フラクタルの暗号

 隣人を如何に愛するのか。
 そんな永遠のテーマに人は生かされていた。



 毎日は他人からの承認欲求の嵐だった。
 僕自身、周囲の視線に酷く脅えることもあった。
 何故、人は自分の価値を他者からの評価に委ね生きるのだろうか。
 とても移ろい易い他人の気持ちに一喜一憂している。


 僕は家庭という名の国家の中で、ずっとこの世界を見詰めていたのだろう。
 この世界の全ては相似形である。
 他人のことを知りたいならば、己の心理描写を怠っていては永遠に理解には及ばないだろう。
 答えは全て、個体意識の中に眠っている。
 全てが相似形なのだから。


 宇宙は無限に広がっていると科学は現代の定説を語る。
 きっと、それは正しい。
 宇宙は、人の心の様に無限に広がり掴み所がない。
 大望遠鏡を宇宙に向け、暗黒の世界を探索する天文学
 知的生命体が実在することを願い、交信を図ろうとして来た。
 電波信号を交信の手段に発信したり、また受信しようと繰り返しながら。


 異星人やUFOの存在について、実在するか否かの論争が果てしなく続く。
 人類は確実に宇宙人であるから、身も蓋もない問い掛けの様だった。
 人類よりも進化している存在は、姿を隠すだろうし、知的に劣れば支配を企て襲撃して来るのか。
 SFファンタジーは、非現実的なことの様に思われていたけれど、そんなに遠い世界の話などではない気がした。


 高度に進化した知能を持つ生命体は、人類の抱えた試練や発展のドラマには明らかに干渉したりはしない。
 自然の摂理の中で、如何に人類が時代を選択し生きてゆこうとするのか。欲望の果てに滅んでゆくのか。それとも新たなる愛と調和を見つけ出し、その高みへと自由の翼を羽ばたかせ上り詰めてゆくのか。
 愛を実践する知的生命体であれば、人類の自由意思を第一優先として見守ることを選択するだろう。



 オカルトブームが不安定な世界情勢の続く時代に吹き荒れ、終末思想が蔓延る。
 確かに、行き過ぎた世界は過ちを繰り返し、ジャングルを凄まじい勢いで砂漠化させ、二酸化炭素や窒素やフロンガス等、ありとあらゆる過剰な物質を自然界に対して撒き散らし、文明の発展を願って来た。
 そのツケとしての人類滅亡説には、あながちオカルトだの変質狂だのといって安易に意見を切り捨てられないリアリティーがあった気がする。


 その昔、鉄腕アトムというアニメでは、まだ見ぬ未来の姿をファンタジーとして描き出されていて、人々にロマンを抱かせた。
 ジャングルを開拓し、地上には超高層ビルが建ち並び、地下を網の目のように電車が走る。二十四時間街は眠ることなく動き続け、どんなサービスも金で買うことが出来る。空に車は飛ばせなかったけれど、発展の行く末は明らかにビジョン化され、鉄腕アトムの世界に近付いて来た二十一世紀。


 宗教観や倫理観。
 哲学や思想はありとあらゆる形態に姿を変えてゆく。
 取り立ててスピリチュアルを学ばずとも、アニメは既にそれらを教えていたし、どんな情報にも簡単にアクセスすることが出来た。
 物質的に飽和した世界では、食べ物が毎日無駄に捨てられ、無菌室に近い生活環境をと謳う様なコマーシャルが流されていた。
 共存することの意味。僕はそんなことを思った。これは良くて、これは悪い。そんな二元論で、もはやこの暮らしに善悪を押し付けてみても、今迄以上の人類の辿るべき幸福には届かない気がしていた。
 細菌にしても、善玉菌と悪玉菌とは微妙なバランス関係の中で共存していた。
 行き過ぎた物質信仰が暴力を生んでゆく。
 自然との調和の意味について、考え直すべきターニングポイントに立たされていた。



 アマゾンの奥地に生きる民族。
 テレビのドキュメンタリー映像から伺い知る彼らの瞳は、野性の光を帯びていて獰猛な獣に近い印象を受けた。
 衣類を纏うこともなく、弓矢を引き狩りをする。
 時々、文明人との接触があり、地上に僅か存在していた彼らを文明に帰属させようという試みがなされていた。
 接触には細心の注意が払われる。
 文明人への敵意や不信感。古い言葉の中で互いに通じる言葉を使いながら距離を縮めてゆく。
 彼ら少数民族を文明側へと帰属させるという考え方はどうだったのだろう。
 上から目線の気もしたし、何かそこには難しさがあった気がした。
 文明人達は、彼らを野蛮な人々と呼び、逆に少数民族である彼らは、文明人を恐い人々だと恐れていた。
 以前にジャングルの象を襲い、象牙の密猟が行われる等、凄惨な金儲けの現場に遭遇した少数民族の人々は自らの生命の危険を感じ取っているようだった。


 この世界では、人間の欲望に終わりなどなかった。
 どれ程奪っても、足りることのない人間の飢えた心。どんなに文明が発達しても、自然界の掟を破ることは許される筈がなかった。自然の摂理の中でのバランスが求められていた。
 アマゾンに生きる少数民族は幸せかと尋ねられ、分からないと答えた。
 掛け合う文明人とのやり取りの中で、幾つかの証言が並ぶ。
 きっと、彼らには鉄腕アトムの世界など御伽話なのだろう。
 だけど、文明人は彼らに人の幸福の意味を教えることが出来たのだろうか。
 彼らの生活圏に押し入り、象牙の密猟やジャングルの伐採等、自然破壊を繰り返して金儲けを続ける文明の歩みには恐ろしさを覚えた。それが今日の僕の生きるこの世界の素顔だと思った。


 様々なファッションに身を包んだ人々。
 毎日の中で、繕う笑顔を身に付け、本心がどこにあるのかさえ分からなくなってゆくようだ。
 文明という名の病理について、もう少し明確な指標が欲しいと思った。
 芸術はそれを補えたのだろうか。



 マルクス資本論により発展して来た、マスゲームの世界。
 誰もがという訳ではない。だが、確かに多くの者が出世と名誉を競い、他者よりも優れる為の闘いの日々に明け暮れて来たのだろう。
 そんな頭の硬い物質至上主義のレースに対して、物申すことの出来る様な芸術だけが僕の希望だった。
 世界の価値観を変容してゆくもの。


 自分が芸術家であるなどと大それたことを言うつもりはなく、僕は自分自身をこの生存競争の中で信じて来た価値観から解放してゆき、呪縛を解きたいという一心により、個体意識の中で世界を旅して来た。
 僕自身が自らの存在を否定するという負のスパイラスの過程に陥り、世界はそんな僕の観念により、日々歪められていた。


 嫉妬。蔑み。差別。
 劣等感。孤独。独裁。


 分裂してゆく世界は、核分裂反応という原子の反応と全て完璧に一致するものだと僕は思った。
 三次元的な奪い合いにより確立された社会学について、僕は深く学び、一つ一つの心の壁を乗り越えて、自分の魂を自由へと解放してやりたかった。その為に、社会的な掟を破るリスクを負おうと考えて来た。一世紀位は悪人だと叩かれてもいい。そういった決意を持ちたいと願った。


 僕らは、因習の中で絶えず欲求不満を抱えていた。
 そういった欲望の叫びが、他者への批判の矢となり日常に降り注いだ。下を見て暮らすとは、そういった心理が反応した一連の現象である。


 僕は、ノーベル平和賞の為に闘っている訳ではない。
 僕は、広島長崎の悲劇という悲しみの為に立ち上がろうとしていたのでもなかった。
 僕は、僕自身の魂を救済しなくてはならなかった。


 サタンはそういった人間の知的な闘いを恐れる存在であった。
 僕は宗教家ではなく、西洋的な宗教の思想からの支配によって世界の平和を確立しようと考えている訳ではなかった。ただ、サタニズムがこの社会の根幹を実質的に腐敗させ堕落させていたのだ。だから、敢えてそのような表現を用いた。
 勿論、宗教的な教えの中にも沢山真理に行き着く様なものも当然あると感じていたのだが。


 やがて、フラクタル理論が確立されることなど何も知らなかった。
 だが、表現者として生きる人間の多くは、基本的にフラクタル理論を無意識的に突き留め応用している。心の宇宙を旅して、内側に内在する思想やエネルギーに出会い、作品へと昇華させながら全てを外側の世界に向けて一気に解放させてゆく。
 その時、一瞬神の面影を目撃するが、同時にサタンの影にも出会うものなのだろう。
 全ては一対である。


 聖人の元には、魔界の使者が訪れるのだといった内容を示唆したことを伺い知ることの出来る言い伝えが残されていた。
 僕らは常に試されている。
 一つの試練には、天国と地獄の様子の両方を垣間見ている。



 自己矛盾の嵐を抱え、僕は自己救済の為に表現の欲求に酷く取り着かれ駆られていた。
 自己弁護の為に作品を生み出している訳ではなかったが、絶えず罪人であるという思いが生む苦悩の様なものさえも、持っていた様な気がする。
 その思いが、お前は偽善者だとなじる。
 僕はまた新たな作品を紡ぎ出すが、他者からの承認欲求を満たしてゆく為の行為ではない筈だった。


 僕はただ自由になりたかった。
 愛なんて僕には分からない。
 だが、真の自由と平和を実現してゆく為に、ある一線を心の中で越えてゆくということが絶えず表現には求められていた。


 僕は、この文明社会の中では駄目な人間だと思う。
 普通に人を愛するということの意味が分からなかったし、誰一人幸せに出来ない愚か者のようで、自分自身を救う手立てすら分からなかった。
 人は悲しみに出会う為に生まれて来たのだろうか。
 この世界の希望の意味が知りたかった。僕が求めていたものは、ただそれだけだった筈なのに。全てが分からなくなってしまっていた。


 僕はまだ歌えるだろうか。
 両手を広げて、愛している。
 ただ、そう言いたかったのかもしれない。
 愛とは、自己犠牲の連続のようでもある。


 本当に美しいと思えるもの。
 それを歌として形作ること。
 それを僕は、フラクタルの暗号と呼んだ。