MUSIC FACTORY LIVE



フレンチトーストライブをやるのでお知らせします。


ミュージックファクトリーさんで行われるクロスオーバーミュージックに参加することになりました。
9月16日と17日の2日間行われるのですが、僕はフレンチトーストとして16日に出演させて頂く予定です。
ステージは30分間です。
また詳しいことが決まり次第お知らせします。


YouTubeは昨年の12月8日に行ったミュージックファクトリーさんでのフレンチトーストライブの様子です。




君と共に過ごした二度目の春が過ぎ去った。
君がいた春。


くよくよするのはよそう。
そんな風に思ってみるけれど、僕らの心って自分の思うようにはなりはしない。
君のことをふとした時に思い出している。
自分に無理して君にさよならを告げた。
天国の階段を上って、神様の所に辿り着いたのかな?



先日とても不思議なことがあったよ。
きっと君の仕業だといった意味のことを皆が言っている。
僕もそうだろうと思った。
こんな不思議なことがあるものなんだね。
君は僕らの様子を天国から見つめながら笑っているのかな?
もしそうだとしたら何て素敵な話なのだろう。


僕らの元へまた新しい子犬がやって来たよ。
何と言ったらいいのか。
初めてその子の写真を見た時に、君の姿が不思議と重なって見えたんだ。
君がいる。
僕はそう思った。


ブリーダーさんからワンちゃんを預かり里親を探しているボランティアさんから連絡が入った。
君を僕達の元へと縁を繋いで出会わせてくれたボランティアさんだよ。
僕が君に話すまでもないことなのかな?
君は悪戯っぽい微笑を浮かべて笑っているのかな?
その方の話では、その子犬がその方に駆け寄って来ては付き纏い離れないといったような話だった。
その仕事をされて来て、過去にそんなことはなく珍しいことのようだった。
その方はその子犬を見た時に君を感じたようだ。
君がその子犬を僕らの元へと届けようとメッセージを送って来ている。
ざっくり言えばそういったことを感じられたそうだよ。
きっと君はその全ての話を知っているのだろう。
僕らが感じている通りに、君が仕組んだことなのならば。


そんな経緯があり、その子の写真がそのボランティアさんから送られて来た時、僕らは犬種なんて関係なくその子を飼わなくちゃならないのだなと悟ったよ。
そして予定通りにその子は僕らの元へとやって来た。


僕がその子と初対面をした時は、正直僕の心の中は君の存在が余りにも大き過ぎて、その子が入って来るスペースを意識して用意しなくちゃならないような状態だったかもしれない。
その子と初めて出掛けた場所は、君が星になるほんの少し前に君と過ごした公園だった。
僕の記憶する限り、確か君を最後に抱き抱えたんじゃないかなと思う場所でもある。
それがその子との初対面後最初に遊びに行った場所となった。
何という巡り合わせなのだろう。
暦の上での夏の始まり。
そんな日でもあった。
こんな偶然の数々が起こったこと。
全てではないにしても幾つかの出来事については、やっぱりそれは君の仕業だったのかな。


その子はブラックのトイプードル。
フランスのワンちゃんだよ。
気品があり、オシャレをして香水の香りを漂わせながらパリの街を歩くパリジャンみたいだよ。
体のラインがとっても優雅で美しくてさ。
君と同じ男の子だ。
初対面を果たし、とてもおとなしくしてるその子を抱き抱えた。
暫くの間はとても警戒していて体を強張らせてた。
でもやがて信頼してくれたらしく、気分よく笑ってくれるようになったよ。
僕との相性はなかなかいいみたいだよ。
瞳が何だか君にそっくりなんだ。
初めてその子の写真を見た時に、直ぐにそう思った。
君はシュナウザーで、その子と君は犬種も違うし、姿形だけ見ればまるで違っている筈なのだけれど。
その子は君に雰囲気が何となく似ているんだよ。
まだまだ君のことを思い出して涙が止まらない。
それでも君が結んでくれたと思えるその子との縁を大切にしたいなと思っているよ。



ふと瞼を閉じれば、愛らしい君の姿が蘇りこの胸が熱くなる。
見渡す限りの澄み渡った高く青い空。
まるで君の笑顔のような空にポッカリと浮かんだ白い雲。
風を感じると君の匂いがどこにもない。
心が千切れてしまいそうだ。
たった一度きり、君と僕らが共に過ごした夏がまたやって来たよ。
君にとってもよく似たブラックのトイプードルちゃんを連れて。
たとえ君がいなくなっても季節の移ろいは巡る。
君のことを思っては、どこか時間の流れに取り残されてゆくような僕の心。
だけど時の流れの移ろいは、君と別れた心の痛みを癒す薬にもなってくれているんだよね。
分かっているつもりだよ。
心配しないで。


そうだよね。
人はどんなに悲しくとも、上を向いてまた歩き出さなければならない。
愛し愛された存在から受け取った優しさの分だけ涙を零しながら。
君はこんなにも僕らに温かい思いをくれていたんだね。
君がいなくなってから、そのことがよりひしひしと感じられる思いだよ。


希望の見えない時代の夜の帳の中を、夜空を見上げ歩けば、無限の星々がささやかな光を灯し、僕達の暮らしを照らし続けてくれている。
僕はその星々の中で君の星を見つける。
僕にとっての星は君だよ。
かけがえなく他の存在には代わりの果たせぬ光。
人から見て痩せっぽちの星だとしても、僕には君じゃなきゃ駄目さ。



君からの命のバトンは、何だかきっと君からの贈り物に違いないようにそう思える、可愛いブラックのトイプードルちゃんに手渡された。
君が生きられなかった分、その子はもっと幸せにならなくちゃ。
君と過ごした最後の春が、もう永遠に二度とは戻れぬ、遥か遥か遠き彼方へと過ぎ去った。
君を忘れない。



天国の階段

君と初めて会った日のことを忘れない。
君はまだとても幼くて、見るもの触れるものに興味深々といった純真な眼差しをこの世界に向けていた。



まずはお試しで。
そんな風にブリーダーさんとの仲介役を果たしてくれた業者さんから薦められて君との生活が始まって行った。
あれはたった一年程前のことなんだよね。
君がいなくなってまだ一ヵ月も経っていない。
だけど君を想っている時間は、一日千秋といった想いであるかのようだ。
君に会いたい。
本当に本当に寂しくて堪らないよ。
幾ら涙を流せば、本当に君のことを心から手放し天国へと送ってあげられるというのだろう。


君は生まれつき心臓が悪かった。
だから初めから二歳までは生きないだろうと言われていた。
それを覚悟の上での君との生活。
とても愛らしくて、悪戯も沢山していたね。


僕はふとした時に君のことを思い出す。
君の息遣い。
君の鳴き声。
君に触れた時の温かさ。
そんな全てが蘇る。
だけど君はもうここにはいないんだね。


どうして神様は、こんなにも早く君を天国へと連れ去ってしまったのだろう。
もしかしたら神様も天国に君がいないことが寂しくて、早く君を自分の元へと連れ戻したのかな。
それにしてもとってもとっても寂しいよ。
もっともっと一緒にいたかった。
生きていられる時間は、一つ一つの命によって本当にバラバラで違っているんだね。
きっとそれにはとても深い意味があるのだろう。
だから理不尽だなんて思ってはいないよ。
ありがとう。
君に出会えて本当に僕らは幸せだったよ。
ありがとう。


君が今笑っている顔が見えるようだ。
そんなに悲しまないでって言ってくれているのかな。
何だかそんな気がする。
それでもやっぱり悲しくてね。


もう君は苦しんだりしなくていいんだね。
君が星になる日が近づいていた頃。
日々とてもしんどそうにしている姿を見るのが辛かった。
もうそんな苦しみは君には必要なく、不自由のない体を手に入れたんだね。


春の澄み渡った青い空。
君がいなくなったというのに、時の流れは一向にその歩みを止めることはない。
僕の心は、君がいた時のまま置き去りにされてゆくかのようだよ。
君の頭上にも、きっとこんな風な青空が広がっているのだろう。
そして真っ白な階段。
神様の元へと続く天国の階段だよ。


さあ。
もう何もためらうことなく、残してゆく僕らのことなんて気にしないで、思いっきり元気よく、その階段を神様の元へと駆け上って行って欲しい。
僕達と一緒にいる時には出来なかったことだね。
君の未来に沢山の祝福よあれ。


君の真っ直ぐな瞳。
今も僕らの心の中に。
ありがとう。
優しいね。
まだこっちを振り返って、しっぽを振りながら名残り惜しそうに見てる。
きっと僕達のことを心配してくれているんだね。


三六五日のマーチ。
僕の心の中には、君が生きて奏でたとても優しい愛のシンフォニーが鳴り響いているよ。
春夏秋冬の歌。


ワン、ワンと君が鳴く。
僕に戯れて来ている君。
君が生きた証の歌だよ。
僕のギターに合わせて一緒に歌ってくれるかな。
いつかまた会える日まで。
さようなら。



さあ。
もうお行きよ。


元気一杯に。
さあ。


天国の階段を、もう何もためらわず振り返らないで駆け上って行って欲しい。

七度目の春 序文

前回の散文に序文を書いてみました。




七度目の春 序文


311から七年もの月日が経過したのですね。
何度も繰り返して思いを伝えてきた内容と重複しますが、下手糞ながらにも新たに散文を書いたので紹介いたします。



正直に言えば、僕の伝えようとして来たメッセージというのは、社会的な流れに対しては焼け石に水だったような気がしています。
日本人の被曝の現状というのは、今どうなっているのでしょうか。
誰も本当のことを口にはしません。
暗黙の内に僕達日本人は、経済第一優先主義を選択して来たように思うのです。
311以降のこの七年間、その流れを食い止めることは誰にも出来ませんでした。
僕は今でも、そんな日本社会全体のあり方というものは間違っていたと思っています。
SNSでこのような内容の話をすると、多くの方がスルーの方向で流れて行ってしまいます。
皆心の底では共感する部分もあるのかもしれないけれど、社会的な場で自分の意思を示すことにとても強い恐れを持っているのです。
日本独特の村社会的な流れが、深く根付いていて関わっています。
簡単にいえば、仲間外れが怖いということでしょう。

今この時代に、正義や真実等というものは笑い草のような話になってしまっています。
やったもの勝ちの生存競争をいかに生き延びるかということばかりが優先されています。
だけど僕は、最後まで諦めたくありません。
表現者としての人生を選んだ自らの生き方に、絶望したくはないからです。
表現者としての人生とは、作品という虚構を通じて、世の中に真実を伝えるということだろうと思います。
それが表現者として課せられた義務であると信じています。
この日本を愛しているから。



本当の人の暮らしの幸せとは、一体どんなものだというのでしょう。
不安を不安だと口に出来て、怖いものは怖いと伝えることが出来て。
本音を語り合えて、寄り添い合うことが出来るような社会を僕は望みます。
だけど今のこの日本社会というものは、それとは真逆の世界になっています。
皆表情には笑顔を浮かべている人がとても多い気がしますが、笑いが何だか軽い気がしてなりません。
それはそれで平和だということに間違いはないのでしょうが。


大本営発表を鵜呑みにしてしまわないで、自ら情報収集をして、自分で考えて行動をし続けなければならないように思います。
大変な時代ですが、だからこそ魂の底に刻み込む教訓の意味も、とても大きなものになるに違いありません。


日本は必ず復活します。
そう信じて、土砂降りの雨の日もステップ!
未来へと希望の虹が架かるのを待つのなら、雨の日はつきものでしょう。
頑張りましょう。

七度目の春

311から七度目の春を迎えました。
一オクターブは七音。
一週間は七日。
虹は七色。
次元が切り替わる節目を示す、七という数字が浮かび上がっています。



経済第一中心主義は、完全に行き詰まることでしょう。
自然の理には反しているからです。
東北復興応援。
それを望みますが、食べて応援等、様々な資本主義社会による狂った思想統制には賛同は出来ません。
命が何かの危険に脅やかされながらの生活は、継続不可能としかいいようがないからです。


放射性物質による被曝の問題。
これが一番重要な事柄でしょう。
ですが、この日本社会はそこから目を背け続けてきました。
二〇二〇年開催予定の東京五輪に向けて、社会的な問題を誤魔化して来たのです。
大本営発表を信じるということは、本当に危険なことです。
勿論、正しいことも沢山していますが。


どこが嘘でどこが真実なのか。
それを一人一人が感じ取る能力というものこそが、本当に大切なことだという気がします。
国家の名の下で、僕らはどこかカルト教団の信者のような生き方になってしまっていると思うのです。
民衆にこそ力を!
僕達は自分の生き方を省みて、反省すべき事柄を受け止めながら、立ち上がらなければならないでしょう。


社会システム自体の見直しを!


僕がこの社会に一番言いたいのは、そのことです。
東北復興応援は当たり前のことです。
もしも自分が当事者ならばと考えてみれば。
日本中からの温かな支援がなければ、なかなか再生は難しいに違いなかったのでしょう。


だけど、あの311という国難は、ただ今まで通りに再生、復興という訳にはいきませんでした。
どう考えてみたって、福島第一原発事故による被害の実態を無視することは許されません。
あの事故は、社会システムの根幹を破壊してしまいました。
二〇二〇年の東京五輪は、昭和の時代の東京五倫とはまるで意味が違ってしまったのです。
それを社会的な場で真っ向から見つめ、語り合う議論の場が用意されてはいません。
経済を回すということだけが、とても重大視されてしまっています。
恐ろしい思想統制の動きを感じ続けて来ました。
既に破綻してしまっているシステムの中で、人々は更に競い合い、能力の優劣や生活水準の向上のことばかりを考えて続けて来たように思うのです。
音楽をやっていても、現場では実にそのような光景ばかりが、悲しくも僕の目には留まります。
欲望と柵の世の中です。


福島第一原発からは、延々と放射性物質が世界中へと撒き散らされ続けていきます。
今の技術では、それを食い止める術はないとされています。
今まで聞いたこともなかった新しい病気が生み出されていきます。
福島第一原発由来の放射性物質による健康被害の問題や、それに伴う賠償問題を逃れる為に、世の中の目を欺こうとしているのではないのでしょうか。
そんな風に世の中から言われてしまったとしてもしょうがないような、どこかきな臭い様々な社会的な事柄が登場して来ている気がしてなりません。
政府のやり方には、疑問点がとても多過ぎると言わざるを得ないというのが偽らざる気持ちです。
天気予報で放射性物質の現在の拡散状況を、何故情報開示しないのでしょう。
そのこと自体が可笑しいのです。
国民には事実を知る権利があります。
ですが、国民もまたその自分の権利自体を余り強く主張せずに来たように思います。
政府と国民との関係は映し鏡です。
無責任な国民だから、無責任な政府が存在しているというのが事実なのでしょう。


もうこれからは、そのような僕らの怠惰さというものが許される時代ではなくなって来ることでしょう。
社会はもう上手く行かないのです。
どんなに誤魔化そうとしてみても。
それは、例えばパートナーシップの間にも顕著に現れて来ます。
人々は互いに誠実に向き合わなければならない時です。
まずは身近な所から。
自分の都合の為に、僕らは物事を適当にして生きて来たのではないでしょうか。
もっともらしい言い訳を幾つ並べてみても、ほころびが目に付いて仕方がありません。


まだまだ働き盛り世代の若い人々の命が、唐突に消え去るのを目撃し続けています。
理由はこれだとは断言は出来ません。
証拠を上げるのが難しいからです。
ですが、福島第一原発事故による影響を考慮するのは、もはや当然のことだというしかないでしょう。


アニソンに緩キャラ。


僕も嫌いではないです。
ですが、幼児の文化に大人が本気ではまっているというのは、かなり危険な気がしてなりません。
勿論、趣味は自由だと思います。
ただ、余りにも度を越したノリに任せた生き方というものを感じている僕がいます。


メルヘンジャパン。


この文化的水準の衰退のあり様は、何故だというのでしょう。
大人が大人になりきれてはいないのです。
戦後の平和な暮らしが、僕達から考える能力を完全に奪い去ってしまったかのようです。
簡単便利の時代の残した負の遺産というべきでしょう。


苦労をして、青春時代に充分に葛藤をして来なかったツケが回って来ています。
これは大人として、とても恥ずべきことではないでしょうか。
大人達の幼児性への退行現象は、政治的無関心の実態として存在している姿なのではないでしょうか。
生き方に責任が伴ってはいないのです。
僕も偉そうに何かを言える立場ではありませんが、時代に対してとても危惧せずにはいられない気持ちでいます。


誰も責任を取らない社会。
皆、気が良くていい人ばかりですが、ジャパニーズリテラシーは今この辺にあるというのが事実なのではないでしょうか。



二〇一八年。
今年こそは、より良い未来の為の社会の再構築を望みます。
場渡り的な解決ではなく。

SYMPATHY

暖かくなって来ると、自然と部屋で過ごしている時に、ギターを持って曲作りをしようかなという気持ちになって来る。
流石に三月がやって来るだけのことはある。



二月は逃げるというけれど、本当に時間の経過が早い。
月に一度くらいはブログを更新しておこうかと考えているけれど、今はこれといって言いたいこともないみたいだ。
もう沢山、散文を書いて来たし。
散文は、届いていく人にはとても心に深く伝えられるものがあるみたいだ。
届かない人には、全く理解出来ないものになるのか、僕の心が益々見えなくなり、どう反応していいのか困ったといった反応が帰って来ることがある。
意識がズレると、一つの言葉が違ったニュアンスで響き出してしまう。
意に反して、すれ違ってゆく心。
歌っても歌っても、全く思いが届いて行かないと思う時もある。
そんな時は、もっと素晴らしい歌を作って歌いたいって、そんなふうに思う。
独りよがりな夢を見ているかのようで、音楽で伝えられることの限界みたいなものに、ふとぶつかったような気持ちになる。
僕はここにいて、こんな風に思っているよ。
ただそれだけのことが、何故目の前にいる人に届かないというのだろう。
歌作りとは、実にその葛藤の連続であるような気がする。



散文や音楽を通して繋がった人というのは、僕にとって本当に人生の大切な財産だなと、最近つくづくそう思う。
温かな気持ちで応援しようとしてくれていることが伝わって来るからだろう。
何て有り難い話なのだろうか。
そういう時は、自分の思いがまっすぐに届いたというような手応えを覚える。
ストレートな嘘のないコミニケーション。
それがロックンロールだろう。
そこで繋がっていく気持ちというのは、本物であると信じたい。
この社会に生きている以上、様々な価値観や考え方を受け入れる心の余裕を持っていなければならないと思う。
自分の未熟さに気付かせてくれる批判を、この体で受け止めたい。
ステージに立って歌うと、その人の本音の姿に触れた気がする時がある。
僕は、ストレートに自分の思いを歌にぶつける。
歌を聴いてくれている人達との間で、純粋な何かが響き合うような瞬間がきっとあるのだろう。


シンパシー。
僕を受け入れようとする者も、否定するしようとする者もいる。
だがその全てが、嘘偽りのない世界ヘと誰もを連れ戻す作用を生んでいる気がする。
そういった視点に於いては、全てが愛だといえるのだろう。


シンパシー。
そんな場所へと僕を導いてくれているロックンロールに、今日もありがとう。