DARK BLUEのシルエット

 路面電車内には、地方都市で働く背広姿のサラリーマンやOLに買い物帰りの主婦等の姿が目立っていた。
 時刻は午後六時辺りのことだ。



 夜の帳にすっかり呑み込まれた、岡山の街並み。
 僕の暮らす街からは、庭先感覚で出向くことの出来る桃太郎の街だ。ヘッドライトやテールランプ、それに総合デパートや街灯等の光が路面電車の車窓には無限に溢れ流れてゆく。安定したインフラは、昭和の高度経済成長が生んだ世界レベルの遺産に違いないと思った。


 僕はその時、井上陽水のUNITED COVER2と題されたコンサートを聴きに行く為に、岡山市民会館へ向かっていた。
 長年抱き続けた念願でもあった、陽水コンサート初参戦の夜だった。



 考えてみれば、陽水というシンガーソングライターに、僕はとても大きな影響を受けて来た。
 少年時代に一番好きだったのは安全地帯だったけど、彼らのヒット曲の多くの作詞を手掛けて来たのは陽水だった。その他の曲は松井五郎が担当し、その詞の世界に僕は育まれた。
 小学校の朝礼台の上に座り、図画の時間に風景を描いている時にも、ワインレッドの心を口ずさんだ。


 岡山の街も段々と姿を変えてゆく。
 僕が少年の頃から知っている街は、生き物として経済システムの中で呼吸を続けている。街にやって来てからずっと、そのことを感じていた気がする。


 在来線を降りて、駅の地下街を歩いた。
 すると、新しく誕生したての巨大なモールにぶつかった。取り敢えず中に入って、エレベーターでモール内を散策する。エンターテイメント施設の様な派手な設計は、モダンアートとしての味わいに満ちていた。
 そこら中に様々なファッションブランドのショップがあり、広々としたモール内は如何にも土地に余裕のある岡山っぽいスケール感を漂わせていた気がする。
 駅の地下街からモール迄の通路ですら、緩やかな高低差があり、丘を歩いている様な気分にさせられた。平日の街を歩く市民の数は、だだっ広い空間が設けられている割には少なく感じられた。



 路面電車の席に座り、たった三つ先の停留所迄の旅の中で、僕は現代を垣間見ていたのだろう。
 吊革に捕まる人も沢山いて、ほぼ満員に近い乗車率となっていた。
 平日の一日の終わりに疲れを纏った人々は、それでも何となく幸せそうに見える。定年真近といった歳に見える、向かいの席に座るサラリーマンは微笑みを浮かべ、イヤホンから流れて来る音楽か何かを聴いている。その場にいる誰もが、今の暮らしに大きな不満はないと無言で語っている様な風景が広がっていた。


 陽水さんは、今何歳になったのかな?


 僕は、とても暮らし易いインフラに保護されながら、この豊かさを獲得する為にがむしゃらに働いて来た世代のことを思った。
 それは陽水さん達よりも、もう一つ上の世代になるのだろう。そんなことを考えながら、それなりの幸せにあり付くことの出来る現代の暮らしに調和と違和感を感じている。



 戦争や人種差別。
 それに宗教の争いや深刻な社会の貧困。そんなものに誰も直面して来なかった平和の素顔を見つめている。


 今、この国でそれらのことを考え語ること。
 それは何だか、周りの空気と合わず、浮いた存在となってしまう。だが、国際的な場では寧ろ、今の日本人こそが特殊で、浮き足立った生き物となってしまっていたに違いなかった。
 空気を読んではいけない。
 感覚を殺すことは危険なのだ。


 バーチャルリアリティーに頭をやられている。
 ゲーム世代は、現実として起きていることと二次元よりに傾倒した意識とが切り離され、酷く解離していて、状況判断に狂いが生じているのだと思った。子供達の中には、死んでもゲームみたいに生き帰ると信じている子供迄いる。
 そういった特性は、何もそんな子供にだけ該当するものではない気がした。
 大人がそういった感覚を持ち合わせている。それは、イマジネーションの広がりとしての体感イメージではないのだろう。実際には、現実的な判断を下す為の大元である想像力が貧しくなっているのだ。そんなことを考えていた。


 そして、テレビという最強の思考停止へと誘導するマシーンに掛けられ、この国に生きる多くの人が同調させられて行った。
 僕はそう感じて来た。
 音のない部屋で一人静かに座った時、心の底からざわめいて来る感情の正体を説明出来る大人は実に少ない。
 自分の心を誤魔化した結果、未消化の思考が行き場を失くし、感情の流れが澱んでいる。
 テレビは大衆に価値観をマシンガンで連射する様に打ち込んでゆく。
 これが善だ。これが格好いい。そうやって右向け右と号令を常に掛けている。
 テレビに出たら、人は神になってゆく時代があった。
 その価値観は、僕ら団塊ジュニアくらい迄の世代には圧倒的な支配力をいまだに発揮していた。実際には、霊性が高かろうが低かろうがテレビに出演することが出来る訳で、有名になれる。大衆はそのことの意味を誤解してしまっていた。


 億ション住まいのセレブへの憧れ。
 それは何も問題なく構わないことだけど、努力が伴わなければ妬みや嫉妬が怠惰な心に住み着いてしまう。富裕層を羨み、下を見てば蔑みの心から優劣を付け、自分はまだ幸せな方だと笑みを浮かべる。そういった価値観に伴う支配欲求を、多かれ少なかれ誰もが持ち合わせている気がする。それが原発利権社会というものではないだろうか。


 体感とは逆の作用をバーチャルリアリティーやテレビ等のメディアが育んで来たと言えるだろうか。
 何も全てを悪とは勿論思っていないのだけど、そういった負の要素についてしっかり意識を持ち考えてゆくことが大切だと思っていた。
 そして、デジタル一色に染まった現代にアレルギー反応を示す様な若者達が登場し、アナログへの回帰が始まっていた。
 地に足の着いた、当たり前の意見を普通に交わすことの出来る社会になって欲しいと僕は願った。


 娯楽パラダイスのお花畑で、皆で資本主義に最敬礼し、低レベル放射性廃棄物になってしまった食品を食べて、それでも未来は明るいと東京五輪を夢見ている。
 企業のトップは、どうしたいのだろうか。
 経営を成り立たせることだけに、己の生涯を丸投げして、神を欺くというのか。
 企業戦士達は、ただ黙ってトップの言いなりになっているだけで、本当に自分や大切な人達のことを守り抜けると思っているのか。
 僕は良心の呵責に耐え兼ねる。
 今のこの日本社会の腐ったシステムと経済第一主義に。



 現代に求められているものは、資本主義の上に新たな価値観を更に構築することやシステムの矛盾を解決してゆく為の哲学だった。
 もう資本主義に明るい未来は生産出来ず、時代は極限を迎えていた。
 経済に期待しても、最後は無駄な結果に至る気がする。いずれは自然の摂理が全てを正しく導き治める。行儀良く躾けられた僕らは、社会のレールが壊れればたちまち路頭に迷 うに違いない。
 特別、経済学に詳しかった訳ではなかったので、あくまで肌感覚で捉えている様に思える世界のイメージを無責任に表現しているに過ぎなかったのかもしれない。
 音楽を生み出す行為にしても、理論を積み重ねて形作ることのない僕は、体験的に世界にぶつかることで何かを生み出す方が昔から肌に合っていた。


 この幸せは、権力層に守られ与えてもらっている相互関係の中で成立している。
 つまり、良い学生であり良い社会人という模範的生き方をすることへの対価として還元されて来た幸福だ。特権階級に媚を売ることを、誰もが無意識的に反復させられ大人になるのだ。


 だが、もう原発産業は実質的に、3.11により破綻していた。
 高度経済成長の浮力も底を尽き、放射性物質の問題がもっと明るみに出て襲い掛かるのを待つばかりとなっていた、仮想現実を漂う様な呑気な平和惚けの街。
 巨大なインフラを実現したのは、ここにいる誰でもないのだろう。
 僕はそう思った。ただ与えられ引き継いで来た。



 電力会社は丁度、家庭用のスマートメーターの設置を進めていた。
 デジタル管理の目的が表向きには謳われていたけれど、個人情報の取得が可能なもので、海外では高い電磁波が出る最新型のこの家庭用電気メーターは危険視され社会問題となっていた。
 関西では、そのことを知る市民が設置を拒否すると、既に設置後だったことはあるものの対応はずさんで、取り外し迄に四カ月掛かったのだとか。
 随分上から目線の対応だったらしく、電力会社は、百姓に年貢を取り立てる現代の悪代官の様だった。


 テレビでは、人気タレントやコメディアンが某ハンバーガーショップの広告塔に抜擢されてコマーシャルが流されていた。
 相当に悪質な食品生産のシステム。
 事実を調べれば、それはもはや人が口にすべき食べ物などではなかった。
 僕は高校生の頃に、このチェーン店で初めてのバイトを経験していた。
 当時は、そんな資本主義的なシステムのずさんさについて何も知らず、毒塗れの食べ物を販売する立場にいた。
 社会生活って何なのだろうと考えてしまう。
 社会がそう成り立っているから仕方がないのか。歯車としてしか生きられないのだろうか。そういったことをずっと考えて来た。
 暮らしの中で抱え込んだ自己矛盾をどう昇華させるのか。
 それが僕のロックの意味となって行った。



 この国には本当に未来などあるのか。
 誰も問わない。


 素晴らしいインフラに過度に守られること。
 それは資本主義からの虚勢を受け入れるという意味でもあった。その支配下で、一滴の水を乞う様に労働の対価が支払われる時を待ち侘びる人々。
 過保護なシステムに飼い慣らされ、人のあるべき姿を見失った現代を僕はまだ諦めたくはなかった。


 大量死という時代の到来。
 余りに過酷な運命に翻弄された現代。
 率直に発言することを思わずためらってしまう。
 だけど、余りに平和惚けの酷い幸せそうな街の風景を見ていると、僕は思わず叫び出しそうな衝動を覚えた。
 仮想現実。


 僕らが生きているのは地球というジャングルだが、高いテクノロジーの生み出したインフラはその事実を捻じ曲げた仮想体験を僕らに与えていたのだろう。
 人間が地に足を付けて生きることから精神を切り離し、幼児性を抱えたまま僕らは、常に強者側から支配され与えられることに、逆に期待している様な生き物へと成り下がっていた。
 自分の人生への責任の取り方が分からず、常に周囲に嫉妬したり不自由を感じている。
 誰かが自分を幸せにしてくれる。そういった甘えが、責任の伴わない自由を育んで来た気がした。そして、他人に無関心になって来たのだろう。自分に何かしてくれる対象にのみ価値が生まれるという、心理的サイクルの中で暮らしは続いていた。


 SNSでは毎日、他者からのコメント等による承認欲求に飢えた投稿が列をなし、あやしてくれる人のことを優しい愛情のある人だと勘違いしている。
 この国では、誰も答えを探していない。
 探していたのは、答えではなく絶えず自分の欲求を満たし与えてくれる存在だった。それは高いインフラがもたらした精神的な負の遺産となり、現代を築き上げていた。



 僕は陽水の音楽が好きだ。
 だが、その夜彼がメッセージを発することはないのだろうということも知っていた。3.11以後の社会について。


 丁度数日前に、世界ではボブ・ディランノーベル文学賞を受賞していた。
 僕はディランに決して詳しい訳ではなかったのだけれど、メッセンジャーとしての彼は、生涯一貫した思想を世界に投げ掛けて来たのかもしれないと思った。
 例えば、ディランと陽水とを比べることに意味はあるのか。
 役割が違うのだろう。きっと、ディランも陽水もそのことを良く分かっている気がする。だが、リスナーはどうだろうか。


 彼らミュージシャンは、心の中に哲学的なインフラを築き上げて来た側の当人だと思った。
 だが、大衆は与えられたインフラを手に、どこまで現実を切り開いて来たのかが不透明に思えていた。
 ロックが宗教的になり、一人のカリスマに何かを背負わせること。
 その構図には、Give Meというファン側からのミュージシャンへの期待が感じられてならなかった。どんなに正義の為に闘っても、最後はスケープボードにされ見捨てられる。
そういった大衆という存在の持つ残酷な一面へのイメージが、僕の心の中に染み付いて離れなかった。キリストの時代から繰り返されて来た事実だと思った。
 だが、それでも人は自らが正しいと信じるものの為に、この世の不条理を解決しようと努め、愛しき者達を守り抜く為に期待を捨て、悲しみに立ち向かってゆかなくてはならないのだろう。
 それは余りにも無謀な挑戦なのかもしれない。大衆の残酷さを知りながら、愛するということを如何に全うしてゆくべきなのか。


 ディランの言葉が大衆の心に火を点け、一時代を動かしたという事実。
 それは大きな功績に違いなく、人々からの称賛を受けるに値しただろう。
 9.11が起きて、佐野元春は現実に対して自分の生み出す音楽がそのリアリティーに追い付かないといった様な話をしていたことを思い出す。
 芸術に仕える者達が、その闘いに苦戦していたというのは本当のことだったのだろう。
 大衆の意識を少し高い場所へ導く役割を果たすこと。
 ディランが昔成し遂げた様に。
 大衆が何となく気付き掛けてはいるが言葉に出来ないことを表現すること。
 そういった存在は、今の日本には不在だった。
 人々は社会的な矛盾から解き放たれ、もっと幸せになる権利があった。
 社会制度を見直すこと。
 3.11がこの社会に課せた命題だった。それは制度やシステムの矛盾を鵜呑みにせず、自立して新たなる価値観の下に生き始めるということ。パラダイムシフトのことだ。



 社会生活の中で、本当に自立するということは一体どういうことなのだろう。
 僕らは何か当然の様に、自分の責任を転嫁した対象に依存し自立し切れていない。
 社会規範が総崩れとなり、過去の常識と今路上に吹く時代の風とのギャップが生み出した摩擦が、原発利権社会の底辺へと押しやられた人々の暮らしを追い詰めていた。
 だが、巨大なインフラは目隠しとなり、その事実を捻じ伏せていた。
 誰も責任を取らないのは、自力で生きて来なかったライフスタイルを思えば当然だったのかもしれない。
 権力層に守られているという錯覚を起こした、平和惚けの現代という共同幻想の成りの果てを見ていた気がする。
 その証として、こんなエピソードがあった。


 関西であった最新式の家庭用電気メーターの設置を拒んだ話に戻るのだが、設置をする電力会社の社員は最新式メーターがどういう物であるのかについて、まるで無知なまま仕事をしていたとのことだった。
 それは、仕事とは情熱からするものではなく、あくまでも経済活動の為なのだと告白している様だった。
 自分のする仕事の質や機能がもたらす幸せ等についてよりも、違った目的がある。そこに自己矛盾すらも、もはや感じていなかったのだろう。
 生きることについて、本質的に与えられることにのみ反応を繰り返すようなライフスタイルの存在について、明らかに人は思い馳せるべきだった。


 内部告発がもっとあって然りであっただろう、腐敗した社会情勢が続く。
 皆、無知なまま他人を陥れる生活を当たり前に繰り返していた。
 僕が学生時代に、某ハンバーガーショップで薬品塗れの酷い食べ物を、事実を知らず売り付けていた頃の様に。
 職場は完全にマニュアル化され、人の心の正しさ等は二の次で、時間の早さや生産性にのみ労働の対価が上乗せで支払われてゆく世界だと思った。ロボット人間がいれば、世の中はそれでいいと言わんばかりだった。それが平成へと時代が生まれ変わったばかりの頃の日本社会のスタンダードだった。



 路面電車は間もなく、目的の停留所へと差し掛かった。
 陽水コンサートへ足を運ぶ集団の中の一人だったのかもしれない。
 下車を知らせる為のボタンが押された。停留所に到着すると、ズラズラと列を成し下車して行く一団に紛れ、運転手席側に設置されていた料金ボックスに運賃である百円を入れ、開け放たれた出口の扉のステップを降りた。



 市民会館大ホールの客電が落ち、向かってステージの右側から陽水は登場した。
 その姿には、取り立てて気負いはなく、ベテランの風格を漂わせている様に見えた。自然体の陽水がそこにいた。


 演奏されてゆく曲からは、まだ昭和の繁栄の頃の祭囃子が聞こえて来る様だった。
 センチメンタルⅡや氷の世界といったアルバムを聴いていた少年時代に一瞬でタイムトリップしてゆく。あの頃、ギターを弾きながらよくコピーをして歌っていた、懐かしき陽水ワールド。
 ダークブルーの照明の中で、陽水のシルエットが謎めいて踊っていた。
 アンチテーゼはきっと、彼の思想の原点に眠っていたものだったのだろう。
 アーティストを美化して語るつもりはない。
 神格化するのは、尚のこと嫌いかもしれない。


 コンサートの中盤で、ボブ・ディランの曲を歌った彼は、何になろうとして来たのか。
 それとも何者かになるのではない生き方だったのだろうか。


 トークの中で、“媚を売りながら”というジョークとしてのフレーズが聞こえて来た。
 陽水はどの様にその多感な青春を送り、大人へと脱皮したのだろう。どの様にして社会的矛盾を許容して来たのか。僕の中で、そういったことにとても興味が向かっていた。
 初期の作品に感じる時代への焦燥感みたいなものや、若き日の迷い等の影は殆どといっていい程感じなかった。
 青春は永遠に続く訳ではなく、人は何処かで社会との折り合いを付け大人になってゆくものかもしれない。
 社会的矛盾や自己嫌悪。
 そういったものに向かっていた苛立ちは、ユーモアによって救われるだろうか。
 女性という生き物については、僕は男なので良く分からないけれど、硬質な魂を持った少年が大人の階段を上ってゆくことは、とても苦難に満ち溢れた挑戦だろうと思う。
 青春の嵐の日々の中で苦悩を抱えたまま、途中で恋愛へと逃げ込むという抜け道はこの手の少年には選択肢として残っていない気がした。


 今の陽水の姿には、大らかさを感じる。
 陽水と僕とは、明らかに生まれ育った時代的なバックグランドが違っていた。だけど、この社会に育まれて来た僕は、陽水の辿った人生に無関心ではいられない何かがあった気がする。


 団塊の今持っている社会への視点や僕らの世代の持つ視点とを結ぶ何かを、僕は自分の言葉で歌わなくてはならないと勝手に思っていた部分もあったのかもしれない。
 特に求められてのことではなかったけれど、社会的義務が生きていれば発生するものだ。どうせ好きで音楽をやっているのならば、それくらいの意識は持っておいた方がいいと僕は考えていた。



 インフラは整っていて当然のものと認識したまま、様々な豊かさを享受され育まれて来た僕らには、もう一つ乗り越えるべき精神的問題がある。


 今、九条のことをどの様に考えるのかについて思考停止しているのは、まさにインフラありきの人生の象徴でもある気がした。
 誰か偉い人が解決してくれる難しい問題で、話が大き過ぎて自分には良く分からない。
 そんな回答になっていないであろう回答には、どこか無難に立ち振る舞う利口さを感じる気がするが、それは本当に正しいことか。それは過去の社会規範の中での優等生の回答だったのだろう。そう回答を導き出すように価値観を頭の中に叩き込まれ育ったのだから、社会的に正しかったのだ。


 人は権力層に対して、無自覚の内に媚びている。
 そして、そんなことをしても無駄だと抗う人を笑う。それは、嫉妬の心理の裏返しだ。
 自分を生きたことのない人間は、とてもやっかみに満ちている。
 本当は、自由に生きる人間のことが羨ましいのだと思う。3.11以後に社会に吹き荒れた、同調圧力の正体でもある。



 僕は、音楽イクオールLifeというスタンスを貫きたい。
 そうでなければ、僕にとっては意味がない。


 虚構を織り交ぜながら、ダークブルーのシルエットは歌い踊った。
 回り回って真理を言い当てているトリックならば、それは既に虚構ではないのだろう。
 僕の血の中に、陽水の情熱が注がれて来た。
 そんな彼は、あっさり語っていた。
 MCの最中に。
 五年後に会場にいるファンが人生の中で大変な出来事に出会ったとして、その時に、今日自分が話した言葉が支えとなり、といったようなことは何も喋らないと。
 ジョークとしての言葉で、会場は笑いに包まれていた。
 だが、それは現在のリアルな井上陽水というミュージシャンの取る社会とのスタンスだった気がした。
 俺の役割じゃないから。そんな風に言っている様だった。


 団塊の世代から引き継いだ遺産を、一体何処へ向かい繋げ手渡してゆけばいいのだろう。
 井上陽水は自分の役割を演じ、時代を支えて来たと思う。
 やはりある種完結したものを彼のステージに感じていた気がする。



 彼には怪しげなダークブルーが良く似合う。
 月明かりの夜。
 都会をジャングルに変え、密林地帯の中にあるオアシスの様な空間を音楽が生み出してゆく様だ。
 大自然の中に超高層ビルをそびえさせ、文明の営みの息遣いのリズムで生きる意味を問い掛けている様でもある。


 コンサートの本編ラストを飾っていた海へ来なさいという楽曲が、深く僕の心の中に染み渡っていた。
 僕は、現実と幻とが交錯しては生み出されてゆくステージに食い入りながら、ダークブルーのシルエットに誘われ、答えの出されていない現代という名の大海原を漂流していた。