識という名の洗脳世界のとても窮屈な檻の中で飼い慣らされていくペットみたいで、時に憎悪の念に近いような感覚すら抱いた。
 方向付けられてゆく毎日の繰り返しが続いた。
 人生が自分の為のものなどではなく、欺瞞と見栄と果てしない欲望なんかに彩られた生存競争に終始してゆくかのようで、心虚しい世界の果てを、僕はやがて青春期に入り、一人彷徨い始める。
 そして僕自身、原発によって繁栄遂げた経済大国に生きる奴隷としての民に育てられていった。


 やがて、あの3.11という名の洗脳世界の一つの終焉を迎える運命を、見届けることとなる。
 あの日から、もうすぐ五年目の春が訪れようとしていた。



 日本が沈没して、そして世界も後に続くというシナリオか、それとも人類の集合意識が次元の扉を開いて、新たなる世界を発見し存続していくのか。
 僕は、勿論後者を選択したいと望む。
 そして、今の日本人にその資格はあるだろうかと常に考えている。


 非現実的なことを言葉にして他人に伝え、表現することはとても難しい。
 だから芸術は凄いのだろう。
 メロディーに乗せた詞も、それ自体では大した情報を持たなくても、旋律はドラマを描き、詞を小説に描き換えてしまい、ストーリーを世界に伝えてゆく。
 驚きだ。
 たった三分の歌も、永遠の調べを刻む魔法のタクトを振り、ミューズの舞い降りる、美しく清らかな器になる。
 僕は、自分が音楽をやっているから、次元の隔たりについても音楽的認識と世界観を持っていた。
 つまり、オクターブの違う音というものが、次元の違いを示す証となり、倍音が無限の天の彼方にまで届き、響く祈りとなっていることを体感的に知っていた。
 限界なんて本当はなくて、次元の壁を破った意識は、必ず次の次元で、新しい世界に出会うものなのだろう。
 原発問題は、そこに直結していて、意識が次元上昇を果たし、違った現実の見方が出来れば、必ず違った希望に繋がる世界が現れるということ。
 勿論、それは簡単なことじゃないかもしれない。
 でも、挑まないと手に入らないものもある。
 僕は歌うことを、次元を更新していく手段として利用している。
 それが歌作りの本質的テーマだと感じていた。
 自己の本質的パーソナリティーへの回帰の旅。
 僕は僕を探して来た。
 そして、歌は天をも動かす力すら宿すものに化けうるものだと感じていた。
 きっと、音は宇宙創造の過程に於いて、原子的働きを担ったものだったのではないだろうか。
 そう思う。
 音を高次元で鳴らす器として、歌が生まれ、波長の法則として、そこにミューズのような神が引き寄せられ、姿を現す。
 天運にすら関与し兼ねない人の祈りの持つ、神秘の力を感じている。



 二〇一六年は、全てが公の下に明かされ、人の心の堕落した在り様や社会的欺瞞等が袋小路に追い込まれてゆく気がする。
 地上のエネルギーが上昇した科学的データについては知らないのだけれど、周波数の変化が僕達人間の心や社会に多大な影響を与えていると感じる。
 社会学は行き詰まり、次元上昇を果たした先に、新たなる世界を創造してゆかなくてはならない。


 原発は人類にとって、パンドラの箱だった。
 そこから、サタンのような存在が登場する。
 人間の持つ心の闇だ。
 だから、極論として放射能すらも人間の心の闇に眠って来た何かの投影なのだろうと思う。
 だから、意識を変えて世界を見始めることをしなければならなかったのだろう。
 サタンすらも神の一部だったのだから。
 全ては、一つの愛へと回帰する為の因果によって作用している筈だ。



 二〇一六年 一月
 僕らは、愛と調和を持って世界を治めるという挑戦の日々に立たされていた。