七度目の春

311から七度目の春を迎えました。
一オクターブは七音。
一週間は七日。
虹は七色。
次元が切り替わる節目を示す、七という数字が浮かび上がっています。



経済第一中心主義は、完全に行き詰まることでしょう。
自然の理には反しているからです。
東北復興応援。
それを望みますが、食べて応援等、様々な資本主義社会による狂った思想統制には賛同は出来ません。
命が何かの危険に脅やかされながらの生活は、継続不可能としかいいようがないからです。


放射性物質による被曝の問題。
これが一番重要な事柄でしょう。
ですが、この日本社会はそこから目を背け続けてきました。
二〇二〇年開催予定の東京五輪に向けて、社会的な問題を誤魔化して来たのです。
大本営発表を信じるということは、本当に危険なことです。
勿論、正しいことも沢山していますが。


どこが嘘でどこが真実なのか。
それを一人一人が感じ取る能力というものこそが、本当に大切なことだという気がします。
国家の名の下で、僕らはどこかカルト教団の信者のような生き方になってしまっていると思うのです。
民衆にこそ力を!
僕達は自分の生き方を省みて、反省すべき事柄を受け止めながら、立ち上がらなければならないでしょう。


社会システム自体の見直しを!


僕がこの社会に一番言いたいのは、そのことです。
東北復興応援は当たり前のことです。
もしも自分が当事者ならばと考えてみれば。
日本中からの温かな支援がなければ、なかなか再生は難しいに違いなかったのでしょう。


だけど、あの311という国難は、ただ今まで通りに再生、復興という訳にはいきませんでした。
どう考えてみたって、福島第一原発事故による被害の実態を無視することは許されません。
あの事故は、社会システムの根幹を破壊してしまいました。
二〇二〇年の東京五輪は、昭和の時代の東京五倫とはまるで意味が違ってしまったのです。
それを社会的な場で真っ向から見つめ、語り合う議論の場が用意されてはいません。
経済を回すということだけが、とても重大視されてしまっています。
恐ろしい思想統制の動きを感じ続けて来ました。
既に破綻してしまっているシステムの中で、人々は更に競い合い、能力の優劣や生活水準の向上のことばかりを考えて続けて来たように思うのです。
音楽をやっていても、現場では実にそのような光景ばかりが、悲しくも僕の目には留まります。
欲望と柵の世の中です。


福島第一原発からは、延々と放射性物質が世界中へと撒き散らされ続けていきます。
今の技術では、それを食い止める術はないとされています。
今まで聞いたこともなかった新しい病気が生み出されていきます。
福島第一原発由来の放射性物質による健康被害の問題や、それに伴う賠償問題を逃れる為に、世の中の目を欺こうとしているのではないのでしょうか。
そんな風に世の中から言われてしまったとしてもしょうがないような、どこかきな臭い様々な社会的な事柄が登場して来ている気がしてなりません。
政府のやり方には、疑問点がとても多過ぎると言わざるを得ないというのが偽らざる気持ちです。
天気予報で放射性物質の現在の拡散状況を、何故情報開示しないのでしょう。
そのこと自体が可笑しいのです。
国民には事実を知る権利があります。
ですが、国民もまたその自分の権利自体を余り強く主張せずに来たように思います。
政府と国民との関係は映し鏡です。
無責任な国民だから、無責任な政府が存在しているというのが事実なのでしょう。


もうこれからは、そのような僕らの怠惰さというものが許される時代ではなくなって来ることでしょう。
社会はもう上手く行かないのです。
どんなに誤魔化そうとしてみても。
それは、例えばパートナーシップの間にも顕著に現れて来ます。
人々は互いに誠実に向き合わなければならない時です。
まずは身近な所から。
自分の都合の為に、僕らは物事を適当にして生きて来たのではないでしょうか。
もっともらしい言い訳を幾つ並べてみても、ほころびが目に付いて仕方がありません。


まだまだ働き盛り世代の若い人々の命が、唐突に消え去るのを目撃し続けています。
理由はこれだとは断言は出来ません。
証拠を上げるのが難しいからです。
ですが、福島第一原発事故による影響を考慮するのは、もはや当然のことだというしかないでしょう。


アニソンに緩キャラ。


僕も嫌いではないです。
ですが、幼児の文化に大人が本気ではまっているというのは、かなり危険な気がしてなりません。
勿論、趣味は自由だと思います。
ただ、余りにも度を越したノリに任せた生き方というものを感じている僕がいます。


メルヘンジャパン。


この文化的水準の衰退のあり様は、何故だというのでしょう。
大人が大人になりきれてはいないのです。
戦後の平和な暮らしが、僕達から考える能力を完全に奪い去ってしまったかのようです。
簡単便利の時代の残した負の遺産というべきでしょう。


苦労をして、青春時代に充分に葛藤をして来なかったツケが回って来ています。
これは大人として、とても恥ずべきことではないでしょうか。
大人達の幼児性への退行現象は、政治的無関心の実態として存在している姿なのではないでしょうか。
生き方に責任が伴ってはいないのです。
僕も偉そうに何かを言える立場ではありませんが、時代に対してとても危惧せずにはいられない気持ちでいます。


誰も責任を取らない社会。
皆、気が良くていい人ばかりですが、ジャパニーズリテラシーは今この辺にあるというのが事実なのではないでしょうか。



二〇一八年。
今年こそは、より良い未来の為の社会の再構築を望みます。
場渡り的な解決ではなく。