はじめて買ったレコード
1
ターンテーブルにドーナツ盤を乗せると、たちまち夢見心地になる。
あれは、一九八五年のことだ。
レコードの回転数の切り替えが二段階になった、とてもシンプルなプレーヤーが僕の宝物だった。
まだ小学生の僕は、音楽の世界に愛や自由を発見し、瞳を輝かせ夢中だったのだろう。
孤独を知るにはいささか早過ぎる歳だった筈の僕は、ワンパク小僧だけれど、それでも明らかにモノクロームの憂鬱に取り憑かれた、顔色の青白い少年だった様に思う。
イントロが流れ出すまでの、スピーカーのシャリシャリと音を立てるノイズ。
アナログ時代の終焉を垣間見ることの出来た幸福が、びっくり箱の蓋を開けた時みたいに、心の中で流れ出す熱いビートに乗って、鮮やかな記憶と共に、一瞬でとても生き生きと甦る。
これが音楽だ。
これが感動だ。
僕は、何かに心をざわめかせながら、リアルに感じられてならない、その音楽という響きに、完全に魂を鷲掴みにされてしまっていた。
孤独の森に独り。
月光がとても優しくて切なかったから、そうして音楽は心の中に宿った。
いかほどの真実を知っていた訳でもないくせに、やけに大人びたところがあるかと思うと、とても無垢で純粋な気持ちに僕自身、いつも弄ばれている様な子供時代だったと言えるのかもしれない。
月光が織り成す影絵に、歓喜したり、とても脅えたり。
凍てつく夜のたき火の温もりに、母の尽きせぬ愛を恋しがった。
僕は一体誰ですか。
何の為に人は生まれたのでしょうか。
きっと、悲しい気持ちはとても柔らか過ぎて、この世の風は冷た過ぎたのでしょう。
僕はそんな風に今、あの頃を振り返る。
あの時、僕の人生は始まった。
そう思った。
ホールのスモークの立ち込めたステージを、スポットライトが幻想的に照らし出し、コンサートが開演した。
僕達親子の席は、一階フロアしかない、こじんまりとした地方会館の一番後ろだ。
何だろう、鳥肌が立つ感じだ。
会場を埋め尽くしているのは、きっと九割以上、十代二十代の若いお姉さんばかり。
そんな印象がする。
さっきからずっと、悲鳴の様な甲高い声で、ステージに一斉に歓声を挙げ続けている。
そして、今までに聴いたことのない透き通った、優しくて美しい歌声が、僕の心を惹きつけて仕方がない。
言葉にすると、きっとこんな風に感じていた様に思う。
記憶の中のステージは、今もあの時の余韻に満ち満ちているよ。
小学五年生の一月のあの日、僕は突然ロックに出会った。
強烈なビートにエレキギターの音色の放つ、音楽という豊かな色彩のイメージ。
楽曲を総合的に演出し続ける照明の効果が、心の奥深くまで沁み込む様にメッセージを客席に届ける。
そして、とても華やかなステージングの中心を織り成す、神秘的なメロディーと声量のある迫力のボーカル。
小さなホールの一番後ろの席から見るバンドメンバーの姿は、表情の変化すら感じ取り辛い距離感だったけれど、僕の心に確かな熱い感動を伝えてくれた。
そういえば幼い僕には、あの破裂する様なバンドの大音量が恐怖にすら感じられたほど身に迫ったことを覚えている。
だから、ロックって素晴らしいけれど、同時に恐ろしいとも思えると、本能が何かを嗅ぎ分けていたのかもしれない。
大人になった今思えば、あれは心の闇に広がる孤独との出会いであった訳で、本当はそれが怖かったということなのかもしれない。現実の僕だと思っている僕を、一瞬で破壊し兼ねない何かに、きっとあの日僕は直面しようとしていたのだろう。
衝撃的なロックバンドとの出会いを遂げた、二時間あまりのコンサートは、あっという間にアンコールまでの全レパートリーを疾走し、夢の中へと消え去った。
コンサートの間中、僕はバンドの大音量に耳をやられて、ロビーで何度か休憩を取った。
姉も同じだったみたいだ。
僕ら兄弟は、後ろのドアを出る為に、カーテンで光を遮断しながら通り抜けて、ロビーに非難し、バンドの強烈な大音量から耳を休めた。丁度ドアを入ってすぐの席だったから、一時避難を繰り返すには邪魔にならず、おあつらえ向きだった。
子供の耳にはまだ耐え難い大音量だったかもしれない。
サーカスの球体状の金網の中を、バイクがエンジンを吹かし三六〇度旋回するショーを思い出す。
あの破裂音にも似た、ロックバンドの甘く、そしてワイルドで危険なサウンド。
だけど、何故かやみつきになってしまう。
きっと、音には現実を生み出す観念の余分なものを吹き飛ばしてしまう様なエネルギーが宿っているからなのかもしれない。
アップテンポの曲には、特にそんな印象を持った。
バラードは、どこまでも限りなく美しく、優しかった。
客席に座り、歌を聴いていて、生まれてからその日までの間に感じたことのない、素晴らしい調和と愛を感じていたのだと思う。
終演後、ホールを出ると、一度しか耳にしたことのない筈のバンドの曲が心に焼き付いたまま、熱く甦り、鳴り響いていた。
勿論、特に印象深く心に残った曲の幾つかのフレーズを記憶していたという話で、それ以上に変わったことではなかったのかもしれない。
だけど何だか僕には、それがとても特別なことの様に感じられて、まるで心に魔法がかかったみたいに素敵な気持ちになった。
会館の中央玄関へと向かい、人の行列に紛れていると、姉がロビーのツアーグッズ売り場の方を見ながら、パンフレットを買いたいと言った。
その強い口調に意思を感じ、何だかとても印象深く思い出す。
あの日は元々、姉が主役のコンサートだった。
僕は、たまたまついて行ったというシチュエーションでしかなかった筈だった。
だけど僕は、あの音楽に触れたことで、既に突如神の存在を思い出したみたいな気持ちになっていたのだと思う。
もしかするとあの時、青春という熱く切ない季節に足を踏み入れたのかもしれない。
会館を出てから、父の職場の支店に停めさせてもらっていた車まで、もうすっかり夜が訪れていた街を、親子四人でてくてくと歩いた。
コンサート前はまだ明るかった街の姿の豹変ぶりに、子供ながらに何か感じるものがあった。
夜風の囁き。
そんなフィーリングは、普段子供の世界からは遠くかけ離れたものに違いなかった。
だけど、コンサート後の世界では、僕の感覚が描写する世界すら、もうどこか違っているみたいだった。
それは、大人になった今だから伝えることの出来る、あの日の心象風景だ。
車に乗り込み、父の運転で帰宅している最中も、コンサートのことをあれこれと親子で話していた様に思う。
特に印象深く心に残っている会話は、父がハンドルを握りながら、ミュージシャンはヒット曲を出さなければ生活に困るといった内容についてだった。
話を聞いていて、いかにも堅実派の父らしいなと思った。
コンサートを聴いて、こんなに今夢をもらって帰っている時でも、すぐに一般的な視点から、いかに人生は絶望することばかりであり、思うように生きられる人間は特別なのだと示唆する様に、自論を展開し始めていた。
僕は父のその話を聞いて、これは父の心の中にある限界の壁なのだろうと思った。
そして、それが父と僕との間に横たわっていた、果てしなき心の距離感に繋がる、価値観の隔たりだった様に思う。
それでも父は、最後の曲は良くなかったといった様なことを話し、今から思えば、それは父なりの音楽への愛情なのではないかなと思う。
そして、あの時まさか息子である僕が音楽の道を志すようになるとは、まるで思ってなかっただろう。
僕の思春期が静かに音を立てながら崩れ出し、父の背中に覚えた国家権力に対して、地を這う様なとどろきへと変わり、そうして運命の扉は開いた。
街の動脈である大きな川に架かった橋を渡ると、暗闇へと続く夜道を照らすヘッドライトの明かりの向こう側に、夢の様な素敵なコンサートとはまるで違っていた、青ざめた日常が、僕の帰りを待つばかりに思えていた様な気がする。
2
日課である小学校の宿題のその日の日記は、きっと初めてと言っていいほど心からわくわくして鉛筆を握った。
コンサートで味わった感動の余韻を胸に、溢れる思いは取り繕ったものである筈もなかった。
自分の感じた思いを担任にも伝えたい。
思っていたのは、ただそれだけだった気がする。
もしかするとあの日の日記は、僕が誰かに自分の心を開き、魂の深い部分に繋がった感受性を表現しようとした原体験に近いものだったのかもしれないなと思う。
言葉にリズムが宿り、躍動する様な熱い情熱。
それはまさに、メロディーに捧げる為に生まれてきた言葉の響きすら、自分自身感じられる様な性質のものではなかったのだろうか。
ふとそんなことを思う。
もしかすると、あの時僕は音楽を生み出そうとしていたのではないかとさえ思える。
感動を刻む心象風景こそ、僕にとっての音楽の源泉と言えるものの様に、ずっと感じて生きてきた様に思う。
そうは言っても、本当に稚拙な日記に違いなかっただろうし、こんな風に語ること自体、大げさなことの様に受け止められるのかもしれないけれど、僕は自分の感受性をいつまでも信じていたい。
そして、一つ一つの記憶をおざなりにしてしまわないで、大切にして、ロックンロールのビートをハートで感じ続け、真実を解き明かしていきたい。
普段は、数行あるかないかの退屈に思えた日記。
子供達の間では、友達とこんな風に遊んだといった、既に形式化された内容に終始していた日記に、体温の色彩が宿った。
担任のその僕の日記への返答は、もう今は覚えていない。
きっと忘れてしまうくらいだから、自分の思いを誰かに投げかけるだけの、幼稚とも言える本当に一方通行な僕の思いだったのかもしれないなと思う。
まだ、社会なんて全くと言っていいほど意識していなかっただろう。
僕の表現への欲求は、もしかするとあの時、こんな風に生まれたのかもしれない。
3
コンサート後の余韻。
いい歌は酔うもの。
そのバンドは僕に音楽の原体験として、そんな教訓を与えてくれた。
そして、僕の人生はまるで一変した様だった。
それは、他人から見たら別段何ら変化の見えない様な心理的なものだったのかもしれない。
下校途中の田舎道で、洗練された都会的なメロディーを口ずさんだ。
輝く青空にも、風や雨にもリズムを感じ、僕自身が音楽であるかの様な感覚に溶け込んでいった。
そして、小さな部屋の片隅で僕の処女作が生まれた。
その曲は、あの日のコンサートへのアンサーソングだった。
学校で図工の時間に、朝礼台の上で画用紙に絵を描きながら鼻歌を歌った。
それは、情景とはとても似つかわしいとは言えないことだと感じた。
音楽の世界と小学生の僕の生きる現実との隔たり。
僕と音楽との二人称の時間。
元々は姉がバンドの音楽に興味を持ち、聴き始めた。
そんなある夜、姉の部屋で父と僕との三人でバンドのヒット曲を聴いた。
ラジカセのデザインまで、いまだに何となく覚えている。
父もその曲が気に入った様子で、今度コンサートに行こうという話になった。
普段、外食さえしない様な家庭だったので、何だかとても不思議な気持ちになった。
街のプレイガイドで、母を含めた四人分のチケットを買った。
当時は確か、一人二千円か二千五百円で、今思うと安く手に入れたスペシャルナイトだった。
当日は、朝からそわそわし通しだった。
頭の片隅には、ずっとコンサートのことが気になって仕方がなかった。
そのバンドの音楽なんて、ろくに知らなかった筈なのに。
姉の部屋でちょっとだけ耳にしていた程度で、それ以上その音楽に心惹かれていた訳でもなかった。
僕は、いつもの帰宅路をわくわくと急いだ。
愚図ついた空模様の土曜日。
これが僕の音楽との出会いのいきさつだ。
4
夕暮れに染まりゆく街はなんて寂しいのだろう。
夜の訪れと共に、闇に呑み込まれる様に抱かれる時に生まれる孤独への、あの頃の僕の心理を、こんな言葉で伝え始めてみたい。
県内で一番古いと聞いたことのある木造校舎が、真っ赤な夕日に滲みながら、次第に影を深く落としていく。
そんな風景を静かに見つめていると、何だか日常の扉が壊れ、幻の世界にでも突如引き込まれていく様な引力を僕はいつも感じていたのかもしれない。
何故だろう。
何だか当たり前に繰り返されていく日常と、僕の心の中に広がる幻の世界とが一瞬で交錯し、入れ替わる様なあの感覚。
人生という舞台で人は互いに演じ、そして、その本当の訳を理解している者などいる筈もないだろう。
いわば体裁を繕った現実の中で、いつも真実は進行していくものなのかもしれない。
日暮れを知らせるサイレンが鳴ってからも、大抵僕は遊びに夢中だった。
校舎の二階中央で時を刻む時計を、少し気にし始めた頃。
友達たちの姿が、一人、また一人と、夕暮れの彼方へとちぎれちぎれに遠ざかっていく。
そして、僕も家路を辿り歩き出す。
その時、ふと寂しさがこの胸に込み上げてきて、僕は憂欝になるんだ。
ざわめく心。
得体の知れぬ不安感。
ついさっきまで感じていた非日常的な僅かな解放感の喪失。
それは僕が家庭の中で抱えていた、終わることのない葛藤だった様に思う。
5
カセットデッキとテープを用意して、僕は思いつくままに鼻歌でメロディーを作ったものを、録音し吹き込んでいる。
これなら僕にも、きっと出来る。
あのバンドの音楽を聴いていて、自然とそう思えた。
コンサートに行ってから、たぶんまだそんなに日が経ってなかったと思う。
そして、そう信じた通りに作曲は、僕の自然な生命活動の一部として、すんなりと始まり、僕の処女作は生まれた。
その時僕は、音楽をやっていこうなどとは意識の中で思ってもなかった。
ただ、何となく成り行きで曲を作ったといった感じだっただろうか。
それはまるで、赤子が誕生時に産声を挙げたり、呼吸を始めるのと同等の、ある衝動に対する行為の様に、当時を振り返ってみた時、そんなイメージが浮かんでくる。
きっと僕は、音楽を聴くだけではまかない切れない何かを、心に抱えてしまっていたということの様な気がする。
自分で道を切り開くしかなかった。
生き抜いていく為に。
そして、生まれて初めて作ったその曲には、あの日のコンサートへのアンサーソングの意味合いがあった。
ありがとう。
ただ、そう伝えたかった。
6
穏やかな風景の広がる川沿いの土手を走る、母の車の後部座席に僕は座り、揺られている。
母と僕の二人きりの車内で、わざわざ後ろの席に乗り込むのは、いつものことだった。
普通の人間らしい感覚を持っていれば、きっとそれは変な行動として目に留まるものの様な気がする。
勿論これは、もう大人になった今だから、僕にも言えることだろう。
初めは、姉が取る行動を真似ることから始まった。
反抗期に入ったらしい姉は、母の運転する車の助手席に座ることを嫌った。
そんな姉の姿を見ている内に、僕も段々そんな気分になっていったことを思い出す。
母はそんな僕ら兄弟の心の変化を、一体どんな風に受け止めていたのだろう。
思春期だからそんなものくらいの感覚でいたのだろうか。
僕が思うに、この親への反抗の態度の現れには、ただ思春期だからというだけで見過ごしてはならない、僕ら兄弟の悲しい心の叫びとメッセージが隠されていたと考えるべきだろう。
これは自己分析になってしまうので、少し説教染みた話になってしまい兼ねないのだけれど、とても大切なことだと思うから伝えてみたい。
結局、母は僕ら兄弟の心のシグナルに気付いていない様に見えた。
それはとても厄介なことで、子供が大人に成長するにつれて、いずれはもっと大きな問題として浮上することだろう。
田舎の家庭で、とても閉鎖的な街の空気の中、世間体ばかりを絶えず気にしていた僕の家族。
家族がわざわざ嫌がることを言って、僕に何の得がある訳でもないけれど、心の問題や感受性の育て方に対する認識の低さは、どうしても押さえておきたい現代の闇へと繋がる大切な話だ。
母はいつも、問題をすり替え、詭弁を使って僕らの心に向き合ってはくれなかった。
勿論、これは僕の一方的解釈からの見解であり、母には母の言い分があるだろう。
僕には見当外れに思え、間違いであり、子供の心の障害や重荷になる様な接し方だったとしても、母なりの愛情があったということに関して、少しは分かっているつもりだ。
何度も悩み、考え、母という存在を自分の持つ価値観の中で、理解し、乗り越えようと頑張ってみたけれど、それは僕にとって、途轍もない人生の試練として目の前に立ちはだかり、魂は極度に母性に飢えたまま、凍てつく悲しみの世界の闇に呑み込まれてしまって、真実なんて何一つ掴めないみたいだった。
何だかいつも騙され、裏切られている様な気持ちになってしまい、人間としての一番大切な尊厳に関わる部分までも、まるで土足で踏みにじられていく感覚のする虚しさの中へと、僕の抱えていた孤独感は、益々、舞い落ちていくばかりだった。
結局の話、僕に言わせれば母は道徳観のズレた、とても偏った考え方を持っていて、自意識過剰な傲慢さで、周囲をトラブルへと巻き込んでいく、モンスターの様な困った人だった。
僕にはあまりにも理不尽に思える母の言動が多くて、酷い憂鬱と苦悩とに責め立てられていた。
思春期を迎え、親の考えに強い疑念を覚えることが増えてきていたこともあるだろう。
だけど、一番大きかった様に思うのは、あのバンドと出会ったことで、道徳や美意識といったものが自然と心の中に発生し、秩序正しく調和の取れた、バランスのいい思考と感情の流れの中で、自分でより能動的に物事について深く感じ、考える能力が高くなっていたのだと思う。
そして、僕もあわや同じ様な性質を持った大人に育て上げられる、社会のレールに乗せられようとしていたのだと思う。
だから、僕にとって幸運だったのは、あのバンドの音楽に思春期を迎えたタイミングで出会えたことの様に思う。
優しく美しいメロディーや詞や、とても人間的な温かく豊かな感受性。
あのバンドの奏でる音楽は、僕にまっとうな道徳をストレートに投げかけ、感じさせた。
それは、家庭や学校という現代の教育の現場の中から姿を消してしまっている様に思えた、とても人間として大切なことを僕に伝えてくれていたのだと思う。
そして、きっとそうして僕は生き方すら影響を受けてきたのだろう。
人間として一番大切なことって一体何だろう。
音楽は、僕が孤独の中で発したその問い掛けに、答えてくれる様な存在だったのだと思う。
7
小学生の頃を振り返ると、田舎だったこともあるのか、気分はとてものどかだった気がする。
話が矛盾してしまいそうだけど、いつも暗い思いで過ごしていた訳では勿論ない。
僕が逆境を感じる暮らしの中でさえも、結構したたかに生きてこれた理由の一つは、自分の世界を心にちゃんと持っていたからということではないかなと思う時がある。
悪く言えば、空想の中だけに引きこもって、協調性に欠ける様な子供だったと解釈されることもあるかもしれない。
僕は、空想の中で一人で遊ぶことが、とても得意だった様に思う。
そして、幻の体験というイメージの中に上手く身を潜めては、嵐の様な闘いの日々をどうにか不器用ながらにも生き延びようとしていたのだろう。
そんな自分の持つ性格や性質に助けられていたとするならば、見方によっては、僕は案外楽天的な幸せものだとも言える様な気がする。
僕にはいつも夢があった。
多くの大人は、夢だけでは生活してはいけないと、子供達に愛情の裏返しとして説教することが多かったかもしれない。
だけど、逆に僕みたいに夢に救われたと感じる様な体験を持つ人間にとっては、また違った世界観が心の中に広がっていて、真実とは実にそれぞれの体験を通して見つめ、現実に解釈を加えた一側面に過ぎないのだということを考えさせられる思いだ。
僕は思う。
夢を見るには当然努力が伴わなければ、悔しくてもただの独りよがりに終わってしまう話なのだろうと。
そして、子供達のまだとても生き生きとしたままの感受性を、ただ頭ごなしにむしり取り、奪ってしまう様な教育には、大人になった今でも、深い疑念と抵抗をいつまでも感じている。
きっと僕は、自分の感受性というものだけは何者にも支配されたくないと、ずっとそう思いながら少年時代を過ごしていたのだと思う。
僕にとって、自分の感受性だけが、本能を伴いあすを切り開く頼りだった様な気がする。
そして多くの場合、その感受性から先に虚勢されて、人は大人になっていく。
そうして築き上げられた文明社会は今、なんて優しくないのだろう。
心が死んでいるんだ。
心を持たずして人への感謝や思いやりなど、きっと育みようがないと思う。
そして今も、深く心に傷を負ったままで、人生のどん底から這い上がれない様な人々の悲しみが乱反射して、社会はいつでも混乱の顔をしている様だ。
でも、道はきっとある。
孤独の森を彷徨う人々よ、大丈夫だよ。
微笑んでおくれ。
幸せの明かりは、いつも自分の心の中にあるものだから。
月光が優しく降り注ぐ夜、僕らはきっと、一つ一つの真実を掌に掴み取っているのだろう。
それは、社会や自分を取り囲む人々がどう思うかではなく、感受性の中でそれぞれが、まず確かめてみる必要のあることではないだろうか。
その為に過ちを犯してしまったり、時には誰かを深く傷つけ、傷ついてしまう様なことも、きっとあるだろう。
それでも、自分の体で人生に立ち向かい、物事の本質を理解する為に、僕らは勇気を忘れてはいけないのだと思う。
そして、人はみな我がままなものなのだと思う。
だから、迷わず受け入れ愛すればいいのだろう。
きっと誰も間違ってなどいない。
全てが愛すべき存在であり、欠点を補い、個性を生かし支え合うことで、社会は明るく輝き出すに違いない。
音楽はきっと、少年だった僕に、そんな風に囁きかけてくれていた様に感じる。
時代に発生した何かの価値観により、社会から切り離され、まるで暗く陰湿な悪いことであるかの様に、巧妙にすり替えられていったであろう、人間が人間らしく生きていく上で、とても大切なことである筈の、その意味に思いを馳せ、僕はいつまでも歌い続けていたいと願う。
感受性を育み育てること。
僕にとって、それは音楽の果たすべき使命と呼ぶにふさわしいものの様に思う。
この社会は変えられるか。
僕は誰かにそう尋ねられたら、YESと答えたい。
僕があの日辿った記憶を重ねて、ガラス作りの心のハーモニーを囁きながら。