スケール

 どの世界でも下積み時期は、苦行みたいなものだろうか。
 僕の場合だと、ソングライティングと歌うこと。
 曲を作ることも歌うことも、本当に第三者に届く形になるまでには、試行錯誤の連続だと思うし、今もそうだ。


 ソングライティングに懸ける情熱の温度は、たぶん今も昔も変わっていないと思うのだけれど、一つを得れば一つを失くすこともあり、芸事の難しさを思う。
 それに、ミュージシャンとして社会的な地位も何もない訳で、まあ、自称ミュージシャンでしかなかった。



 生きてゆく為に多くの人が捨ててゆくもの。
 ロックミュージシャンとして生きてゆくならば、寧ろ、大衆が敢えて切り捨ててゆくものの中にこそ、人生の価値を見い出し、普遍的な何かを作品へと昇華させるべきだと信じて来た。
 調和を乱すことについて、何度かお叱りの言葉を人生の先輩にもらったこともある。
 確かに社会的な調和は大切に違いなかった。
 だけど僕は、調和という名の同調圧力というものが許せない性分と言えばいいのか。
 物事が何処か嘘っぽい。
 そんな匂いが少しでもしていると感じた時、心の中でピシャっと線を引くような潔癖さがあったんだ。
 若さ故の融通のなさ。
 そんな頃もあったと思う。


 一体、思いやりってどういうものなのかな。
 僕の人生で自慢出来るものなんて、せいぜい好きな音楽をなるべく裏切らないように必死で生きて来たという、それだけだった気がする。
 本当に素晴らしい人って、どんな人のことなのかな。


 心の中で神様とはぐれてしまったら、それは、きっとロックが死ぬ日だと思うんだ。
 僕は生きたい。
 だから、心の中の神様とどうかはぐれずに歌って行けますようにと強く願って来た。
 それがたとえ、社会的調和を乱すなと激しく叩かれるような場合でさえも、己が納得出来ない時には、その価値を疑うことから真実を求め歩き続けた。
 その行為こそ、ソングライティングそのものだと感じていた。


 現代に歌は存在するのか。
 歌の語源は訴えるなのだそうだ。
 そういった意味で、本物と呼べるような魂の歌はあるのだろうか。

 商業ベースでの音楽。
 それに各分野でも皆同じ流れだが、資本があってようやく成り立つビジネスというものが、本当に様々な大切なものを壊し続けて来たと思う。
 そして、スター不在の時代へと辿り着いたように感じる。
 スターって、大衆の人気者のことなんかじゃないよ。
 勿論、人気も大切な価値だと思う。
 ただ、人気取りに走る世相の中で、その意識の深層心理には、やはり商業ベースから成り立つ物質的価値が眠っているように思えた。
 それが、僕の感じている物事の嘘臭さの原因だと思っていた。


 僕の思うスターって、本質的価値を訴え掛けることの出来る力があって、社会の価値観を変えてゆく存在のことだった。
 各界が揺らぐ時代。
 スーパースターとかつて呼ばれていた人が、転落の人生を歩む。
 人生の中での光と影。
 栄光と挫折。
 全ては一対のものであり、それをどう上手く乗り越えてゆくかの。
 成功には代償もあるだろう。
 タダで手に入るものなんてない。
 必ず何らかの因果バランスが働いていて、この世は実はあの世と呼ばれる世界も含めれば、完全なる公平さが働いているのだろう。
 だからこそ、僕は本当にロックなものだけに心惹かれ来た人間なんだと思う。
 勿論、時に間違いや失敗をしては痛い思いをして、それでも自分の心にだけは、どうかまっすぐに歩けますようにと祈った。
 自分の歌をイミテーションにしてゆくような生き様を嫌った。



 そんな風にロックと共に暮らしながら、ようやくソングライティングのコツみたいなものが掴めて来たように思う。
 特に、作詞には苦労が絶えることがなかった。
 歌詞が書けるまでには、約ニ十年の下積みが必要だった。
 丁度、3.11があった頃のこと。
 こういう風に書けばいいのかなと、何か手ごたえを掴んだような経験があった。
 歌は、映像作品のようなものだと思う。
 メロディーや曲の構成。
 これは、既に音楽という名の映像なのだと思う。
 映画監督が、言葉なしに映像だけを撮るように、僕は3Dで映像が飛び出すようなメロディーを心に探して来た。
 そして、歌詞が後回しで着いて来る。
 それが僕の曲作りのやり方だった。


 歌詞は、言うまでもなく詩ではない。
 勿論、散文詩でもなく、あくまで歌詞としての形式の中での表現だ。
 小説家は、自分の生み出す文字だけで、映像処理された言葉を散りばめてゆく魔法使いみたいだ。
 小説という形式は、映画と同じ質感を湛え、言葉でもって思いを映像化してゆくように思う。
 それは、散文詩とは異質のものだ。
 散文詩は、基本的に小学生の作文の延長で、素人でも書ける。
 僕はあいにく、小説の手法の本質を知らないので、おしくも小説家としての資格を今は持ち合わせていなかった。
 もし書けたらという憧れはある。
 言葉で映画を一本描く人達って凄いなと思う。


 僕にあったのは、やっぱりメロディーだった。
 そして、メロディーは歌詞を映像化して小説や映画に匹敵するような価値を生み出してゆく。
 僕は、小説は描けないけれど、音楽の力でそんな表現の領域を求めて来たのだろう。


 歌詞を書くこと。
 散文詩での言葉として適切な表現を、歌詞の中に無自覚で持ち込んでいた。
 これは、歌詞と散文詩の両方を一杯書いて来たことで、違いがよく分かるようになったと思う。
 散文詩としての表現を歌詞に持ち込んだ場合には、とてもくどさが出て、状況説明に終始する形に終わってしまう。
 これは、映画の中の主人公が芝居中にいちいち状況説明の台詞を一人で呟いているような不自然さが生まれる。
 役者は黙って動作でストーリーを伝えるから感動するように思う。
 メロディーと構成とで、既にきっちりカット割りされた映像がある。
 そこに言葉での状況説明などいらない。
 演技して気持ちを伝え、流れてゆくこと。
 それが歌詞が担うべき役割だ。
 作詞という世界をこんな風に説明出来るかなと思う。
 僕の場合は、曲に歌詞作りを特訓させられたように思う。
 だからといって、人の心を打つかどうか分からないけど。



 随分、寂しがれやの僕だから。
 ギターを抱えて歌作り。
 やり切れないような時も乗り越えて来た。
 愛を信じられない自分。
 信じたい自分。
 そのどれもが僕だった。


 音楽が与えてくれたもの。
 それは等身大の僕だったのかもしれない。