201786



   201786


 七十二年前の今日。
 僕の故郷の広島の街は一発の原子爆弾投下により地獄絵と化した。
 僕が生まれるより、ずっと前のこと。



 今はとても平和だけれど、広島は勿論のこと、長崎や、そして福島を僕は決して忘れない。
 熱線や炎がなかったというだけで、福島は広島と同じ悲劇に遭遇してしまった。
 火の代わりに津波が押し寄せるという国難となる。
 自然災害と人間の欲深き罪としての人災とが絡み合った311。
 核という存在は、どうやら僕ら人間の欲深く醜い心の中に住む悪魔に付随する化学物質なのだろう。
 人間が互いの立場をもっと思い合えて、どちらか一方の正義ばかりを押し付けながら発展しようなどと思うことがなければ、きっとこんなことにはならなかったのに。


 君には戦火の街が見えるかい?
 今日の平和な街の姿の中に。
 熱線も炎もないけれど、核の脅威に曝された日常とは、一九四五年八月六日の広島の八時十五分以後の世界だと僕は思う。
 総理は決まって平和を口にするが、積極的平和とは核の平和利用と同じスローガンだとはっきりそう伝えたい。
 再稼働ありきの原発
 安全神話がたとえ崩壊しても尚、いまだに過去の過ちを当たり前のように恥じることなく平然と繰り返す。
 核の平和利用も積極的平和主義も利己的観点からのスローガンであり、恒久平和実現に向けた政策では決してなく愚策だ。
 本当に平和を!と口にするのであれば、今日の炎なき核汚染の日本の現実への誠意ある国としての対処や政策の実施こそがまず優先されるべきだ。
 ケロイドになった福島の心をどうか直視して緊急に動いて欲しい。


 核汚染の実態がいまだに国民に広く知らされてはいない。
 情報規制のメディアコントロール
 経済大国は盲目猛進である。
 命より金の獣だ。


 神風が吹いて、太平洋の向こう側の見えざる敵に勝てると鼓舞する軍国の歌。
 洗脳教育の果てに見たもの。
 一九四五年八月六日の広島。


 あの悪夢の朝の出来事は現代も尚続いている物語なのだ。
 ゼロ戦も戦車も機関銃も手榴弾もないけれど、資本主義国は生存競争の中で見えざる武器を手に互いが互いを死滅させるような心の反応を覚え込ませて来た。
 戦争はまだ終わっていない。


 隣の人に勝ろうと思うことは、人間の持つ基本的な本能からの衝動のようだ。
 だからといって、手を繋いで徒競争のゴールを切る姿に公平さや真の他者への思いやりは感じない。
 それは思いやりなどではなく、まさに均一的無能力を育み育て、体制に決して反発はしない国民を生む為の軍国思想的教育だ。



 優劣や二元論の世界はもういらない。
 それは争いやそれに付随して起こる更なる悲劇を生むだけだ。
 永遠に。
 僕らは互いに愛し合い、もっと心豊かに生きてゆきたいだけだろう。
 人間にとってその為に必要なことは、きっと互いを認め合い切磋琢磨する魂の気高さと美しさだろうと思う。


 隣の人と競うのではなく、自分の心の弱さや恐れ、この世界の深き闇に凛と対峙して闘うこと。
 それが愛だ。
 分裂から融合へ。
 私利私欲から生まれる利己主義を卒業して、競争から切磋琢磨へ。
 生き方を変えたい。
 そして本当の自由、博愛、平和を掴みたい。


 二〇一七年八月六日の祈りの言葉。