ワイマールの遺伝子

 幾つもの運命の糸が、無限の可能性の中で絡み合い、愛憎劇を織り成してゆく。
 僕らは、一体何処へ漂流しようとしていたのだろう。



 ヒトラーという名の、昔ドイツに生まれた独裁者の素顔が知りたいと思った。
 彼は芸術家的感性すら持ち合わせ、心霊術にさえ長けていたと伝えられていた。


 なるほどという思いになり、僕にとって、それはとても納得のいく情報ソースだった。
 たぶん彼は、一世紀や二世紀くらいは軽く、人類の向かう未来を透視していた気がする。
 それは世の中で言われている様な、オカルト的な薄気味の悪く胡散臭い心霊術という訳ではなく、ある意味芸術家的なヒトラーの資質として備わっていたであろうインスピレーションだったのではないか。
 勿論、そこに邪念が渦巻いていただろうし、同調した魔界の使者が群がっていたと思う。
 僕は、そう考えていた。


 暴君。独裁。
 そんなものが、一体何故、当時の民主的だったワイマール憲法の条文の隙間を縫い、巨大に蔓延って行ったのであろうか。
 ここに社会学が見逃してはならない民主制度の落とし穴があった事は、今更言う迄もない事実だった。
 ヒトラーは、議会の中で民主制度を巧みに利用して勝ち抜いて行った。
 一党独裁を実現する道を、彼は政治家としての改革を見せつける中で、その支柱に引き寄せて行った。
 群集心理を煽り、架空の敵国を想定した天才的演説をぶった。
 そして、ヒトラーはこう言って退けたのだ。


 この道しかないと。


 それは、天運を怪しい色に染めてゆく、悪魔支配のリズムに乗せられた最高のスピーチとなった。
 大衆は見抜けなかった。
 ナチの野望の真相を。



 この道しかない。


 つい最近聞いた事のある、不気味な言葉だった。
 西暦二〇一六年の日本は、何処へゆこうとしているのか。


 二〇二〇年の東京五輪迄に、一つのフィナーレを迎えそうなこの悲しき経済戦争よ。
 とても心優しき善良で無知な民は、ワイマールの遺伝子を受け継ぐ者達であった。
 音楽にスポーツ。
 様々なエンターテイメントが、華やかに時代の花を咲かせていた。
 だが、この国では時代に危険信号を発する魔界のリズムが聴こえて来ないではないか。
 ワイマールの遺伝子を受け継ぐ者達よ。
 お前は知らなかったと言うのか…


 地獄を決して忘れてはならないのに。
 僕は、この国に魔界のリズムに乗せた魂の叫びが轟くべきだと思った。
 ナチという名のサタンの存在を、人々が思い出さなければならなかった。



 一体何故、ビートルズの全盛期に大人や社会が彼らのロックを敬遠したのか。


 ビートルズは大衆娯楽的なポップ色が強く、人間の苦悩を鮮烈に描くという程にロックな訳ではなかった様に思う。
 事実、ジョン・レノンビートルズを解散させていた。理由はどうであれ、ビートルズは何か壁にぶつかり失速した。一時代を築き上げ、その役割を果たしたのだと思う。
 ヨーコと出会ってからソロ活動が、ジョンの魂の叫びの真骨頂であった。
 真にアーティストの道を歩み始めた。ビートルズを商業的に成功させる事は、一ミュージシャンとして社会に対する発言権を持つ為の足掛かりとしてのきっかけだった様に思える。勿論、唯一無二のスーパーバンドであり、四人にとって運命的出会いであったと思っているけど。


 売れなきゃ、誰も思想なんて聞いてはくれない。
 それが、二十世紀的な世界観という乗り越えるべき壁として存在していた事は事実だろう。
 商業ベースの土台を形作って行ったビートルズは、現在の旧体制組織に何時の間にか擦り変わってゆき、革新的だった彼らの様々な要素を含む総合的なスタイルは、時の中で違ったものになって行った様に思えた。
 そいつをぶち壊さないと、次のロックを誕生させる事は不可能な気がする。
 もう売れる為のロックに時代は救えない。
 芸術が退屈になり、既成概念の奴隷へと成り下がってゆくよ。
 廃れてゆく精神には、ロックは宿りはしないだろう。
 安全牌で逃げ切れる程、ミュージシャンとしての人生は甘くはない。



 革命的だったビートルズサウンドを、当時の社会は忌み嫌った。
 人間の精神を、愛と自由へと解放させてゆくロックを恐れていた。
 つまり狂気性を排除しないロックという文化が、ナチズムとは対極の平和を本当は実現させる性質を帯びていたという事だ。
 人々は二十一世紀になった今も、その事実についてまだはっきりと自覚はしていない様に僕は感じていた。


 この国に今ある音楽には、狂気性が余りに足りていない。
 去勢されたロックなのだと感じていた。
 全ての心の闇を、社会的な場で共同認識させる手立てとして、狂気性を孕んだロックを轟かせた方が良いと僕は考えていた。


 愛と苦悩は、常に一対のものである。
 人は愛するが故に、憎み苦悩する。
 僕は、今あるこの平和にとても大きな疑問と違和感を覚えてならなかった。
 確かに素晴らしい平和には違いなかったのだけれど。


 そして、社会の闇と日常の表層部との温度差について、とても危惧感を持っていた。
 全てを理解した上で明るいという事と、無知故に平和にのぼせ上っている事の違いを強く感じてならない。
 今の日本社会は、後者よりではないかという思いが常に僕の心に付き纏っていた。


 音楽は、もっと人を孤独にした方が良い。
 もっと絶望しておいた方が。
 闇の中にこそ、真の希望の光は生まれるものなのだ。
 もっと芸術は泥臭いものではないか。
 そんなに奇麗に収まる程、人の世の矛盾は単純でもないだろう。
 僕はそれに立ち向かえているか。
 自分を偽り、誤魔化してはいないか…




 ユダヤ人が大量虐殺されて、その屍が辺りに山と積み上げられた歴史がある。
 強制収容所では、骨と皮だけになった丸裸の人々が奴隷になっていた。
 誰もが、そんな悲劇が起こっていた事を知らなかったと言い、現実から目を背けたと伝えられていた。
 ならば、現在の福島はこの強制収容所に当たるのではないか。
 社会の不条理を押し付けられた人々。
 何が東京五輪だ。
 僕らは皆、卑劣な偽善者みたいだ。


 知らなかったでは、もはや済まされるものではない。
 知ろうとはしなかったというのが正しい表現だと思う。
 不都合な真実について。



 憲法の条文に記載されている一文が、時代の闇にうずくまり身を潜める様に書き込まれている。


 緊急特別条項。
 一国に危機が迫ったとされるその時、事実確認の為の術も僕らには何も与えられないままに、指令が各機関へと発動されてゆくんだ。
 時の首相一人に、独断で国を動かす権限が与えられてしまう。
 憲法が、民に命令を下し支配する絶対的権力へと姿を変えてゆくという事だ。
 あのヒトラーが、ワイマール憲法という名の民主制度の隙間を掻い潜る為に、巧みに利用した一文だった。


 国会討論が続く。
 与党が首相を追い詰める様に、政策を表向きには批判している。
 だがその言葉は、緊急特別条項を持ち出さなくてはならないと暗にせき立てている様にさえ思える節がある匂いがした。


 隣国の脅威を叫ぶ、政界の不審な動き。
 九条を何が何でも排除したいのだろう。


 僕らは、福島を強制収容所にした挙げ句に、青少年を戦場へと送る契約に調印するのか。
 目先の豊かさという名の幸せをチラつかされて、まんまとあっさり騙されてゆく人々。
 人間の慟哭が鳴り響く歌がない世界とは、本当は一番魔界に近い平和の様な気がする。
 天国色にうつつを抜かし、社会の表層を取り囲むバラエティー色が、この国の素顔を隠していた。


 飢えた獣の姿の様な、森に放り出された人の心の欲望の凶暴さについて、この過保護な社会は忘れた振りをしている。
 怒りを何処かに置き忘れてしまっている。


 プライド。
 尊厳。
 そんなもの全てを。


 正当な怒りは、今何処にあるのか。
 腐った街に埋もれて、本当はただ物事を分かった様な振りをして、悲しみから目を背け諦めているだけなのではないか。
 優しさではなく、慣れ合いなのではないか。
 絶望に立ち向かえない人間が、本当に優しくなれるのだろうか。


 僕らは、簡単に他人を批判してはいるが、それはただ単に相手の境遇を思いやるという自身の能力の欠如という問題なのではないか。
 思い至らないから、想像が及ばないから、批判を続けているのではないか。
 全てが明かされたとしたらどうか。
 人々の背負った人生の悲しみを、痛烈に目の当たりにしたならば。



 ならば、あの独裁者であるヒトラーという人間の人生の物語はどうだったのだろうか。
 ヒトラーの悲しみを僕らは知っているか。
 キリストの背負った十字架の意味について考える事と同じくらいに。


 悪魔とは一体何だ。
 神とは一体何だというのか。


 ヒトラーは、自分の背負った悲しみに見せられた地獄絵を描いた。
 同等の質量を持って。
 彼はとても許せなかったのだろう。
 この世の偽善を。


 ヒトラーは、人々から微笑みを投げ掛けられるに値するか。
 彼のことを、世界は何処まで受容する事が出来るか。
 彼程悲しく孤独な人間もそうはいないだろう。
 ただの精神異常者として片付けてしまってはならない。
 彼は、平和を真に示す救世主にさえなりうる人物なのだから。
 これは讃美ではなく事実だ。



 君は、あの条文の一節をどう考える。
 本当の声が聞きたい。


 再びナチの台頭を再演する可能性の眠るワイマールの遺伝子を、その意識の中に呼び覚ませ。
 心の闇に眠る狂気が真に覚醒するよりも早く、悲劇からの教訓という名の武器を手に取るのだ。