JAPANESE PARADISE
梅雨が明けてから毎日は流れ続け、夏はもうすっかり真っ盛りを迎えていた七月下旬。
僕は、ギブソンJ-45を持参して、きららカフェを訪れていた。
月日は、余りに足早に過ぎゆく。
うっかりすると、何か大切なことを何処かに置き去りにしたまま、日常のリズムに足を捕られて運ばれてゆきそうな気持ちになる。
七月最後のカフェの営業日となっていた、金曜日の夕方。
久しぶりとなるフレンチトーストライブのひと時。
カフェの奥の部屋で、マスター御夫妻にフレンチトーストの新曲を披露して歌った。
マスターの叩くカホンと僕の弾くアコースティックギターの響きに、心を解き放つ。
前回、カフェに顔を出したのは、一週間前の水曜日のことだった。
この頃は、カフェに行く機会が作れなくて、フレンチトーストの為にと春から作り続けていた曲の入ったデモCDを持参しての訪問だった。
マスターが買ったばかりの音質のいいスピーカーで、デモをカフェに流してくれた。
ソロとは別の歌の世界。
フレンチトーストの歩みは、決して早くはなかったが、一歩一歩進めて来た。
その日、その場にいた人達からの反応が良かったと思えていた曲を数曲ピックアップして、七月最後のカフェライブを飾ろうと思った。
約一月前のこと。
地元は、水害に見舞われるという、この辺りでは珍しい出来事があった。
災害に遭うことの少ない、恵まれた僕の故郷。
色んなことを思う。
自然の厳しさを知らない分、思い上がってゆく人の心であったり。
物事は、良い面もあれば、それ故に忘れてゆく大切なことだって、きっとあっただろう。
生活について、本当に大切にしなければならないことについて考え過ごした。
七月に入り、選挙日を迎えて、僕ら国民が今何を望むのかについての一つの結論も出ていた。
今迄通りの安定と経済優先の生活。
そういうことだったのだろう。
経済こそが、今の日本を救うものだったのだろうか。
その問い掛けが大きく、僕の心の中に生まれていた。
バブルという名の、一時の異常事態に余りにも慣れてしまって、何か人間の送る生活としてはバランスを欠いていたように思えていた暮らしの中で。
はっきり言えば、経済を今迄通りにと言わなければ、すぐに今日から別の価値観の上に生活が始められるということ。
もしかすると、以前のどこか狂った暮らしを求めなければ、今すぐにでも別の幸福が始められるのではないだろうかという価値について、思いを馳せて来た。
大量生産、大量消費という文化から、意識自体をシフトしてゆくこと。
それは、東日本大震災が本当に復興へと向かう日の始まりなのではないか。
僕には、そんな思いがあった。
青臭いと世の中から笑われてしまうのかもしれないけれど、生活に愛がないことが最大の問題に違いないと思っていた。
経済大国として、以前の勢いが戻らないことが、僕らの抱えていた不幸ではなかったことだけは、本当なのではないだろうか。
バブルの時代など、後にも先にも一瞬の出来事で、なかったことなのだ。
だけど、その一瞬の繁栄の時代からの享受の元に育まれて来たものまた、僕らの世代だった。
だから、いつもバブル的なスタンダードの中に意識は今も根付いてしまっていたのだとも思う。
僕自身の話だ。
だから、何かが心の中で空回りを続けていた。
それは何だか、一度スターになった人が、その座を退いた時に精神的なバランスを欠いて、不毛な価値の奴隷となり苦しむパラノイアにとても似ていた。
贅沢病だとも言えただろう。
だからといって、甘えだと理屈を並べたくはなかった。
足るを知れなどと欲望を何か抑え込むような方向性で、物事の解決を図ることとも別な境地というものを求めていた気がする。
我慢は、別の皺寄せを生み出し、悟った訳ではなかったのだろう。
僕らに必要なことは、真の深い時代や生き方への理解だった気がする。
何が正しくて大切なことなのか。
理屈などでは、決して割り切ることの出来ぬ人の心。
もっと純粋な何か。
その場所へと、悲しみは回帰すべきに違いないと思っていた。
そして、それがソロでもフレンチトーストでも、僕が歌いたかったテーマだと思う。
権力のいう通りに国民が動くこと。
それが現政権の一番欲していたユートピアに違いなかった。
経済の話の裏側で。
だけど、経済に期待していた僕らの暮らしは、守りに入っていた。
保守的な思想の拡大と蔓延。
若い世代は、貧困からの脱却やそれに付随した苦痛からの逃避を叫び、そちらに傾いていたということだったのだろう。
だが、問題は貧困であって、貧困ではなかったのだと僕は思う。
とても矛盾した言い方ではあると思うけれど、本質的に問題点は貧困という現実自体よりも、そのことに対しての社会の取り組む姿勢やシステムや反応することの格に根付いていたであろう思想と価値観にこそあったという話なのだと思う。
そのことに気付き、直視したライフスタイルの再構築にこそ、真の希望があった。
優しい感受性というものを、人間社会が取り戻そうと心から改心する段階にまで、辿り着けるかどうかという闘いの中に日々はあったのだろう。
感受性を無視することが、バブルの時代のスタンダードだったと僕は思う。
それは、人間らしさの排除に他ならない。
スーツに身を包んだ企業戦士に、ゆるさは必要なく、二十四時間働くことが求められて来た。
その思想の枠の中から、まだ脱却には及ばぬ、この暮らしを見つめている。
歌は、感受性そのものだったと思う。
八十年代くらいまでは。
九十年代に入ると、テクノの時代が到来して、リズムが重視されたと思う。
リズムは、ノリのことだろうと思う。
思想を温める心の動きではなく、考えることを忘れて流れよ。
そういった時代の空気だったように思う。
感受性を尊重した歌の世界から離脱した路線で、ジャパニーズロックは生きながらえようと足掻いているようだった。
現代は、少し前に発音ミクの時代へと流れ込んでいたが、バーチャルへと逃避する心理が如実に伺える時代に、人は何を思い暮らして来たのだろう。
現実が余りにも重くて辛い時に、人はリアルから逃避を始めるのだと思う。
人間臭さが堪らなく嫌になり、二次元的な世界へと逃げ出すのだろうと思う。
実写版の映画よりも、特撮的なバーチャルへと意識は流れ、そして恋愛すらも面倒事に思えて来る。
リアルは面倒が多いから、もう何かにぶつかってゆく体力もなくて、心が疲弊していたのだろうという気がする。
だから、感受性を紡ぐ歌の世界は姿を消して来たという仮説を描くことが出来る気がする。
だけど、今必要なもの。
それが、本当は逃避している対象がまさに秘めていた筈の感受性だったということなのではないだろうか。
きららカフェにて、フレンチトーストの新曲達をひとしきり披露した頃。
一組の親子が登場して、やって来てくれた。
つい先日、SNS繋がりのお母さんと、今度またきららカフェさんで、小学四年生の息子さんが習っているウクレレを聴かせて下さいとやり取りしたばかりだった。
今年に入って、益々言葉や思いが現実になってゆく速度が加速していた。
人間の想像力こそが神なのだということが、良く分かる気がした。
お母さんと連れだってやって来た息子さんは、お笑いの素質十分の性格で元気だった。
お母さんとウクレレを弾いて、カントリーロードの日本語バージョン等を披露してくれた。
そして息子さんは、マスターからドラムを習い叩いて遊んでいた。
子供の秘める可能性について思う。
いつ何をきっかけの出会いとして、能力を開花させるか分からぬ存在だ。
人の役に立てて、愛される人になって欲しいなと願わずにはいられなかった。
それが、社会全体の幸せに繋がるのだから。
偶然続きなのだけど、今月僕が行った岡山の倉敷であったさだまさしコンサートに、親子で出掛けられていたことを、後でSNSの投稿より知った。
知り合いの繋がりから、楽屋にお邪魔させてもらい、直接さださんやピアニストの倉田信雄さんに会われたとのことだった。
本物に触れられる機会に恵まれたことは、本当に幸せなことだっただろうなと、その話を聞いて思った。
言葉を越えて伝わって来る何かが、きっとあるもののような気がした。
直接会った感想を尋ねると、倉田さんは優しく、さださんは大物ぶった雰囲気のまるでないナチュラルな人柄だったとのことだった。
いつのまにか部屋にフウッとやって来て、また知らない間にフウッといなくなるようなさださんについての印象が、とても興味深かった。
それからもう一つ話があった。
お母さんは、僕の好きな玉置浩二の歌が好きだとのことで、ここにも共通点があり、安全地帯の大ヒット曲であるワインレッドの心を歌わせてもらった。
この曲は、玉置さんがソロになり自ら弾き語りスタイルでステージに立つようになった頃に、偶然僕は弾き語りを始めていて、その頃に覚えた曲だった。
高校の学園祭のステージでも、バンドブームの中、弾き語りで歌っていたことを想い出す。
クラスに居場所が見つけられないような少年だった当時の僕は、自分は歌えば社会参加出来て、居場所が与えられることを肌感覚で理解していったことが甦って来る。
歌は僕に、生存の本質的問題への解決を与えてくれていた。
だから僕は、生きる為に歌い、歌う為に生き始めていた気がする。
とてもリアルな日常の足音。
そして、その足元を支える政治的な事柄にまでロックが鳴り響いてゆくみたいだ。
音楽に小説に映画。
まだ、何か人の暮らしの幸せの為に役立てるような、そんな力がアートに残っていて欲しい。
僕は祈っていた。
政治的なことを歌わないロックが、ロックだと思われていた時代に。
ブルースは魂の解放への叫びだったが、この国ではもうその意味は残っていなかった。
感じて考えるという生への衝動から解離した世界を彷徨う、娯楽パラダイス。
それを僕は、ジャパニーズパラダイスと呼んだ。